第14回基礎問題小委員会 議事録

平成16年6月1日開催

石小委員長

それでは、まだお見えになっていない方もいらっしゃいますが、時間になりましたので、始めたいと思います。

前回、「公共部門」をやりまして、お三方からご説明を受けましたが、今日もそれに引き続き、お二人の先生にお越しいただいております。後ほどまたご紹介いたしますが、東京大学の武川先生と、千葉大学の広井先生であります。

今日は、このあと総会を予定しております。4時から総会という形で総会が30分ということになっておりますから、長丁場でございますが、よろしくお願いいたしたいと思います。

そこで、お二人の先生にもう用意していただいていますが、その前に、いつものように事務局で作りいただきました資料をご説明いただきます。これは、いつもよりは少し長めに時間をとりまして、今後のまとめの方向の内容を少し踏み込んだ形でご説明いただこうかと思っています。そのあとで、お二人の先生から順にご説明いただくという段取りにいたしたいと思います。

では、佐藤さん、よろしく。

佐藤調査課長

説明にあたりまして、資料、大部でございますので、まず紹介したいと思います。

総会資料以外2つ、今回の資料でございまして、1つは基礎小の資料で、「基礎小14-1」から始まります、「14-2」「14-3」「14-4」。それから、前回お出しいたしました、「13-1」「13-2」をもう一度提出させていただいているというのが一つのかたまりでございます。もう一つは、袋の中に「会議後回収」ということで置かせていただいているものがございますが、これをご覧いただきたいと思います。

資料説明は基本的にこの「14-1」「14-2」をベースに申し上げたいと思いますけれども、資料の構成をもう少しご説明しますと、まず、今見ていただきました「会議後回収」ということで、参考資料という形で「未定稿」ベースでテーマ別の「『実像』の特徴」と書いた紙がございます。これは、ぱらぱらと中をご覧いただきますと、今まで約9回近く各テーマについてやってまいりまして、それぞれバックデータ及び各プレゼンテーターのご発言等々、本来ならばすべて掲載するところを、それだけではなかなかわからないということで、ここで一定の要約をさせていただいております。いずれ全体をまとめるときにはこれを一体化して取り入れたいということでございますが、今日の時点では未定稿ですので、回収とさせていただいているものでございます。

本日、これからご説明申し上げます「基礎小14-1」、ポイントというのがございます。これは、こういった資料の整理の中から重要と思われるファクトないしはキーワードと思えるものを、例示的に抜き出した性質のものでございますので、そういう意味でご覧賜ればということでございます。

それでは、「14-1」、表紙をめくっていただきまして、ポイントというところ、それから、資料の「14-2」という参考資料でございますが、これを合わせながらまずご覧いただくということでお願いしたいと思います。

まず、カッコの中にございますけれども、今までの各テーマごとにいわば特徴とも見られる点でございますので、過不足あろうかと思いますが、一応重要ということで整理させていただいたものです。まず、家族のシリーズからでございます。資料をめくっていただきます。資料につきましては、すでにお出しいたしました資料の中から重要と思うものをピックアップしてございますので、ディマインドさせていただくという意味で駆け足で進めたいと思います。

「家族」のところでございますが、ポイント紙、黒マル2つございます。家族の「カタチ」の多様化、特に2つ目のマル、「夫婦と子供のみの世帯」は標準ではなくなるというふうな書き方。それから、次のマルですが、「標準的ライフコース」とか、「戦後家族モデル」がなくなるということで、多様化していくというご指摘がプレゼンテーションでございましたので、ここを抜き出してございます。

資料で確認いただければと思いますが、1ページ目の上の「家族類型別世帯数の推移」です。ちょっと数字が小さくて大変恐縮でございますけれども、このグラフの下に平均世帯人員という数字がございまして、マルで囲ってございます。1955年、高度成長入り口の段階では約5人の平均世帯員が、次第に減りまして、現在2.7人、2020年には2.4人ということで規模が縮小していくということでございます。

世帯の中身も変化しておりまして、「その他の世帯」と書いてます。ここが三世代同居世帯と考えていただければと思いますが、それが1955年段階では37%くらいあったものが、次第にいわば核分裂をしていくということで、核家族のウエートが高くなり、それが現在では単独世帯のウエートが高くなるという流れになってございます。

ちなみに2020年のところ、ちょっと小さくて恐縮ですが、各世帯の類型別にマルで囲った数字、単独世帯が33%、夫婦と子供のみの世帯が25%、こう数字がございます。この25%という数字は、1975年時点のマルの42.5%という数字、そういうウエートの変化が見て取れるということでございます。

それから、2020年段階で見ました場合に、単独世帯、夫婦のみの世帯、夫婦子供のみの世帯がこういうバランスになっている。要するにばらけているということでございます。夫婦のみの世帯と単独の世帯合わせて子供のいない世帯が半分を超えるという形である。そういうようなことで、ポイントの最初の「カタチの多様化」ということで掲げさせていただいております。

そのあと、「ライフコースの変化」というプレゼンテーションがございまして、それに関連する資料として下のI-[2]というものですが、未婚率がこのような上昇基調をとっている。次の2ページのI-[3]、婚姻率と離婚率というものも、1975年を軸にして左右を見ていただきますと、婚姻率が落ちてきたり離婚率が上がるという基調がここで始まっているということで、現在に至ってはそれが加速している状況である。

それから、共働きというのがございます。これは、1990年くらいを境にいたしまして、専業主婦世帯、共働きの世帯の数が逆転し始めているという姿でございます。

3ページ、I-[5]でございます。結婚や子供に対する考え方ということで、左側は、夫は外で働き妻は家庭、右側は、結婚したら子供は持つという伝統的な家族意識も、だんだん希薄になりつつあるというデータでございます。

