第116回 国際平和協力法が成立するまで

本コラムにある意見や見解は執筆者個人のものであり、当事務局及び日本政府の見解を示すものではありません。

  • 2022年7月26日
  • 国際平和協力研究員
  • さとう まお

  • 佐藤 真央

はじめに

 2022年6月、「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(いわゆる国際平和協力法)」が成立してから30年を迎える。2018年に内閣府が実施した世論調査によると、「これまでの自衛隊の海外での活動について、どの程度評価していますか」という問いに対し、87.3%が「評価する」と回答し、「自衛隊による国連平和維持活動(PKO)への参加や国際緊急援助活動などの『国際平和協力活動』について、今後、どのように取り組んでいくべきだと思いますか」という問いに対しては、20.6%が「これまで以上に積極的に取り組むべきである」、66.8%が「現状の取り組みを維持するべきである」と回答している [1]。国際平和協力法が成立した2年後の1994年の世論調査では、5.7%のみが国際貢献を自衛隊の任務と認識していた[2]ことに鑑みると、こうした今日の世論の姿勢は決して自明なものではない。本稿では、国際平和協力法成立30周年という節目の年に、この法律が成立するに至るまでの歴史的経緯を簡単に振り返ることとする。

憲法9条と自衛権論

 戦後の日本においては、自衛隊が海外で活動することに対して国民の抵抗感が色濃く残っていた。こうした抵抗感は、いかに安全保障と憲法の整合性を図るかという形で、国会における争点となった。1954年には「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」が参議院で議決されるなど、自衛隊の海外派兵だけでなく、自衛隊が海外で活動することに対して国民や国会の強い警戒感が残っていた[3]。ただし、国連軍への協力という文脈での海外派遣については、正面からは論じられなかった[4]
 武力行使を伴わない自衛隊の海外出動をいかにして実行に移すかは課題であった。1956年に日ソ国交正常化を経て日本は国連への加盟を果たし、当時の岸政権は日本外交の三原則として「国連中心」、「自由主義諸国との協調」、そして「アジアの一員としての堅持」を掲げた[5]。だが、1958年には国際連合レバノン監視団(UNOGIL)への要員派遣が提案国である日本に対して要請されたものの、日米安保条約改定の時期等に鑑み、派遣は実現せずに終わった[6]。この時の安保条約改定をめぐる一連の国会でのやり取りは、後に防衛政策よりも経済成長を最優先とする吉田路線を定着させる要因になったと指摘されることもある[7]。ただし、平和目的での自衛隊の海外派遣は合憲との考え方については、その萌芽が示されていた[8]

