海を越え、時を越える、野口英世博士~ メキシコに存在する2つの野口英世博士像と日・メキシコ親善 ~

 野口英世博士と言うとアフリカのイメージが強いかもしれませんが、メキシコのユカタン州メリダ市には地元の人々から愛され続けている、野口博士の銅像があります。野口博士は黄熱病の研究と撲滅のための医師団として1919年にロックフェラー財団からメキシコへ派遣されました。3か月の滞在でしたが、渡航中に覚えたスペイン語を巧みに操り、丁寧に指導してくれた野口博士の事をメキシコの人たちは忘れてはいませんでした。

 時は流れて1961年、玉川学園創立者である小原國芳氏が国際会議のためメリダ市を訪れ、野口博士から直接に指導を受けたメキシコ人医師と出会い、日本からメキシコへ野口博士の銅像を贈る約束をしました。

 その後、総勢40名にも及ぶ玉川学園の生徒たちにより結成された日本・メキシコ親善使節団が、メリダ市の銅像除幕式へ招待され、演劇・歌・伝統舞踊などを通じてメキシコ各地で日本文化を紹介し、大喝采を浴びました。素晴らしい演技はメキシコの人を感動させ、メキシコに住む日本人を勇気付けたばかりではなく、日本とメキシコの関係強化の点からも大成功を収めました。

 現在銅像はメキシコで文化財登録をされており、玉川学園創立80周年の国際貢献事業の一つとして銅像の修復が計画されました。今でも愛され続けている野口博士の銅像と修復について、メキシコ出張から帰られたばかりの玉川学園・平田正敏元理事にお話を伺いました。

(インタビューは2012年9月24日に行われました。)

 

 
平田正敏 玉川学園 元理事
平田 正敏
玉川学園 元理事

昭和19年
大分県耶馬渓にて生まれる
昭和44年4月 1日
玉川学園入職
昭和63年4月 1日
同秘書室長
平成 8年7月25日
学校法人玉川学園評議員
平成13年4月 1日
学校法人玉川学園理事

小原記念館においてインタビュー中の平田氏(写真提供:玉川学園)
小原記念館においてインタビュー中の平田氏(写真提供:玉川学園) 

メリダ市に存在する二つの野口英世博士像
今もメキシコの人々に愛され続けている野口英世博士

メキシコのユカタン州メリダ市旧オーラン病院跡地には、玉川学園から贈られた野口英世博士の銅像があるそうですが、銅像を贈った経緯についてお聞かせください。

メリダ大学旧オーラン病院(現在のユカタン医科大学)で行われた、野口英世博士の銅像の除幕式の様子 メリダ大学旧オーラン病院(現在のユカタン医科大学)で行われた、野口英世博士の銅像の除幕式の様子
メリダ大学旧オーラン病院(現在のユカタン医科大学)で行われた、野口英世博士の銅像の除幕式の様子
(写真提供:玉川学園)

平田元理事:昭和35年に玉川学園の創立者小原國芳が、メキシコの世界大学協会の会議に日本代表として出席しました。その会議が終わった後、メリダに野口英世博士の研究した病院があるから見て来なさいと勧められ、その地を訪れました。メリダにはユカタン州のオーラン病院があり、そこで野口博士が黄熱病の研究をされました。その時、野口英世博士の下で勉強をされた親日家のお医者さん、ビイヤヌエバ先生がいて、小原を案内して頂きました。ビイヤヌエバ先生が「たびたび日本から見学に来られる方がいらっしゃるので、野口英世博士の銅像が欲しいとお願いしているのですが、なかなか送ってもらえません。小原さんどうですか?贈って下さい。」と小原にお願いをすると、小原も分かりました、という事で約束をして帰ってきました。

