生涯年表資料提供 財団法人 野口英世記念会

 西暦

 和暦

 満年齢

事項 

 解説

 1876

 (明治9)年

 

11月9日、福島県三ツ和村三城潟で生まれる。(はじめの名を清作という)

生い立ち~少年時代 

野口英世は1876年(明治9)11月9日、農家の長男として生まれ、清作と名づけられました。
1歳半のときイロリに落ち大火傷を負い、左指が癒着し不自由な手となりましたが、小学校へ入学すると持ち前のがんばりで優秀な成績を修めました。
猪苗代高等小学校在学中に、先生や生徒たちの援助で渡部 鼎医師より左手の手術を受けました。
そのことがきっかけとなり医師を目指し、若松の会陽医院の書生になります。清作は睡眠時間を惜しんで勉強し、医術開業試験に備えました。

 左手の手術後に撮影  決意が刻まれた床柱

写真左:左手の手術後に撮影
写真右:決意が刻まれた床柱
"志を得ざれば再び此の地を踏まず"

1878

 (明治11)年

 2

4月末、いろりに落ちて左手に大火傷を負う。

1883

(明治16)年

7

三ツ和小学校に入学する。

1884

(明治17)年

 8

斉藤幸元医師により左手の手術を受ける。

1887

 (明治20)年

11

4月、尋常科4年に編入。 

 1888

 (明治21)年

12

4月、温習科に入り、生長となる。 

 

 

 

7月15日、磐梯山の大爆発を経験する。

 

 

 

4月、猪苗代高等小学校に入学する。

 1892

 (明治25)年

16

10月、会津若松の会陽医院長・渡部 鼎先生により左手の手術を受ける。 

 1893

 (明治26)年

17

3月、猪苗代高等小学校を優等卒業。 

 

 

 

5月、会陽医院に書生として入門。医学・英語・仏語を学ぶ。

 1896

 (明治29)年

20

9月、医術開業試験受験のため上京。

 上京時代

1896年(明治29)、医術開業試験受験のため19歳で上京した清作は、前期・後期の二度の試験に合格し、医師の資格を取得します。
医師となった清作は高山歯科医学院をはじめ、順天堂医院、伝染病研究所、横浜海港検疫所に勤務します。
またこの間に名前を清作から英世に改名しました。
検疫所では、ペスト患者を発見したことが評価され、国際予防委員会の一員として清国(今の中国)の牛荘に派遣され、防疫に従事しました。英語と中国語に長けていた英世は、残留を希望されるほど評価されました。

 横浜海港検疫所検疫医官補制服姿の英世  医術開業後期試験及第之証 

写真左:横浜海港検疫所検疫医官補制服姿の英世
写真右:医術開業後期試験及第之証 

 

 

 

 

10月、医術開業前期試験に合格。 

 

 

 

11月、血脇守之助先生の厚意で高山歯科医学院の学僕となる。 

 1897

 (明治30)年

21

5月、済生学舎入学。血脇先生の紹介で帝大外科教授近藤次繁博士による左手の再手術を受ける。 

 

 

 

10月、医術開業後期試験に合格し、医師の資格を得る。 

 

 

 

10月、高山歯科医学院講師となる。 

 

 

 

11月、順天堂医院に勤務。

 1898

 (明治31)年

22

8月、帰省中に英世と改名。 

 

 

 

10月、伝染病研究所助手となる。

 1899

 (明治32)年

 23

4月、来日したフレキスナー博士の東京各地の視察案内兼通訳の任に当たる。

 

 

 

5月、横浜海港検疫所に検疫医官補として勤務。 

 

 

 

10月、清国・牛荘に赴き国際予防委員会中央医院に勤務。 

 

1900

(明治33)年

 24

12月5日、横浜より亜米利加丸で渡米。 

渡米前期

伝染病研究所に勤務しているときに出会った、アメリカのフレキスナー博士を頼って1900年(明治33)単身で渡米します。
英世に与えられた最初の蛇毒の研究が評価され、奨学資金を得てデンマーク国立血清研究所に留学し、細菌学の基礎を学びました。
アメリカに戻るとフレキスナー博士が所長に就任していたロックフェラー医学研究所に迎えられ、梅毒スピロヘータの研究ではノーベル賞候補にもなり、世界的な評価を得ました。
英世はその後ロックフェラー医学研究所の正員として多くの研究に取り組みました。

 ガウン姿の英世  ペンシルヴァニア大学助手時代の英世

写真左:ガウン姿の英世
写真右:ペンシルバニア大学助手時代の英世 

 

 

 

12月30日、フィラデルフィア到着。ペンシルベニア大学にフレキスナー博士を訪ねる。 

 1901

(明治34)年 

25

フレキスナー博士の助手となり、蛇毒の研究に従事。 

 

 

 

11月、ナショナル・アカデミー・オブ・サイエンスで蛇毒研究の成果を発表。 

 1902

 (明治35)年

 26

10月、ペンシルベニア大学病理学助手となる。 

 1903

 (明治36)年

 27

10月、カーネギー学院研究助手となり、デンマークに留学。 

 

 

 

国立血清学研究所に入り、マッセン博士に師事。 

 1904

 (明治37)年

28

10月、ロックフェラー医学研究所の一等助手となる。 

 1907

 (明治40)年

31

6月、ペンシルベニア大学よりマスター・オブ・サイエンスの学位を受ける。 

 1909

 (明治42)年

33

6月、カーネギー学院より『蛇毒』を出版。 

 1910

 (明治43)年

 34

『梅毒の血清診断』を刊行。 

 1911

 (明治44)年

35

2月、京都帝国大学より医学博士の学位を授与される。 

 