I-[6]で、家庭の役割についての意識でございます。家族団らんというのは多うございますけれども、子供を生み育てるとか、しつけるとか、親の世話といったようなもう一つの家族のケア機能の認識が意識の中では矮小化して、むしろ団らんという状況になっているという話。

4ページにまいりまして、I-[7]、[8]ございますが、同じような傾向が出ているということでございます。

次の5ページ、I-[9]の資料でございます。これは人口のときにお示しいたしましたけれども、家族周期ということで、ちょうど真ん中あたりにシャドーをつけた部分ですが、例えば出産期間というので、結婚してから子供を生み終わるまでの間、江戸時代は19.7年、現在は4年ということで、出産適齢ということで非常に短くなっている。それから、脱扶養期間「[5]-[4]」と書いてございますが、これが、子供が巣立ってから死ぬまでという、子育て後の期間、これが1.5 年に対して25年ということで、家族というのが、子供を生み育てるという江戸時代とは違いまして、生み育てるプラス子育て後があるという、そういう家族の新しい形が明らかに現実になってきているということです。

家族は大体そういうあたりが一つのキーファクトかなと思いまして、ポイントのところをご説明させていただきました。

次、「就労」でございます。就労につきましてはポイント紙、また2つ指摘してございます。日本型雇用慣行が揺らぐという話。それから、働き方が多様化しているということだろうと思いますが、資料でいきますと、6ページ、「II 就労」II-[1]のところ、ここでは、雇用者の増加、要するにサラリーマン化が進んでいくという姿が出ています。1970年と80年の間に点線を入れておりますけれども、資料全体といたしまして、1975年までの高度成長期とそれ以降の数字の変化を見たいためにそういう仕切りの線を入れてございます。たしかにここも、自営業者あるいは農業が雇用者、サラリーマンになっていくという流れが見て取れるわけです。

下の雇用形態。サラリーマンになるといいましても、働き方は?、ということで、正規の雇用の割合が9割近いのが高度成長期で、正社員中心ということが数字上も見て取れるわけですが、現在はマネージメント上の変化というようなことがございまして、むしろ正規対非正規の割合が6対3とか4とか、そういう数字になってきているということで、ここも一つ構造的な変化が見られるということです。

次のページ、「フリーター」というのを載せてございます。数字的には417万人という数字、分母に対して21%いるということです。これが先ほどの非正規雇用のある種の典型ではございますけれども、プレゼンテーションの中では、こういった層は格差の問題とか階層化の問題があるのではないかというご指摘もなされたことをご紹介させていただきます。

II-[4]は、企業の人材マネージメントのサイドで、年功とか業績評価を取り入れる考え方が出てきているというあたりを見る資料でございます。

次の8ページですが、これは意識の面でございます。会社の帰属意識というのはここ数年で低下というような話。それから、仕事に関する価値観、職業意識についても、例えば「仲間と楽しく働ける仕事」とか、「専門知識を生かす」といったような観点が出てまいりまして、会社型人間という標準的なモデルから意識が少しずつ変わりつつあり、多様化している面が見られるのではないだろうかということだろうと思います。こういう働き方の多様化をどう解していくか、社会との影響をどう考えていくかというあたりは一つポイントになろうかと思いますが、事実としてはこういう状況かなというふうに思っております。主なポイントの中で、「日本型雇用慣行の揺らぎ」、その下、「働き方の多様化」ということでいろいろ掲げましたのは、今申し上げた資料に基づくものです。

次、「価値観・ライフスタイル」ということで進めさせていただきます。資料編のほう、10ページでございます。ポイントは次のページですが、「価値観・ライフスタイルの多様化・多重化」という言葉を使わせていただいています。これはプレゼンテーションの中で出た話ですが、1970年代は「十人一色」、80年代は「十人十色」になって、現在は「一人十色」であるというふうな言い方で、価値観が一人の中でもたくさん同居しているというお話があったわけです。

同じくプレゼンテーションの中でございましたけれども、資料編の10ページ、資料III-[2]、「消費スタイル」というところを見ていただければと思います。マルをつけた中の下2つ、アンダーラインを引いたものですが、消費をするときに「無名メーカーよりは有名メーカーの商品を買う」、「自分のライフスタイルにこだわって商品を選ぶ」、この2つにつきまして、分析では「鳥の群的な消費行動」というご紹介がございました。すなわち、有名メーカーの商品を買うことがいわば無難で、「寄らば大樹」という考え方がある。もう一つはライフスタイルにこだわるという部分については、無難の範囲の中で選択の自由を求める、この2つの現象をマーケティングの世界ではそのようにとらえているというようなご紹介がございました。無難さ、煩わしさを避ける部分と、選択の自由を求める部分が同居しているというご指摘かと思いまして、ポイントではそういう表現を入れさせていただいております。

次の11ページ、未来か、今かということについては、75年の高度成長期と現在とでは対照的にX字型をしてございまして、現在志向が出ているということです。

それから、下の家計消費につきましては、全体的に下がる中で、健康とか情報とか、「HIERO 」という項目について非常に消費が増えてきているという話がございますが、この中では、快適性、趣味、癒し、そういうふうな要素が出てきているというデータが読み取れるわけです。その点をポイントでは入れさせていただいています。

もう一つ、次のページですが、価値観の中で大事なのが社会意識ということでご紹介いたします。ポイントでは「日本人の社会意識と『自分との距離感』」という言葉を入れさせていただいています。資料編の12ページ、III-[5]、「社会への貢献意識」というところですが、1990年に点線を入れますと、「役立ちたい」というレベルが結構高いということです。