 玉川学園には幼稚園から大学までありますが、宗教教育として毎週礼拝を行っています。小原はメキシコ訪問帰国後、野口英世博士の業績を紹介するためにメキシコの方が銅像を欲しいとおっしゃっているので作ってあげようと呼びかけ、礼拝で献金を集め銅像を作成し、翌年3月には玉川学園へメキシコ大使を招き、大使に贈呈をさせて頂きました。その後、メキシコのユカタン州知事から、玉川学園の生徒さん達に来て頂いて、贈呈式をしてもらいたいという招聘を受けて、昭和36年6月には小学部生、中学部生、高等部生、大学生、教職員総勢40名で、メキシコ・メリダを親善訪問して贈呈式が挙行されました。日本の歌や舞踊の公演を行い、その後メキシコ各地で文化交流を実施しました。

 小原も夢を持つ教育者でしたので、参加した生徒・学生たちには一生の思い出を作ってあげなきゃいけないなと、現地の方にお願いをして、メキシコ大統領を表敬できるチャンスを作って頂きました。大統領に拝謁を賜り、40人の生徒たち一人一人と握手をして歓迎をして頂きました。そしてメキシコシティーの由緒ある国立劇場で公演をさせて頂き、非常に大盛況の中、交流が出来ました。

 昭和40年には現地でお世話をして頂いたビイヤヌエバ先生を、小原が日本へ招聘して、野口博士の故郷の福島や京都など色々ご案内して歓待しました。メキシコでは大統領にお会いする機会を頂いたという事で、日本政府からお礼の勲章を差し上げる事が出来ました。皇太子殿下や佐藤栄作総理にも拝謁賜り、ビイヤヌエバ先生も大変お喜びになって帰られました。10年後の昭和51年にはメキシコ大統領から、小原が勲章を頂きました。それは小原が亡くなる1年前のことでした。

 それからしばらく交流が途絶えていたのですが、昭和60年にメキシコ大地震が起こり、玉川学園としても昭和35年からのご縁がありましたので、毎週礼拝献金を募って、クリスマスの頃には色々な施設に献金しておりましたが、特にこの年9月にはメキシコ大使館に小・中・高・大学生の代表がお見舞金を届けました。その後、メキシコ大統領の特使として石油公団の総裁が、日本の政府、財界等にお礼にいらしたのですが、学校関係として玉川学園にもお越しになりました。

銅像の修復を行う事になったきっかけについて教えてください。

オリジナルの銅像    レプリカの銅像
オリジナル(左)とレプリカ(右)(写真提供:玉川学園)

平田元理事:ある時、昭和35年の親善使節団の学生としてメキシコへ参加した方が、定年退職し、思い出として友人と一緒にメリダを訪れ、「ちゃんと銅像がありましたが、大分古くなっていて、銘板の字も読みづらくなっているので何とかしてもらえませんか?」と提案してくれました。

 その頃既に贈呈してから50年近く経過していたので、銅像も痛んできていました。数年後に玉川学園が創立80周年を迎える頃でしたので、創立者の小原國芳が亡くなって30年ということもあり、先人の残した銅像を少しでも修復できるならしよう、という事になりました。玉川学園には小原國芳学術奨励金という基金があるので、その奨励金を使用して大学の機関である教育博物館の学芸員に調査をしてもらいました。調査の結果、銅像・銘板・土台は少し痛んでいるので、修復した方が良いだろうという結論になりました。

 この時の調査で分かったのですが、レプリカの像がもう一つありました。ユカタン州立自治医科大学の中に野口英世博士地域研究センター(以下、研究センター)があります。研究センターが出来た時にユカタン州に交渉して、野口英世博士の名前を掲げている研究センターなので、銅像を貰えないかと相当呼びかけたそうですが、文化財として大事な物なのであげられないがその代わりにレプリカを作って良いですよ、という事になり2008年頃にレプリカの像が制作されたようです。

