第37回 「ルバンガ事件」@PKOなう!

本コラムにある意見や見解は執筆者個人のものであり、当事務局及び日本政府の見解を示すものではありません。

2012年12月21日
国際平和協力研究員
しも まさこ
志茂 雅子

 2012年3月、国際刑事裁判所 (以下、ICC) 始まって以来の初めての判決が出ました。ルバンガ (Thomas Lubanga Dyilo) が、子ども兵士関連の罪で有罪となり、同7月に禁固14年が言い渡されました。本稿ではまず簡単にICCと「ルバンガ事件」について概観し、子ども兵士関連の罪がICCの初判決となったことの意義につき、考えてみたいと思います。

国際刑事裁判所 (ICC) とは

 ICCは、個人の刑事責任を問う国際的に初めての常設機関として、2002年7月に設立されました。個人の刑事責任を問う法廷は、古くは第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判や東京裁判に遡ることができます。もっとも、近年、旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)そしてシエラレオネ特別法廷(SCSL)と立て続けに国際的な法廷が設置されました。冷戦が終結した1990年代以降、世界に内戦や虐殺が勃発し、市民の犠牲が多くなってきたこと、また犯罪を不問に付す風潮に対し国際的に批判が強まってきたことなどが設置の理由にあげられます。

 それらの国際的法廷は、アド・ホックなもので、管轄する時期・場所が限定されています。それらの国際的法廷の流れを汲みつつ、初めて常設の国際法廷として設立されたのがICCであり、そこにICC設立の大きな意義があります。特にICCの初公判・初判決となった「ルバンガ事件」は世間の耳目を浴びることとなりました。

「ルバンガ事件」

 ルバンガはコンゴ民主共和国(以下、DRC)の東部イチュリ県の軍閥で、ICCが依拠する国際刑事裁判所に関するローマ規定(ローマ規定)に定められている15歳未満の女児や男児を徴募し、使用した容疑DRC政府からICCに引き渡されました。

 ICCとしての最初の公判ということもあったからなのでしょうか、この裁判はなかなか一筋縄ではいかず、被告のルバンガが手続き上の理由から釈放されそうになったり、関係者はハラハラのしどおし、と言ったところだったでしょう。結局、2006年にルバンガがICCの所在地ハーグに移送されてから、6年もかかる長期戦となってしまいました。

 検察は捜査によって上がってきた証拠の中から、一番手堅い証拠が揃っていると判断した子ども兵士の徴募・使用に焦点をしぼり、この一点に集中して裁判を争いました。検察としては不完全な証拠しか揃っていない複数の罪状で争うことによる裁判の遅延を恐れたためと言われています。皮肉にも、そのような検察の戦略にも関わらず、裁判が長期にわたったことは、ある意味皮肉であると言わざるを得ません。

「ルバンガ事件」に対する評価

 それでは、ここで改めて「ルバンガ事件」に対する意義や批判について考えてみたいと思います。まず意義を見てみますと、ICCとしての初判決が子ども兵士関連の罪状になったこと、即ちアフリカを中心に横行している子ども兵士の徴募や使用が違法であることを明確に打ち出したことの意義は大きいものと考えられます。確かにシエラレオネ特別法廷(SCSL)でも子ども兵士関連の罪は大きく取り上げられ争点となりました。もっとも、常設の国際法廷で更に違法と認められたことは、子ども兵士を依然として徴募・使用している武装勢力に対し、強いメッセージを送ったものと考えられます。

 その反面、アフリカのメディアや学界から様々な批判があがっています。批判は、捜査方法(特に証拠集めの方法)、他の殺人等の重要犯罪を不問に付したこと、特に性的犯罪を不問に付したこと等に向けられています。ICCに対する期待が高ければ高いほど、限られたスタッフで対応を強いられる検察の受ける重圧は大きかったにちがいありません。

 なお、ルバンガ、検察の両方が上訴をしています。今後とも子ども兵士について争われている「ルバンガ事件」に注目していく必要がありそうです。