「世の中とのかかわり方について」というNHK放送文化研究所の調査。市民意識を見ますと、アンダーラインを引いているところ、円グラフの中のシャドーをつけたところ、「私生活市民」とか、「臣民」という言葉使いをしてございます。自分の生活とのかかわりの範囲内で身近なところにかかわるとか、あるいはルールに従うという形で、自分との身近性ということを相当意識しているということで、内・外の考え方が出ている、こういう分析がなされています。

13ページ、資料III-[7]です。これも各回のときにご紹介させていただきましたけれども、各組織制度に対する信頼度ということで、濃い線がずっとつけてありますところが、「非常に信頼している」「やや信頼している」というところの固まりでございます。身近な医師から始まりまして、だんだん信頼度が落ちていくということで、14位、15位、16位、こういう形になっているということですが、一方、信頼の低い部分につきましては、右側の「わからない」という部分が非常に多くなっているということで、自分との距離感をはかりながら信頼性が形成されているのかなというようなご紹介を申し上げたわけでございます。

その下のIII-[8]です。社会的な行動への関与ということで調査をいたしますと、例えば全国レベルの問題、職場レベルの問題、地域レベルの問題ということで、次第に自分との距離が近い問題になってまいりますと、下のグラフの三角で書いた太い線ですが、「自ら行動する」というのが全体的に上に上がってまいりますし、自分との距離が遠くなる全国レベルになりますと、事態静観型が多くなるということで、ポイントのほうでは、「他者への寄りかかり」というまとめ方をさせていただいております。いずれにしてもここでは、日本人の社会観の中には自分との距離感が重要だということはプレゼンテーションの中でも触れられていたところですので、整理をさせていただいています。

ポイントの3つ目の黒いマルでございます。これは前回のプレゼンでもございましたけれども、日本人の公意識という中に、「政府(官)=公」、「民=私」という公私二元論が支配的であるということで、公の概念、特にその中間にあります「民の公」という概念が必要ではないかというお話もございました。本日はあとで社会像のお話も出てまいりますので、ここにかかわってくる話があるのかなというふうに思っております。

それから、「分配」の話でございます。分配のところにつきましては資料の15ページをご覧いただきたいと思います。分配の構造について、まず国際比較ということで見ていただきます。ちょっと複雑な表ですけれども、全体の左側の欄、社会全体の所得に占める下位グループがどれだけ所得の割合を占めているかということで、例えば最下位10%の人口が持つ所得のシェアが日本の場合は4.8%。アメリカは下から2つ目、1.8%、こうなっているわけですが、左から4つ目、最上位10%人口の所得シェアというのが、日本では21.7%、アメリカでは30.5%という形。

それから真ん中の欄でございますが、トップ10%と下位10%の所得の倍率というのが、日本の場合は4.5、例えばアメリカでは16.6、こういう姿になっておりまして、日本の場合は相当だんご状態というのが見て取れると言えるのかなというお話をいたしました。

右側から2つ目の欄、ジニ係数というものを国際的に並べてみますと、日本は26.5%という数字。この係数は、小さい数字ほど均質性が高いということになりますので、アメリカの34.4%、下から4つ目と比較して位置が確認できるというようなお話をいたしました。これをまず確認したいということです。

次の16ページ、ジニ係数の話を見ていただきたいと思います。IV-[2]の上のグラフです。高度成長期、1975年くらいまでをイメージしながら念頭に置いていただければと思いますが、全体的にはこれが数字が小さくなる方向に動いてくるということで、高度成長期を通じたある種の均質化が進んだということが言えるのだろうと思います。その後、右上がりトレンドが出てきていることは見て取れるわけですが、その要因は何かということについては諸説ありますが、下のIV-[3]の中で示しておりますのは、高齢者ほどジニ係数が大きいということでございます。そういう世帯数が増えていることもあって、高齢化要因がずいぶん効いているのではないかというお話もプレゼンテーションの中でございましたので、ご紹介をさせていただきます。

次の17ページです。オッズ比という、ちょっと難しい概念でのご説明のプレゼンがございましたが、父と子の職業の継承性ということ、言ってみれば社会の流動性をこの概念であらわそうということで、ここの数字が小さいほど社会的流動性が高いという説明だったかと思います。全体的にこのグラフ、上から下に右下がりになっておりますので、1975年調査、高度成長期の終わりあたりの調査までは右下に下がってきていたということで、社会的流動性がかなり進んでいるということであったけれども、その後、少しブレーキがかかる、そういう状況になっているというご説明がございました。

それから、下のIV-[5]でございます。これはまた違う調査ですが、収入を四分位に分けまして、自分の階層意識を聞いたというものです。1965年の調査では、前2つのグループと後ろ2つのグループが2つに分かれていたところ、75年では、この4つのグループが全部一致するということで、いわゆる「一億総中流」、均質、皆同じという世界ができたというお話もございました。現在、95年でとりますと、トップ4分の1が前に出るという形で、意識上崩れがあるのではないかというようなお話もございました。

次の18ページですが、機会の平等というお話に関連する調査でございます。これは私からご紹介させていただいたものですが、上の図は内閣府の調査でございまして、「あなたはどのような人が高い地位と報酬を得ることが望ましいと思いますか?」という問いと、「日本の社会の現実として、どのような人が高い報酬と地位を得ていると思いますか?」、そういう問いをしたところ、真ん中の「努力をした人」というゾーンが非常に大きく出ている。白い棒と黒い棒、これは現実と理想の差ということになるわけですが、「努力」みたいなものがここでキーワードになっている。その右側の「誰でも同じぐらい」というところ、これはかなり小さいものしかございませんので、おそらく極端な結果の平等については否定的な感じ、悪平等と感じるということかなというふうに見てございます。