メキシコで野口博士の銅像は、レプリカが制作されたり、文化財にするほど、大切にされていたわけですね。

平田元理事:私たちが最初に手掛けた事は、寄贈した銅像の銘板と台座の修復をする事でした。5年前に私がユカタン州知事さんとお会いし、厚生局長等関係者と相談の上、修復の了解もいただいていました。銅像が州の持ち物になっていた事は判明していたのですが、文化財になっているとは知りませんでした。5年前の調査の結果、銘板も金属ではなく、陶板であれば半永久的だから良いだろうという事になりました。諸手続きに時間を要して銘板を送り出すまで10か月ほどかかりました。また現地で銘板が行方不明になっていました。州政府に調べて頂いたけれど、どこにあるか分からず、日本大使館にお願いして調べてもらったら、研究センターの所長が部屋で1年ほど預かっていた事が分かりました。ユカタン州の厚生局は、研究センターに送ったようです。所長さんはどうしてよいか分からず、保管をされていたとのことです。

オリジナルの像に設置するために新たに作成された陶板は、在メキシコ日本大使館より贈られた野口博士の写真と共に展示されています。
オリジナルの像に設置するために新たに作成された陶板は、在メキシコ日本大使館より贈られた野口博士の写真と共に展示されています。
(写真提供:玉川学園)

 本物(オリジナル)の修復に関しては、国の機関・州政府に尋ねてみないと分からないので、研究センターの所長さんと州政府に行ってみた所、文化財の登録がされているので簡単に作り変えられると困るということでした。旧オーラン病院の建物が現在もあり、建物と銅像も含めて全て文化財として保存されているようでした。修復には文化庁の了解を得なくてはという事になり、ユカタン州立医科大学の学長と所長の連名で、銘板と台座は交換できるよう折衝をお願いしているところです。9月1日付でユカタン州知事もメリダ市長も変わり、少しお待ちくださいという状況です。50年前に贈った像は文化財で手を入れる事が出来ないので、レプリカの像に何かお手伝いをさせて頂く状況になっています。50年前に寄贈した野口英世博士像を文化財までにして頂いて感謝しています。

医療と教育の垣根を越えた協力
「野口英世」の名前を持つ、メキシコの研究所の今

野口英世博士地域研究センターのレプリカの像について玉川学園が協力をされている事について教えてください。

平田元理事:研究センターでは医療だけではなく、地域医療と教育、特に子どもの教育を重視しています。子供の教育のためには母親の教育をしなくてはいけない。研究センターでは医療とお母さんたちの教育に、子供の教育を結び付ける取り組みをしています。日本を含めた、世界からも先生方が参加しています。恵まれない国では、親の教育を認識させないと、子どもの病気も撲滅出来ません。研究会には世界中から先生がいらっしゃるので、野口博士の業績を紹介したいという希望がありました。5年前にメキシコへ行った直後に野口英世アフリカ賞の事を知ったのですが、学長は野口博士はアフリカだけではなく中南米でも活躍されたので、メキシコの人たちも感謝しています、野口英世という名前で賞を行うならば、中南米からも候補をあげられたらとお話をしていました。

2011年第36回研究会のポスターにも野口博士が使用されている。
2011年第36回研究会のポスターにも野口博士が使用されている。
(写真提供:玉川学園)

メキシコの地元の方の反応はいかがですか?

平田元理事:メキシコシティー在住の日本人の方、旅行会社経営の方、現地学校の役員の方等は、メリダの野口英世博士の過去の活躍、また50年前に玉川学園がメキシコと日本(玉川学園)の親善交流があったことを大変有難く思っていることと、日系社会にもこのようなニュースを伝えてほしいと希望される人が多くいらっしゃいます。メリダでは今でも野口博士に愛着を持って下さるようです。ただメリダには日本人がほとんどいないですね。玉川学園の農学部の卒業生でメキシコに移住している夫妻がいて、その二人に通訳もお願いしたのですが、母校が日本とメキシコの親善をしている事や、野口英世博士の銅像を贈った事について、もっと日系社会にもアピールして欲しいとの要望を受けたので、資料やメキシコ親善旅行記の本を置いてきました。大使館の文化広報や、JICAの人たちも協力をしてくれているようです。もう少しメリダに日本人の方が多ければもっと話題になったのでしょうが、今はあまりいないようです。250キロほど離れた所にカンクンという観光都市があって、日本からの観光客も行くようです。メリダにはマヤ文明の遺跡はあるのですが、日本人の旅行者はあまり行かないようです。元オーラン病院の道の反対側に研究所があって、50年前に贈った像もレプリカ像も近くにあります。オーラン病院は新しい建物が出来て、古い建物は厚生局が使用していて、使用は可能ですが、文化庁の指定を受けているので、改装する事は出来ないようです。

