国際平和協力リレー・メッセージ

国際平和協力リレー・メッセージ 第1回 明石 康さんの写真
<写真>シアヌーク殿下(右)と

1992年、我が国は国際平和協力法(PKO法)を制定し、国連PKOに協力する道が開かれました。当時明石さんは国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の特別代表をされていましたが、日本の国際平和協力をめぐる議論をどのように見ていらっしゃいましたか。

PKO法が採択されたのは1992年6月ですね。その前年には湾岸戦争があり、日本は多額の資金協力をしましたが、人的な貢献が不足していました。そこで、92年に与党はPKO法の採択へ向けて努力し、成立しました。国際社会における、または国連を通じての平和維持に、日本が参加していく第一歩となる法律が成立したわけです。それに基づいて自衛隊1個大隊と停戦監視員、文民警察要員がカンボジアの平和に参加できたことは、私としては非常に嬉しく、画期的なことでした。

日本にとって初めての国連PKOへの大規模派遣となるカンボジア国際平和協力隊ですが、振り返ってみていかがでしょうか。

1992年10月、プノンペンの王宮前で、国連PKO隊員のパレードがありました。国連旗と参加44か国の国旗の中に日章旗がまじっていたのを、非常に感慨深く見ていました。
UNTACは日本にとって若葉マークの国連PKO参加でしたが、日本だけでなく、中国やドイツにとってもそうでした。92年以降、各国の活動範囲はかなり広くなっています。
20年を振り返ってみて、初めはPKO法を制定して参加を決め、その後、法律の改正を経て当初凍結していた本体業務も実施できることになり、国際平和協力業務も自衛隊の本来任務として規定されました。武器の使用に関しても、かなり現実に即したものになったと思います。

国連PKO司令官(右)とラナリット殿下(左)に囲まれ、現地を視察する明石さん

ラナリット殿下(左)と国連PKO司令官(右)に囲まれ、
現地を視察する明石さん

プロフィール

明石 康さんの写真

明石 康

国際文化会館理事長

1931年秋田県に生まれる。1954年東京大学教養学部卒業。同大学院を経て、ヴァージニア大学、フレッチャースクール、コロンビア大学に留学。

1957年から国連事務局に勤務し、政務担当官、事務総長官房補佐官などを歴任。1962年から63年に職員組合委員長。1974年から79年まで日本政府国連代表部参事官、同公使、同大使を務める。1979年から国連事務次長(広報担当、軍縮担当、人道問題担当)。1992年から95年まで事務総長特別代表(国連カンボジア暫定統治機構、旧ユーゴスラビア平和維持担当)、1997年末退官。

現在はスリランカ平和構築及び復旧・復興担当日本政府代表、(財)国際文化会館理事長、(財)ジョイセフ(家族計画国際協力財団)会長、明石塾塾長などを務める。

主な著書に『国際連合―軌跡と展望』(岩波新書)、『戦争と平和の谷間で―国境を超えた群像』(岩波書店)、『「独裁者」との交渉術』(集英社新書)など。

著書『忍耐と希望』の中で、カンボジアの紛争後初めての選挙の日、視察中の明石さんと現地女性の「未来に対してどんなものを期待するか」「私が期待するのは平和と道路だ」というやりとりが印象的でした。

我々は平和というと、何か空気のような、直接には感じないもののように考えるかもしれませんが、カンボジアの人々にとっての平和は、抽象的、観念的なものではなく、日々の食事であり、交通であり、道路が修理され、橋が架けられ、学校や病院が造られることで、身近なもの、生活そのものなんですね。そのことを、平和慣れした日本人は、想像する力が必要だと思います。
東日本大震災の後、日本の若い人たちが親身になって被災者に協力する姿が、世界中の人を感激させたと思います。そして、他の国の人に支援してもらったり、また応援してもらったり、そういう人類的な絆の中に我々は生きているわけです。日本よりも更に不安定な状態にある場所で起きていることについても、国際社会の構成員である日本人として、国連PKOを通じて、またその他の形ででも、そうした国ないしは地域に対して、日本人らしい形で、こちらの連帯感を示すことがあっていいと思います。
アフリカなどで、日本人の特に女性が、単独で頑張っているのは大変素晴らしいことだと思います。自衛隊員や文民警察要員とは違った次元で個人なりNGOが世界を股にかけて活躍していることを、忘れてはいけないと思いますね。