その下のIV-[7]、日米比較意識、これもご紹介をいたしました。ちょっと字が小さくて恐縮ですが、読み上げますと、「教育を受ける機会や、就職や仕事ができる機会が平等であれば、結果として、貧富の差が生じたとしても、公平な社会だと言えると思いますか」、そういう問いです。アメリカは黒い棒、これは全部イエスということで、収入別、年齢別、どういう切り口をいたしましても、全部非常に高い棒グラフになってございます。そういう意味では機会の平等一辺倒であるという世界だろうと思いますが、日本の場合は、マルをつけてございますが、同じくらいの高さで、機会の平等志向はあるということですが、一方、アメリカほどではなさそうだと。極端な結果の不平等についても懐疑的ということなのかなと。この辺、図の読み方、なかなか難しゅうございますけれども、あえて申し上げれば、結果の平等については中庸な考え方ということかなということで、ポイントのほうではそのような整理をさせていただいております。その辺が「分配」のご議論だったかと思います。

続きまして、「人口」です。人口につきましては19ページの資料、それから、ポイントの次のページですけれども、20世紀は「人口増加社会」、21世紀は「人口減少社会」、それから超高齢化社会へ行くという話で、これは申すまでもないことですが、若干確認だけしていただければと思います。19ページ、資料V-[1]です。2006年にピークということで、100年かかって8,000万人ほど増えてきましたが、中位推計では、あと100年かかって6,000万減る、こういう流れであるということで、100年間で人口半減という推計がなされているということです。

20ページですが、出生率。これも特徴がございますので、ご紹介します。出生率自体は2.08という人口置換水準のところで人口が維持されるということで、一つのメルクマールになりますけれども、1957年までは2を超えていたところ、1957年に2.04になりましてから、ほぼ高度成長期ぴったりと1975年までの間、一時期を除きまして、2にへばりつくという形になってございまして、いわゆる夫婦子2人の当たり前の家族モデルというものが成り立ったマクロ的な形というのがここにございます。

1975年から2を切るわけですが、そこから現在までだらだらと下がって、現在1.32ということで少子化が進んでいっているわけです。人口が減少いたしますのは2006年ということで、1975年との間にラグがあるわけですが、これは、出生率が2を割りましてもすぐに人口が減るというわけではなくて、一種の慣性(モメンタム)が働くということでございますが、一旦減り出しますと、今度は加速がついておりますので止まらないということです。

その点、プレゼンテーションの中でご紹介がございましたのを、下のV-[4]で入れてございます。現在、中位推計で出生率が1.39ということですが、これが2050年で出生率が1.85になるという点々の線で見ていただきますと、中位推計よりましだという程度でございます。それからその上、2050年で出生率が2.07という置換水準に戻ったという場合でも、2130年に8,450万人で定常化ということですので、21世紀、ちょうど点線から左側は全部右肩下がりになっている。そういう部分につきまして、これを「人口減少のモメンタム」というご紹介がございましたので、キーワードとして入れさせていただいております。

21ページ以降は少子化・高齢化ということでございます。この辺はご案内のとおりですので省略いたしますが、一つ、V-[6]のところ、平均年齢をご覧いただきたいと思います。高度成長期、1960年とか70年の平均年齢は30歳前後ですが、2000年で41歳、2050年で51歳になるということです。その51歳の内訳ですが、14歳までが10%、生産年齢人口の15~64歳が54%、65歳以上が35.7%ということですが、そのうち75歳以上が21.5%、こういうふうな人口構成になるということでございます。

1ページ飛ばしまして23ページ。そうした少子化・長寿化という流れを従属人口指数で見たものでして、分母が現役、分子が子供+老年者ということで、現役で何人の人を支えられるかという、よく見る計算の指数でございます。高度成長期がちょうど左側のシャドーの部分です。この部分が下がってくるということで、社会的な扶養力が軽くなる時期でございますが、現在はそれが逆になりまして、これが上がっていくということですので、全く違うベクトルに動き始めているということです。

次は、「グローバル化」です。ポイントのほうでは、日本と海外双方向での国際的結びつきが深化したということ。それから日本の対応ということで、強みは製造業のものづくりとか、戦略的な対応が必要だというお話がプレゼンテーションでございましたので、その点をまとめさせていただいています。データ的には24ページの上の経常収支というあたりは、経常収支のうちの貿易収支という、モノで稼ぐ部分でも黒字ですが、所得収支といういわば投資のリターンで稼ぐ部分についても同程度の黒字になっているという形をご紹介したということです。

それからVI-[2]のところですが、これは貿易の構造、ちょっとごちゃごちゃしていますが、貿易相手国、シェアと書いた枠の中、アジアとの関係が大きくなっているとか、あるいは、輸出と輸入の関係につきまして、水平型に移っているとかいうことをご確認をいただいたということです。

25ページ、特許使用料の対外的受払ということで、ある種のノウハウというものでも日本はトータルでは黒字になったということで、今までのモノ、資本、ノウハウというあたりを総合的に活用する時期になってきているということをご紹介いたしました。

次は、「環境」でございます。環境につきましては、ポイントに書いてございますように、環境の負荷が大きくなる、それが地球規模になる部分があるということで、コンセプトは「持続可能性」とか、「循環型社会」ということになるのかなということで、ここはお時間がございますので、資料は省略させていただきます。

それから、「公共部門」ということで、二、三、ご紹介いたします。計数資料31ページですが、まず、経済でございます。今回のいろいろなファクト・ファインディングの中で気づきましたことは、高度成長期までの時期、それから、1973年~75年までの時期から90年までの間の安定成長期、それ以後のバブル崩壊後というおよそ3つに分けまして、家族だとか雇用だとかいろいろなものが、この3つ分類の中に、大きな段差といいますか、屈折点といいますか、そういうものがあるなということにずいぶん気づいたわけでございます。