今後のメキシコとの交流の可能性について教えてください

平田元理事:野口英世博士地域研究センターでは研究会の際に、日本からも研究者を招待するなど交流を続けてくれています。野口英世地域医療研究所の所長は親子で所長をされているようです。医療だけではなく、教育者の方の講演もして頂けるとありがたいとお聞きしましたので、特に福島県の教育長さんや小学校や中学校の校長先生も呼んで研究会に出て頂けば、と提案をしてきました。医療も教育も家庭の協力が必要です。教育関係者とお医者さんが一体となる事が大事ではないでしょうか。

夢という字に一角多い、大きな夢を
真剣に物事を取り組んで行えば、人は応援してくれる

野口博士は玉川学園の卒業生でも無いですし、特にゆかりは無いと思うのですが、なぜ小原先生は野口英世博士の銅像をメキシコへ贈ろうというお気持ちになられたのでしょうか?

玉川学園創立者 小原國芳氏
玉川学園創立者 小原國芳氏
(写真提供:玉川学園)

平田元理事:小原はおじいさんが寺子屋など開いて裕福な家の生まれでしたが、事業が失敗し、中学にも行けない苦しい生活をしました。明治20年生まれで、日露戦争の時代に鹿児島県の大浜電信所で働きました。勉強をしながらお金を貯めて、鹿児島の学校に行ったという苦しい経験があったので、色々な事で世のため、人のために何かをしたい、という強い思いがありました。真剣に物事を取り組んで行えば人は応援してくれる、一生懸命な人の気持ちを少しでも理解したい、という小原の信条がありました。自分も色々な人に助けられたり裏切られたりもされながらでした。ビイヤヌエバ先生の事も自分がしてやらなければ、と思われたのでしょう。小原自身も借金を重ねて大変な苦労の上で、この学園を築き上げました。

昭和35年の段階でこれだけの事業を行い、小さな子供を連れてメキシコへ行き、各地で公演も行い、追加公演のリクエストにも応じるとは本当にすごいですね。

玉川学園創立者・小原國芳氏による“夢という文字に一角多い、大きな夢”の書
玉川学園創立者・小原國芳氏による“夢という文字に一角多い、大きな夢”の書
(写真提供:玉川学園)

平田元理事:小原は、子どもたちに大きな夢を持ちなさいと言われ、良く夢という文字を揮毫して、その夢という字は一画多い「夢」を書かれました。ただメキシコに行ってきた、歌を歌った、舞踊をした、帰ってきた、だけでは物足りない。メキシコの大統領に出会って、握手してもらった事を子供たちは一生忘れない。子ども達、教育を思うが故の勇気があるのだろうと思います。例にない事をやる事が自分の仕事なんだと。また昭和40年にビイヤヌエバ先生が来日された際には、これだけ日本とメキシコの橋渡しをしてくれた人と、皇太子殿下・総理大臣の表敬訪問を実現された森 清(当時の衆議院議員)さんのような小原を慕ってくれるお弟子さん達が、夢の実現のため動いてくれました。

メキシコ親善使節団は見事な公演をなさったそうですが、玉川学園では芸術教育にも力を入れられているのですか?