  • 武装解除した兵士たちと歓談する明石さんの写真
    武装解除した兵士たちと歓談する
  • シアヌーク殿下と明石さんの写真
    シアヌーク殿下と

カンボジアPKOに関し、何か印象に残っているエピソードなどはありますか。

明石 康さんの写真

カンボジアPKO終了後、天皇皇后両陛下に御報告し、お話しする機会があったときに、皇后陛下が、冷戦後、御自分が一番鮮明に深い印象をお受けになった、二つのエピソードがあるとおっしゃいました。

一つはベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一したこと。もう一つは、1993年5月にUNTACが自ら企画、実施した民主選挙が行われ、カンボジアの有権者の90%が、嬉々として、女性は一番の晴れ着を着て、投票所に出かけた。その姿を見て、自分は大変感動したとおっしゃったことを聞いて、非常に嬉しく思いましたね。

明石さんは2002年には政府「国際平和協力懇談会」において座長を務められましたが、日本が国際平和協力に参加するにあたって、どのような課題があると思われますか。

国連PKOにおいては、平和維持に限定されてきた役割が拡大し、90年代中頃以降、国連がソマリア、ルワンダ、旧ユーゴスラビアなどで様々な問題に直面し、それを基に2000年8月にブラヒミ報告書が発表されました。PKOを状況に応じて拡大強化するために必要な予算や人員を措置する必要があるということについても、ブラヒミ議長は報告書に盛り込みました。国連PKO三原則のひとつである中立原則も、当事者の行動を見たうえで善悪を判断する必要があります。また、自衛原則も、国連の任務遂行のために、どこまで自衛的な武器の使用が許されるのかと問うている。そういう意味ではPKOはいつも同じようなものではあり得ないのであって、状況の変化に応じて、例えば武器の使用に関しても、変化をしてきたわけですね。
2002年、「国際平和協力懇談会」は、有識者で提言をまとめました。日本は憲法のもとで行動するのは当然ですが、国際的に承認されている線までは協力できるのではないか。紛争後の平和構築へのODA(政府開発援助)の活用を含めた協力、文民・NGOの平和活動への参加、国連PKOのみならず、幅広い多国籍軍的な活動への参加も取り上げました。憲法の前文にある、国際社会で名誉ある地位を占めたい、という我が国の願望・ビジョンから考えて、やるべきことは多いという意見が、報告書に盛り込まれています。

現在南スーダンハイチ東ティモールゴラン高原で日本の国際平和協力隊員が活躍しています。また、今後、国際的な場で活躍しようとしている若い方もいますが、こうした方々へのメッセージをお願いします。

明石 康さん

様々な国の様々な状況の下で国際平和協力活動に従事している人は大変にご苦労だと思いますが、日本では味わいたくても味わえない貴重な経験です。そういう意味では義務感とプライドをもって行動してほしいと思いますし、また、日本人の一人として、彼らに心から感謝したいですね。
将来的にそうした仕事を目指す若い人は本当に素晴らしいと思うし、内向きという話がされることもありますが、日本の外に出て他流試合に挑みたいという、日本人としての気概を持った人は多いと思います。国民の一人として、国際社会の一員として、こういうことをやりたいんだという、意欲、気構えがある人には、ぜひともチャンスを見つけて経験を積み、飛躍を目指してほしいと思います。

2012年4月5日、国際文化会館にて
聞き手: 山﨑 松太郎、相原 泰章、堀川 拓郎
撮 影: 堀川 拓郎

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「国際平和協力リレー・メッセージ」では、国際平和協力法制定20周年を記念し、国際平和協力に関係のある著名人や元国際平和協力隊員の方々からのメッセージを掲載しています。