人的貢献論

 1970年代後半頃になると、様々な理由から世論に変化が見られ始める。経済成長を遂げた日本が国際貢献することへの期待と、ベトナム戦争をめぐる米国の立場と日米同盟のあり方、冷戦の高まりから終結に至るまでの国際情勢の変化等が影響し、日本がもっと国際平和へ人的に貢献すべきであるという風潮が訪れる[9]。また、70年代前半では沖縄が日本に返還され、日中国交正常化が実現したことで、戦後処理に一定の目処がついたと考えられた[10]。こうしたことも世論に変化をもたらすきっかけとなったのであろう。
自衛隊の海外派遣に対しては依然として厳しい意見が残る中、日本政府は、自衛隊以外の派遣を前提とする国際緊急援助隊法に基づく構想を模索した。こうした構想の基盤となったのは、いわゆる「総合安全保障」という考え方であり、防衛に限らず経済や食料、通信やエネルギー問題など幅広い分野での国際秩序の安定に貢献することを念頭としたものであった[11]。当時、日本の周辺で起きたインドシナ難民やカンボジア難民への人道医療支援は、この構想と同じ文脈に基づいて実行された。これは日本が災害等の海外における緊急事態に人的に貢献するきっかけとなった。
 そして1980年代末には、ついにPKOに自衛官以外の要員を派遣することとなる。88年には国連アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション(UNGOMAP)に政務官1名を、89年には国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)に選挙監視要員27名を派遣した[12]。この段階では、外務省設置法や「国際機関等に派遣される一般職の国家公務員の処遇等に関する法律」(派遣処遇法)に基づき、要員を外務省員とした上で現地に派遣する形をとった[13]
 その後も、このような形でのPKOへの要員派遣は繰り返しなされた。しかし、こうした海外での平和維持活動に自衛隊が参加することは、依然として慎重に扱われた。冷戦が終結してPKOがより積極的に紛争解決や復興支援などの役割を担うようになる中で議論され続けたのは、いわゆる「国連軍」への自衛隊参加の合憲性であった。後に国際平和協力法が制定されるにあたり、「PKO参加五原則[14]」が盛り込まれる背景となったのは、1980年10月28日付けの以下の政府答弁書であった[15]
「いわゆる『国連軍』は、個々の事例によりその目的・任務が異なるので、それへの参加の可否を一律に論ずることはできないが、当該『国連軍』の目的・任務が武力行使を伴うものであれば、自衛隊がこれに参加することは憲法上許されないと考えている。これに対し、当該『国連軍』の目的・任務が武力行使を伴わないものであれば、自衛隊がこれに参加することは憲法上許されないわけではないが、現行自衛隊法上は自衛隊にそのような任務を与えていないので、これに参加することは許されないと考えている。」[16]
武力行使を伴わない自衛隊派遣の可能性は繰り返し議論された。同政府答弁書は、「海外派兵」と「海外派遣」の違いについて、以下のように説明している。
「従来、『いわゆる海外派兵とは、一般的に言えば、武力行使の目的を持って武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣することである』と定義づけて説明されているが、このような海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。(中略)これに対し、いわゆる海外派遣については、従来これを定義づけたことはないが、武力行使の目的をもたないで部隊を他国へ派遣することは、憲法上許されないわけではないと考えている。しかしながら、法律上、自衛隊の任務、権限として規定されていないものについては、その部隊を他国へ派遣することはできないと考えている。」[17]
こうした議論が繰り返される中、1990年に起きたイラクによるクウェートの侵攻から始まった湾岸危機に対して、数々の国連安保理決議が採択された。米国を中心とした多国籍軍が展開するにあたり、日本国内においても人的・物的協力を行うべきであるという議論が高まった。特に日本は、多国籍軍の後方支援という形で、米国から様々な派遣要請を受けていた。しかし日本政府の対応は、安全を確保した上での自衛隊以外による非軍事の輸送協力、物資協力、資金協力といった形での後方支援を実施するに留まった[18]。こうした支援に対しては一定の評価は得られたものの、米国議会や米国メディアからの不満は顕著に現れていた。
 こうした背景から、外務省が主導するかたちで「国際連合平和協力法案」が国会に提出され、自衛隊の部隊を含む公務員などにより平和協力隊を構成し、武力行使をしない前提の下での1,PKOへの参加・協力及び2,後方支援活動に従事する任務・権限を与えることなどが法案に盛り込まれた[19]。この時、武力行使目的の多国籍軍への自衛隊の参加の可否が問題となり、国連軍への「参加」に至らない「協力」で、武力行使と一体化しないものは合憲とする旨の統一見解が示された[20]。この見解の下、多国籍軍による武力行使と一体化しない支援活動は合憲とされたものの、他国による武力行使との一体化に係る明確な判断基準を示すことは難しいとされた[21]。こうしたこともあり、最終的にこの法案は衆議院で廃案となったが、基本的な骨格や重要要素は、後に国際平和協力法に活かされることとなったのである。

自衛隊の海外派遣の実現

 1991年の湾岸戦争の勃発により、再び自衛隊の海外派遣が検討される機会が訪れる。1991年4月26日、湾岸戦争の停戦を受け、自衛隊法第99条(当時)に基づき、海上の遺棄機雷除去任務を行うために戦後初めて自衛隊の掃海部隊6隻がペルシャ湾に派遣されることとなった[22]。この決断が下されるにあたり重要となったのは、停戦が合意され、そして戦争が終結する段階での派遣だったことである。また、当時ドイツが日本に先立ってペルシャ湾で掃海艇支援を実行するに至ったことは、日本の国会での議論に影響を与えた[23]。さらには、駐米クウェート大使が湾岸戦争における支援国に対する感謝を示す広告をメディア掲載するにあたり、日本が含まれていなかったことも、人的支援が必要であるという国内の議論を再燃させた[24]。ペルシャ湾での任務が犠牲者を出すことなく成功したことは、自衛隊の海外派遣に対する国内外での評価を高め、政策として定着するきっかけを作ったのである。

国際平和協力法の成立

 自衛隊のペルシャ湾派遣に対する肯定的な世論が後押しするかたちで、再び自衛隊のPKOと国際緊急援助への参加が議論され始める。1991年9月、主にPKOへの参加と人道的な国際救援活動を中心的任務とする「国際連合平和維持活動等への協力に関する法律(国際平和協力法)案」が臨時国会に提出された[25]。衆議院で約90時間、参議院では100時間強の時間をかけて議論されたのち、停戦監視などの一部任務は別途法律で定める日まで実施しない旨(PKF本体業務の凍結)を加え、1992年6月、国際平和協力法が成立したのである[26]。同時に、国際緊急援助隊に自衛隊を参加させる国際緊急援助隊法の改正も行われた。その背景には1,大規模な援助隊派遣、2,被災地における自給自足体制、3,輸送手段の改善といった必要性があった[27]。その後、国連PKOの任務が時代に即して拡大し、多様化され、質的に変化するなかで、国際平和協力法も上記凍結解除や武器使用による防御対象の拡大等のため、繰り返し改正され今日に至る[28]