 

 

梅毒スピロヘータの純粋培養に成功。 

 

 

 

4月、メリー・ダージスと結婚。 

 1912

 (明治45・大正元)年

36 

母シカより帰国を促す手紙が届く。 

母からの手紙
1912年(明治45)母シカは幼いころ覚えた字を思い出しながら、アメリカにいる英世に帰国を切望する手紙を書きました。
この手紙を手にした英世は親不孝をしている思いがして涙が止まりませんでした。
研究やヨーロッパでの講演を控えていた英世は、研究を中断して日本に帰ることができず、帰国が叶ったのは3年後でした。

母堂の手紙
母堂の手紙

 1913

(大正2)年

36 

麻痺狂及び脊髄癆患者の大脳中にスピロヘータ・パリーダを検出発見。 

 

 

 

 

9月、欧州各国の講演旅行に出発、スペイン・デンマークなどの国々より勲章が贈られる。 

 1914

 (大正3)年

38 

4月、東京帝国大学より理学博士の学位を授与される。 

 

 

 

7月、ロックフェラー医学研究所正員に昇進。 

 

 

 

ノーベル賞候補となる。 

 1915

 (大正4)年

39 

4月、日本の帝国学士院より恩賜賞を授与される。 

 

 

 

この年も、ノーベル賞候補となる。

 

 

 

9月5日、15年ぶりで日本に帰国。勳四等に叙せられ、各地での講演会・晩餐会に出席。母シカらと東京・関西旅行を行う。 

15年ぶりの帰国 

英世は1915年(大正4)、帝国学士院恩賜賞を受賞し、恩師・血脇守之助先生に代理で受け取ってもらいました。
その直後、高山歯科医学院で同僚だった石塚三郎から、母シカの写真と帰国を促す手紙が届きました。
年老いた母の姿に驚いた英世は帰国を直ちに決心し、15年ぶりに日本に帰国することにしました。
約2ヶ月の滞在中、講演や歓迎行事に追われる毎日でしたが、母や恩師を伴って東京や関西などに旅行をして孝行をしました。

 母シカと英世
母シカと英世
(左から宮原八重子、母シカ、英世、小林栄夫人・小林俊)
再渡米時恩師と
再渡米時恩師と

 

 

 

11月4日、横浜より再び渡米する。 

1918

(大正7)年

42 

6月、エクアドル・グアヤキルに出張、当地の黄熱病病源体を発見。 

渡米後期 

1917年(大正6)、英世は腸チフスにかかり、生死の境をさまよいました。危篤状態を脱した英世は妻メリーとともにシャンデーケンの山荘で静養しました。
当時、南アメリカで黄熱病が蔓延しておりロックフェラー財団では研究班を派遣する計画をたて、英世にその一員に加わるよう要請しました。
最初に向かったのはエクアドルで、到着後9日目に病原体を発見、血清とワクチンを作り、多くの人の命を救い感謝されました。
しかし、この黄熱病病原菌の発見には疑問を抱く研究者の意見もありました。

  

写真左:エクアドル名誉軍医監正服姿の英世
写真右:グアヤキル上陸

 

 

 

11月10日、母シカ逝去(65歳)。 

 1919

 (大正8)年

 43

黄熱病病源体について論文を発表。 

 

 

 

12月、黄熱病研究のためメキシコに出張。 

 1920

 (大正9)年

 44

4月、ペルーに出張。 

 

 

 

11月、メキシコ・メリダに出張。 

 

 

 

この年も、ノーベル賞候補となる。 

 1922

 (大正11)年

 46

5月、恩師血脇守之助先生、欧米歯科医学視察のため訪米。 

 1923

 (大正12)年

 47

7月3日、父・佐代助逝去(71歳)。 

 

 

11月、帝国学士院会員となる。 

 

 

 

同月、ブラジルへ黄熱病研究のため出張。 

 1924

(大正13)年

 48

7月、ジャマイカ・キングストンで開催の熱帯病会議に出席。 

 1925

 (大正14)年

 49

11月15日、正五位に叙せられる。 

 1926

 (大正15・昭和元)年

 50

オロヤ熱病源体について論文を発表。 

 1927

(昭和2)年 

 51

トラコーマ病源体について論文を発表。 

 

 

 

10月、アフリカへ黄熱病研究のため出張。 

アフリカの地で殉職
ロックフェラー医学研究所ではアフリカでの黄熱病対策のため、研究班をナイジェリアのラゴスにおいていました。
研究員の一人で同僚であったストークスが黄熱病で亡くなったことを知らされた英世は、周囲の反対を押し切って1927年(昭和2年)10月、自らアフリカのアクラに赴くことにしました。
英世は400匹以上の実験用のサルを使い、3カ月の予定を6カ月に延ばして研究を続けました。
原因究明に目途をつけて帰国しようとした矢先、自らも黄熱病に感染して10日目に亡くなりました。
英世の訃報は全世界に知らされ、多くの人が悲しみました。 

英世とマハフィー博士
英世とマハフィー博士

ウッドローンの墓標
ウッドローンの墓標

 1928

(昭和3)年 

 52

5月21日、西アフリカ・アクラで黄熱病研究中に、黄熱病に罹り殉職(51歳)。 

 

 

 

勳二等に叙せられ、旭日重光章を贈られる。 

 

 

 

6月15日、ニューヨーク・ブロンクス区のウッドローン墓地に埋葬される。 

 

資料提供 財団法人 野口英世記念会