平田元理事:玉川学園は芸術教育にも力を注いでいて、下手でも良い、一生懸命やりましょうと言っています。大学生だけではなく、子どもたちにも引き継いで行くように教育を行っています。大学で音楽の授業と言うと驚きますが、大学生も学部を超えて1年生は同じ音楽の授業を受講しています。体育祭では個人競争だけではなくマスゲームを行い、集団での練習を行っています。学校のあちらこちらに国旗があって、アメリカからお客さんが来られるとアメリカの国歌を歌って歓迎します。もちろんメキシコ公演の時もメキシコの国歌は覚えて行ったようです。小原は日本人であれば国家と国旗は大事にしようと言いました。玉川学園ではいつも国旗を掲揚しています。思想教育ではなく信念としての日本人の義務が伝わるのではないでしょうか。

「メキシコ親善旅行記」を読んでいて、小学生から大学生までが一緒になってメキシコへ行き、様々な活動を共に行っている事が少し不思議だと思ったのですが、実際にキャンパスを訪れてみて、学内に垣根が無く、大学生が歩いている横を幼稚園児がのびのびと歩いている姿を見て納得しました。

キャンパスの様子
キャンパスの様子
(写真提供:玉川学園)

平田元理事:同一キャンパスに幼稚園から大学まであるという事は、お互いの切磋琢磨がありますね。大学生も小さな子たちがいると、安全に気を付けてあげたり、あまり変な恰好はしちゃいけないな、という相乗効果がありますね。玉川の教育は小学校だけで出来るものではなく、大学だけで出来るものではないという幼稚部から大学までK-16の総合教育です。実際に見るとよく分かります。

メキシコへは有志の人たちが行ったのですか?

平田元理事
(写真提供:玉川学園)

平田元理事:昭和36年頃はまだまだ海外旅行に行くのは、特に小さな子どもたち、中学・高校・大学生等大人に至るまで、そう簡単な時代ではありませんでした。1ドル=360円で外貨持ち出し規制もあり、大変な時代だったと思います。特に小~大学生までは当然ご父母の理解・協力がなければ実現は不可能な時代だったと思います。まさに、父母、教師、生徒と三位一体の教育の実現だったと思います。

野口博士の功績で、今の子どもたちに教育的に功績を伝えるとすれば、どのような事が伝えられるでしょうか?

野口英世博士と母親の野口シカさん
(写真提供:(財)野口英世記念会)

平田元理事:子どもたちにとって一番の教師は親だと思います。特に小さい時は母親の力が大きいのではないでしょうか。だから子どもたちには母親・両親・祖父母の偉大さは十二分に解っていることと思います。今では女性が働きやすい環境の為に保育所を作る動きがありますが、私は、本当は子供たちが0~10歳になるまでは母親が離れるべきではないと思います。野口博士にも偉人の母がいました。父親というよりもいかに良い母親がいたかという事かと思います。偉人になるには、偉大な厳しい素晴らしい母親がいた、という事を世の中便利になり過ぎて忘れているかもしれない。玉川学園には給食がありません。ごちそうでなくても良いのです。「お母さんが朝早く起きて作ってくれたお弁当は残してはいけない、お母さんありがとう。」という事も躾ですね。幼児にはお父さん、お母さん、祖父母の存在は本当に大きいと思います。

日本・メキシコ親善使節団について
出展:メキシコ親善旅行記(玉川学園編)・出版:玉川学園出版部

 昭和35年9月、メキシコで第3回国際大学協会が開催され、日本代表として小原國芳・玉川学園学長が出席しました。会議終了後、教育現場を視察するために、メキシコ各地を訪問した際、野口博士にゆかりある、ユカタン半島のメリダ大学( 現在のユカタン州立自治大学)医学部付属のオーラン病院を訪問しました。