それが構造的変化ということかなということですが、この3区分、表の方で見ていただきますと、名目成長率、実質成長率というものが段差を持って落ちてきているということです。実質GDPの成長率、高度成長期は実質で9.6%、安定成長期では4.1%、バブル崩壊後は1.3%ということで階段のようになっている。それから、1人当たりの名目GDPで見ますと、こういうような姿になっておりまして、高度成長期は明日はよくなると確信できる状態だったのでしょうが、今度は人口が減っていくという中で、豊かさということに関連してGDPの動きをどのように解するかという問題も出てくるかと思います。

32ページ以降は、高度成長期を支えたと思われる幾つかの要因を紹介しております。総人口の変化ということで、これは「人口ボーナス」という言い方で人口のときにご紹介いたしました。太い線が総人口で、破線が15~64歳人口、点線が労働力人口ということで、労働の全体を支えるサイドでございます。支えるサイドの人口の伸びが総人口よりも大きいということで、ここは余力の出る時期だったというのが高度成長期の人口の姿ですが、現在は右下のシャドーの部分でございまして、位置関係が逆になっているということで、やはりここは大きな構造上のシフトがあることは見て取れるかと思います。

33ページをご覧いただきますと、人口移動という話も掲げてみました。下には産業別の就業人口の動きを掲げてございますが、それとの関係で、高度成長期に人口移動が都市へ流れ込むという流れがありましたが、その後、大きく変化している。モビリティの変化が見て取れるわけです。

34ページ、これは家計貯蓄率を見たものです。同じくシャドーの位置を確認いただければと思いますが、75年で23.1%という数字がございますが、そこまで高いレベルで継続しておりましたが、現在は6.2%ということで激減しております。さまざまな要因が考えられますけれども、一つ、65歳以上人口の割合、いわば高齢化の要因もその背景にあるのではないかということで、23.1%と6.2%のこの構造上の落差をご確認賜ればということでございます。

そこまでが経済でして、ポイントでは表現としましては、「右肩上がり経済の終焉」とか、「高度成長を支えた基礎的条件の消滅」という言葉を表現として入れさせていただいています。

こういうことも手伝いまして、高度成長期には、さまざまな雇用モデルとか家族モデルという標準ができたということですが、それがこの構造変化と合わせまして、多様化、非同質化といいますか、そういう状況が進んでいることは、これまでのご説明の中でたびたび多様化という言葉を使いましてご説明申し上げた点でございます。活力とか、真の豊かさをどう考えるかという問題がこのあとに出てくると思いますので、問題意識としてご議論を賜ればと思います。

財政のところ、36ページ。これはもう言うまでもございませんので、一言だけ。資料VIII-[11]、36ページの上のグラフです。フローの対GDP比とストックの対GDP比を書いてございますが、75年まではほぼ均衡財政でして、75年に大きく▲6.3%という数字がございますが、戦後初の赤字公債が発行されたということで、経済と連動している世界です。その後の財政再建、バブルということで、90年には0.0%という数字になりました。赤字公債脱却と呼ばれた時期です。その後、景気、バブル崩壊、経済対策、高齢化、あるいは経済構造上のさまざまな変化で現在は▲6.3%という数字でございまして、債務残高の対GDP比の大きさと合わせまして、持続可能性という問題が問われることはご承知のとおりです。

ここまでが、プレゼンテーション及び今までお出しいたしました資料の中で、この現象をとらえる--特に高度成長を境にして大きな構造変化があったということについて、きっとキーワードになるだろうなということを合わせて例示的にご説明を申し上げたということです。特に、標準的ものから多様化ということが随所に言葉が紛れてございますが、そういう感を事務方としては強く持ったということだけご紹介させていただきます。

時間を過ぎておりますので、あと1、2分だけ。本日は、このポイントを踏まえまして、この事実の過不足だけではございませんで、今後の経済・社会を考えていくときのアングルというか、ベクトルといいますか、あるいは、このデータから一体何を読み取るべきなのかというあたりをご議論賜ればと思います。ファクト上、例えば「多様化」と私は表現させていただいていますけれども、それは要するにいろいろなものができているということですが、それが持つ意味をどのように考えるかということが次の社会を考えるための大きなアングルだと思いますので、その辺のご議論をいただければありがたいというふうに思っております。

それから別な話でございますが、資料で、前回5月25日にお出しいたしました「基礎小13-1」というので「公共部門-社会像(モデル)」というのがございます。これは、前回、説明で終わってしまいまして議論ができなかったものです。この資料の赤い紙を2枚ほどめくっていただきますと、2と書いたもので、エスピン・アンデルセンの「福祉レジーム」のイメージというのを書いてございました。プレゼンテーションの中では、このあたりにつきまして詳細なご説明がございましたけれども、本日は、わが国が今度どういう社会選択をしていくべきかというあたりの、前回の積み残しのご議論も賜ればというふうに思います。

ちょっと長くなりましたが、以上でございます。

石小委員長

ありがとうございました。今、2月初めから延々と我々この小委員会がやってきました、いうなれば研究成果というか、勉強の結果の総ざらえであります。皆さん、頭の中に再度インプットを新たにしていただけたと思いますが、と同時に、今日はお二人の先生方に我々がこれまで何をやってきたかというご報告も兼ねているという形でありまして、それを前提にしてこれからお話をいただけたらと思っています。

最初に、武川先生からお話を伺いますが、武川先生は現在、東京大学大学院人文社会研究科の助教授でございまして、「社会政策」、「社会福祉」がご専門です。ご著書としては、『福祉国家と市民社会』、『福祉社会の社会政策』等々のご著書があると伺っております。今日は、福祉国家とか個人化といった点につきましてお話をいただけるものと思っております。