おわりに

 自衛隊の海外派遣の歴史を振り返ると、国際情勢の変化とともに人的貢献の意義が尊重され、日本が国際平和に対して貢献できることが常に模索され続けてきたことが分かる。今後も、紛争のあり方や情勢の変化に応じて国連平和維持部隊のミッションやマンデートが変化する過程において、常に日本の貢献は模索され続け、実績として積み重なっていくのであろう。


[1] 内閣府大臣官房政府広報室「平成29年度自衛隊・防衛問題に関する世論調査」
https://survey.gov-online.go.jp/h29/h29-bouei/gairyaku.pdf
(最終アクセス:2022年4月11日)

[2] 内閣府大臣官房政府広報室「平成6年度自衛隊・防衛問題に関する世論調査」
https://survey.gov-online.go.jp/h05/H06-01-05-14.html
(最終アクセス:2022年4月11日)

[3] 加藤博章『自衛隊海外派遣の起源』(勁草書房, 2020年)3頁。

[4] 香西茂『国連の平和維持活動』(有斐閣, 1991年)480、483頁。

[5] 阪口規純「国連の集団安全保障と日本――国連軍参加に関する政府解釈の変遷」国際公共政策研究3巻2号(1999年)54頁。

[6] 加藤・前掲注(3)38頁。

[7] 加藤・前掲注(3)41頁。

[8] 第28回国会衆議院内閣委員会第22号(1958年3月28日)6頁〔林修三法制局長官答弁〕、第34回国会衆議院日米安全保障条約等特別委員会第28号(1960年5月4日)24頁〔岸信介内閣総理大臣答弁〕等。

[9] 加藤・前掲注(3)44-49頁。

[10]  濱川今日子「日中国交正常化以降の日中関係」アジア情報室通報第10巻第3号(2012年)
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3539774_po_bulletin10_3.pdf?contentNo=1
(最終アクセス日2022年7月4日)

[11] 加藤・前掲注(3)39,66頁。

[12] 外務省編『外交青書 1997(第1部)』(大蔵省印刷局, 1997年)369頁。以下でも閲覧可能である。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/97/1st/369.html
(最終アクセス:2022年5月1日)

[13] 黒﨑将広ほか『防衛実務国際法』(弘文堂, 2021年)651頁〔酒井啓亘〕、浅田正彦「PKO/PKO協力法」法学教室257号(2002年)2頁。

[14] PKO参加五原則とは、1,紛争当事者の間で停戦の合意が成立していること、2,平和維持部隊が活動する地域の属する国を含む紛争当事者が当該平和維持部隊の活動及び当該平和維持部隊への日本の参加に同意していること、3,当該平和維持部隊が特定の紛争当事者に偏ることなく、中立的な立場を厳守すること、4,上記の原則のいずれかが満たされない状況が生じた場合には、日本から参加した部隊は撤収することができること、5,武器の使用は、要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られること、を示す。

[15] この答弁書にいう「国連軍」は、正規の国連軍のことではなく主としてPKOを指しているとされる。小松一郎『実践国際法(第2版)』(信山社, 2015年)445頁。

[16] 稲葉誠一衆議院議員提出の質問主意書に対する1980年10月28日付け政府答弁書。
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/b093006.html
(最終アクセス:2022年4月28日)

[17] 同上。

[18] 加藤・前掲注(3)139-141頁。

[19] 小松・前掲注(15)447頁。

[20] 第119回国会衆議院国際連合平和協力に関する特別委員会第4号(1990年10月26日)25-26頁〔中山太郎外務大臣答弁〕。

[21] 田村重信編著『新・防衛法制』(内外出版, 2018年)541頁。

[22] 小松・前掲注(15)446頁。

[23] 加藤・前掲注(3)166頁。

[24] 同上。

[25] 廃案となった国連平和協力法案との違いは、1,平和維持隊本体への協力を可能としたこと(ただし凍結)、2,多国籍軍への後方支援を含めていないこと、の二点である。内閣官房国際平和協力の法体制整備準備室「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(国際平和協力法)の成立」法律のひろば45巻9号(1992年)45頁、上原孝史「国際平和協力法(PKO法)の成立――国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(平4・6・19公布 法律第79号)」時の法令1433号(1992年)27頁。

[26] 小松・前掲注(15)448頁。

[27] 詳細は、岩井文男「国際緊急援助隊への自衛隊の参加を可能に――国際緊急援助隊の派遣に関する法律の一部を改正する法律(平4・6・19公布 法律第80号)」時の法令1433号(1992年)51-53頁。

[28] 黒﨑ほか・前掲注(13)652頁〔酒井〕。