 野口博士は南アメリカで蔓延していた黄熱病の原因を解明、撲滅するための医師団としてロックフェラー研究所から南アメリカ諸国へ派遣されました。1918年にエクアドルで黄熱病の病原体を発見し多くの人の命を救った事を皮切りに、1919年野口博士はメキシコへも派遣され研究を行いました。博士が研究を行っていた、ユカタン自治大学の熱帯病研究センターは「野口英世研究所」という名前で野口博士を今も讃えています。

 わずか3か月のメリダ滞在でしたが、当時野口博士から直接指導を受けた人たちは、渡航中に船内で覚えたというスペイン語を巧みに操り、気さくに指導をしてくれた事を忘れずに覚えていてくれました。その中でも特に開業医であるビイヤヌエバ氏(新しい谷という意味)は野口博士の指導を受け感銘した、熱心な野口博士信者で、メリダ市内の全ホテルに「もし日本人が来たら、私に知らせてください。」と頼みこんで、日本人が滞在するホテルを訪れ、野口博士の研究室の案内や、野口博士のメキシコでの功績を伝える等、野口博士が縁となり、メリダを訪れる日本人のお世話をしていました。

 小原先生はビイヤヌエバ氏の案内でメリダ大学の野口博士の研究室の案内を受けた際に、地元の人たちが野口博士の記念像を建て、その功績を顕彰したいと願っている事に感銘し、銅像を寄付する事を約束します。小原先生はかねてから、教育のため子どもたちに外国を見せてあげたい、劇や音楽をやって世界を驚かせたい、という希望があり、ビイヤヌエバ氏は野口博士の銅像を建立したいという希望がありました。

 その話を聞いた玉川学園の学生や生徒たちは、礼拝献金を基にそれぞれバイト代やお小遣いを集め資金を作り、野口英世記念会では野口博士のブロンズ立像を作成し、玉川学園でメキシコ大使を招待し贈呈式が行われた後に、外務省の好意でメリダ市へ送られました。その後、ユカタン州知事より、メリダ大学の銅像除幕式への招待状が送られて来ました。そこには学生による日本文化の紹介への希望も添えられていました。

 こうして玉川学園の学生や生徒たち総勢40名にも及ぶ日本・メキシコ親善使節団がメキシコを訪れます。子どもたちは一生懸命に練習をした音楽、演劇、伝統舞踊などを通じて日本文化を紹介し、メキシコ各地で公演を行い、メキシコ大統領も感動する等、各地で多くの喝采を浴びました。テレビ・ラジオ出演も果たし、現地の新聞でも大きく取り上げられ、その後のメキシコでは良い演技を「玉川のように」という例えで讃えていたそうです。在留邦人たちも日本人の誇りと大喜びし、両政府関係者も外交として大変意義があったと評価しました。

 翌年の昭和37年年にはメキシコ大統領が訪日、昭和40年にはビイヤヌエバ博士の親娘が日本へ招待され、玉川学園は温かく歓迎をしました。

 玉川学園のメキシコ親善使節団の功労により、日本とメキシコの距離が急速に縮まりましたが、その背景には、野口博士とビイヤヌエバ氏という縁があったのです。野口博士は外交にまで影響を与えていたのです。

 今現在もその交流は続いており、長い間設置されて痛んでしまった台座を修復する予定です。野口博士の像はメキシコの文化財登録を受けており、修復までには時間や手続きが必要になりますが、玉川学園創立80周年の記念の国際貢献事業として重要視されています。野口英世博士地域研究センターという別の場所にも、この像のレプリカが設置されて研究会の際に記念撮影を行うなど、今も地元の人々に大事にされています。今後は医療だけではなく、教育面での交流が期待されます。

編集後記

 メキシコ親善旅行記には、子どもたち、学生の皆さんが、歌や劇を通じて、メキシコ中で大活躍をしたお話が掲載されていますが、まるで自分が旅行をしているような気持になる大変面白い本で、あっという間に読んでしまいました。

 交流の輪は、野口博士、親善使節団、現在の私たちへと、着実に受け継がれているようです。