では、先生、25分ほどの時間しかございませんが、よろしくお願いいたします。

武川助教授

このようなところで発表の機会を与えていただきまして、ありがたく思っております。

(スライド1番)

私が最近、『社会学評論』で「個人化」という特集号を組みまして、そこに「個人化と福祉国家」という論文を書いたのですけれども、そこで書いてあることがこの研究会でこれまでやってきたことと重なるところがあるので、事務局から話してみてくれないかというご依頼を受けました。それで、今日こうやって来た次第であります。

(スライド2番)

時間がありませんので、どんどん話していきたいと思います。今日の内容は、これまでの日本の福祉国家のあり方というものを国際比較などの観点から特徴づけ、あるいは前回、宮本さんが話されたと思いますけれども、福祉国家レジーム論のコンテクストの中でまず特徴づけたいというふうに思います。その上で、現在、グローバル化とか、個人化とか、環境問題等々によって従来の福祉国家のあり方が反省を迫られている時期だと思いますけれども、その中で個人化現象というものにとりわけ焦点を当てて、現在の日本の福祉国家というものがどういうところに立っているか、こういうことについて話をしていけたらというふうに思います。

(スライド3番)

まず最初、日本の福祉国家についてですけれども、福祉国家という言葉についても非常に論争を呼ぶ言葉でありまして、そもそも日本は福祉国家なのかどうかというようなことがすぐさま議論になるのですけれども、社会学とか政治学などの世界で福祉国家と言う場合には、比較的限定された意味で用いられてきているだろうと思います。

(スライド4番)

これは私なりの整理ですけれども、従来福祉国家というのは、国家目標として、あるいは給付国家の特徴として、あるいは規制国家の特徴として考えられてきたのではないかと思います。その上で特徴づけを見ていく場合に、福祉政治であるとか、資源の再分配の構造であるとか、政府の規制の構造であるとか、こういったことが一つ大きな焦点になるだろうというふうに考えております。

(スライド5番)

その上で日本の福祉国家についての特徴づけですけれども、国際的な論争の中でも、日本がエスピン・アンデルセンの提示した3つのレジームの中のどれに該当するかという形での論争が非常に多く行われてきています。ある人はドイツと同じような保守主義レジームであるという言い方をしますし、自由主義であると言う人もいますし、あるいは保守主義と自由主義のハイブリッドであるという言い方をする人もいますし、あるいはまた、ヨーロッパの学者の中には、儒教型福祉国家であると、こういう特徴づけをする人もいます。

(スライド6番)

しかし私は、これはちょっと問題の立て方そのものが間違っているのではないかと考えております。エスピン・アンデルセンのレジーム論の前提というのは、ヨーロッパ諸国の歴史や社会構造をかなり綿密に分析して、その上で福祉のあり方を特徴づけてきたものであります。この点に関しては大いに学ぶところがあると思うのですけれども、そこから出てきた3類型論というものに対して若干疑問を持っている次第であります。

1つは、制度というものが表面的に似ている。例えば日本の社会保険制度はドイツをマネしてつくりましたから非常に似ているのですけれども、その背後にある労使関係のあり方とか、その社会のあり方といったものが日本とドイツではかなり異なっています。したがって、ヨーロッパでつくられたレジーム論をそのまま機械的に日本に当てはめることに関してはどうだろうかという疑問が一つございます。

それから、エスピン・アンデルセンは「脱商品化スコア」というスコアを使って3類型をつくっているのでありますけれども、そこで用いられているものは所得保障に限定されているわけです。ところが、エスピン・アンデルセンが言うところの脱商品化ということ自体で考えますと、所得保障制度もそうですけれども、労働市場に対する規制のあり方とか、その他、いろいろな公共政策のあり方によって決まってくるところがありますので、一つの尺度だけで福祉国家の類型を限定することに関してちょっと疑問を持っております。そこで日本の場合、日本の歴史と社会構造にまで基礎づけて見ていく必要があるのではないかと考えております。

(スライド7番)

20世紀後半に日本の福祉国家のあり方がどうであったかということを、簡単に整理してみました。これは従来言われてきたことをなぞっただけですけれども、一つは、ヨーロッパの福祉国家と比べますと、福祉政治という点で見ると、社会民主主義勢力が非常に弱い、それに対して国家官僚制が強い。ヨーロッパの社会民主主義政権が行った社会政策というものは、日本の場合、ある種の国家官僚制が疑似社会民主主義的な振る舞いを行ってつくってきた、そういう性格でございます。

給付国家という点で見てみますと、社会支出がOECD諸国の中で見ると相対的に低い水準にある。それに対して公共事業の支出が、ヨーロッパの国に比べると高い水準にある、こういう点が一つであります。

それから、福祉国家を考える場合に何を再分配しているかということだけではなくて、どういう規制を行っているかということが一つの重要な論点になるかと思います。日本の場合、経済的な規制が強いですけれども、逆に社会的な規制が弱いのではないかと思います。アメリカは規制緩和の国として知られているわけですけれども、雇用の平等であるとか、社会的な差別の禁止といった点での社会的な規制に関しては、かなり強い規制を行っています。こういった点も違いとしてあるのではないかということです。

(スライド8番)

簡単に図式化してみましたけれども、日本の場合、非常に狭い意味で福祉国家というものを考えた場合に、社会支出と社会規制ということだけで考えられるのですけれども、その外側にある、今申し上げました公共事業の要素であるとか、経済的な規制の要素であるとか、国家官僚制の強さであるとか、こういったものも含めて見ていかなければならないだろうということであります。日本の社会・経済は、現在、問題を抱えておりますけれども、それでもヨーロッパなどに比べますと、失業率は高くなったとはいってもかなり低い水準でありますし、80年代までは、ヨーロッパの国々は日本の社会の安定というものに対してかなり肯定的に見ていたという特徴があります。ですから、社会支出と社会規制ということだけではなくて、それ以外の側面も見て福祉国家というものを考えていかなければならないのではないかというのが、ここでの一つのポイントであります。

(スライド9番)

現在、20世紀後半までの福祉国家というものが岐路に立たされているのではないかということがこの図でありますが、一つは、この小委員会でも問題になっていましたグローバル化です。グローバル化によっていろいろな形で福祉国家に対する影響が各国であらわれてきていまして、これは日本も例外ではないでしょうということであります。しかし、今日の主題はそちらの点にはありませんで、むしろ個人化という社会の中での変化であります。イギリスの社会学者、アンソニー・ギデンズ、あるいはドイツの社会学者ベックという人がいるのですけれども、こういった人たちが、グローバル化と個人化というのは密接に結びついていて、グローバル化が進むということは一方で経済的な変化というのを非常に大きく与えているのですけれども、個人生活の面で個人化を促進している側面もあると、そういう議論を行っていますが、グローバル化、個人化というのは全く関係のないことではないかと思います。また、これ以外に環境問題も非常に重要なファクターとしてあるのですけれども、この点については後ほど広井先生からお話があるのではないかと思います。

(スライド10番・11番)

それでは、「個人化」ということですけれども、個人化というものについてどうとらえるかということは非常に難しい問題ですが、社会学の歴史の中で幾つか議論がございました。19世紀の終わりにデュルケームが『社会分業論』という本を書いたときに、個人化がどんどん進んでいるにもかかわらず、どうして社会の連帯、有機的な連帯というのが成り立っているのだろうか、こういうような問題意識がありました。その結果として彼は、有機的分業という概念にたどりついたわけです。

(スライド12番)

しかし、その後20世紀に入って、例えばイギリスにダイシーという法律の学者がおりますけれども、個人主義から団体主義、あるいは集合主義へというような言い方で当時の社会の変化のあり方を総括しています。ここに書いてあるような19世紀的な個人主義の原理というものが、20世紀に入って個人主義から団体主義へという形に変わってきているということを主張いたしました。

(スライド13番)

福祉国家というのは、当然、collectivismといいますか、団体主義の延長上にでき上がったものであるというふうに考えることができるかと思います。

(スライド14番)

そういう意味で、福祉国家というのはある意味で非常に団体主義的な性格を持っていたものですけれども、近年、一番典型は、先ほど言ったベックであるとかギデンズなどでありますけれども、福祉国家のもとで、とりわけ西ヨーロッパの社会で個人化というものが非常に進んできている。これは単に程度の問題ではなくて、社会の大きな変化をもたらす一つのしるしであろうというような議論を展開しています。

(スライド15番)

日本の場合、ヨーロッパで起こっていることがそのまま該当するわけではないのですけれども、共通の現象が非常に多く見られていることも指摘できるだろうと思います。ここでは個人化というものを、それまでの最小単位が分割してくる過程である、あるいはその分割に伴って、最小集団に帰属していた個人がそこから離脱してくる過程であるというふうにとらえることができるのではないかと思います。しかし、集団から離脱することはある意味で自由を獲得して自立を促すわけですけれども、他方でそれは、保護を失う、排除される、こういうことも意味してきております。

こういったことが日本の場合、家族、職場、あるいは地域、こういったところでどういうふうな形であらわれているのかということについて少し見たいと思います。また、最小単位の分割ということだけではなくて、それに伴って人々の行為様式のあり方、こういうものが変化してくるという点も指摘できるのではないかと思います。

(スライド16番・17番)

したがいまして個人化現象というのを、ここでは、家族、職域、地域、ライフスタイル、こういった点で考えていきたいと思います。

(スライド18番)

ベックが家族の個人化ということについて次のような定義づけをしていますけれども、男性も女性も、個人自身が、生活世界における社会的なものの再生産の単位になるのである。したがって個人が、家族から離れてマーケットによって媒介されたものによって大きく影響を受けるようになっている。こういう過程であるということを述べております。

(スライド19番)

家族の個人化というのはいろいろな言い方がされてきていますけれども、幾つか整理してみたいと思います。この小委員会でも、最初のほうに落合さんとか山田さんが家族について報告をなさっているようですけれども、一つは、家族形態の多様化です。もう一つは、福祉国家論の中では"male breadwinner model"という言い方をしますが、男性稼ぎ主モデル、これが非常に揺らいできている。山田さんの言葉ですと、戦後家族モデルが微修正されたけれども、それがとうとう90年代の末に至って解体されることになってきた。さらに、形の変化だけではなくて機能的な面での変化も家族の個人化としてとらえられる。落合さんとか山田さんの言い方ですと、私事化とか個別化、こういった形でとらえられる家族機能の変化が個人化であるというふうに言うこともできますし、また山田さんの言い方ですと、本質的な個人化というようなことで、そもそも家族をつくるか、つくらないかというようなことから始めて、かなり自由化、多様化が進んでいるということであります。

(スライド20番)

これは、東京都の有配偶者率ですけれども、30代の単身者がこの25年の間にかなり増えてきているのがわかるかと思います。

(スライド21番・22番)

それから家族ということで言うと、食事を一緒にするというのは非常に重要なことですけれども、そういうものがかなり揺らいできていることが、最近のいろいろなデータなどでも出てきています。

(スライド23番)

もう一つ、職域の個人化ということです。これについてはこの小委員会の中でファクトファインディングということで取り上げられてきていました。一つは、労働市場の流動化、あるいは非典型雇用の拡大ということですけれども、もう一つ、必ずしも十分に取り上げられていなかったかと思いますが、ベックの言い方で「市民労働」という言い方をするのですが、ボランタリー労働、こういったようなものが個人の仕事の中で重要な意味を持ち始めてきている、こういった点であります。

(スライド24番)

この点について少し見たいのですけれども、ドイツの「Expo 2000」というところで「労働の未来」というパビリオンができまして、そこに掲げられていたスローガンです。ドイツの場合、要するに労働市場の中で雇われて働くことだけで仕事というのを考えていたのではだめで、子育てにしろ、家事にしろ、教育にしろ、ケアにしろ、こういったものすべて含めて仕事であるという形で労働というものをとらえ直していく必要があるだろう。労働が個人化してくるということの中身としてこういうことがあるということです。

(スライド25番)

以上のようなところから、従来福祉国家が前提としていた集団的な労使関係が衰退してくる、あるいは企業保障が衰退してくる、こういうことが生まれてきているのではないかということです。

それから、地域というところに目を向けてみますと、やはりここ10年くらいで日本の地域もかなり大きく変わっていると思います。従来は地縁集団的な団体というものが地域社会で非常に重要な役割を果たしてきたわけですけれども、個人単位のネットワークがかなり重要な役割を果たすようになってきています。とりわけ社会福祉などの領域ですと、地域福祉というようなことが一つの重要な焦点になっていますけれども、その背景に地域の個人化があるのではないかと思います。

(スライド26番)

それから、消費の個人化、あるいは生活スタイルの個人化ということですけれども、福祉国家というのはある意味で大量生産時代に成立したこともあって、かなり画一主義的な消費と結びついていたところがあります。しかし、情報化とか消費化が進んできた結果として、消費の柔軟化というようなことが起こってきています。例えば日本で見ますと、住宅公団の分譲住宅が、かつてどういうふうに考えられていて、現在どういうふうに見なされているかということを見ても、消費の柔軟化ということがわかるのではないか。あるいは同じようなことは、スウェーデンでさえも個人化された消費に、福祉国家が提供するサービスが必ずしもうまく適応していないのではないかというようなことで示されています。

(スライド27番)

この小委員会の資料の中にちょっと載っていましたので、引用しましたけれども、消費の個人化を示す指標というものが見られるのではないかということです。

(スライド28番・29番)

最後に、以上の個人化現象が福祉国家に対してどういう影響を及ぼして、どういう対応をしていくかということについて少し考えてみたいと思います。

(スライド30番)

まず、家族の個人化ということですけれども、従来の福祉国家というのはジェンダー化された形で存在していた、これは否定できない。そのうちの大きなものは、税制にしろ、社会保障にしろ、世帯単位ですべてのことが考えられていたということがあります。また、家族は神聖なものであるという前提がありますから、その中に政府や公共的なものが入り込んでいくことに対して非常に警戒的であったということです。しかし、家族の個人化という前提から考えていきますと、従来の社会保障制度との矛盾であるとか、現在の社会保障制度の中での世帯類型間のエクイティの欠如であるとか、あるいはDVをはじめとして家庭内の問題が外に出てくるとか、さまざまな問題が起こってきている。

(スライド31番)

こういったところから個人化ということに対応して考えますと、脱ジェンダー化ということでくくれる政策も必要になってくるだろうと思うわけです。一つは給付国家という点で考えますと、税制であるとか社会保障の個人単位化というのが必至ですし、それから、日本では欠けています規制国家の側面で考えますと、労働市場や社会生活における機会均等のため、あるいは差別禁止のための政策がもっと追求されてよいのではないか。さらに、家族の神聖性とか絶対性ということでうやむやにされてきた家族内の不合理、こういうものに対する介入も場合によっては必要になってくるかと思います。

(スライド32番)

労働の個人化ということで考えてみますと、従来の日本の福祉国家というのは何だかんだ言っても企業中心でやってきました。しかし、それが必ずしも十分これからは維持していくことはできないだろうということになってきます。そうしますと、企業保障のポータビリティ化、社会保障化、個人保障化、こういったことが必然的に起こってこざるを得ません。

さらに労働が個人化するということは、従来福祉国家は集団的な労使関係を前提として成立していたわけですけれども、かなり個別的な関係が重きを持つようになってくる。それから、宮本さんの報告でもあったかと思うのですけれども、就労と福祉との関係が一つ重要なポイントとして浮かび上がってきます。

(スライド33番)

地域ということで考えてみますと、地域社会の中で構成単位、団体編成等々が変化してきています。とりわけ、社会保障全体というよりは社会福祉サービスの領域で特に重要になってくると思うのですが、ローカルガバナンスといいますか、地域の中でいろいろな問題を解決していくことがこれから福祉国家のあり方を考える場合に重要になってくるだろうということです。

(スライド34番)

それから消費ということで考えてみますと、国家の強い規制のもとでの福祉供給、こういうものが終わりを告げて、公共部門と民間部門の再編成が求められてくるだろうということになります。

(スライド35番・36番)

ちょっと時間を超過しましたけれども、最後に少しまとめをさせていただきたいと思います。今日お話ししましたように、個人化を前提としたときに福祉国家といったものが、以上述べました4つの要請、こういったものに応えなければならない時点に立っているのではないかということであります。

(スライド37番)

それから、前回お話が出たかと思いますけれども、現在、福祉国家をどう再編成していくかということで考えた場合に、2つの極端な方向として、ワークフェア的な考え方、ベーシックインカム的な考え方、こういうようなものがあります。これは両方、非常に対立的に考えられているのですけれども、よくよく見てみるとかなり共通するところもあります。ワークフェアのほうに労働と福祉の結びつけ方によって、Work first model、Service incentive modelという2つの考え方がある。それからベーシックインカムのほうも幾つかのパターンが考えられています。

(スライド38番・39番)

こういった中で考えてみた場合に、例えばベーシックインカムの中に参加所得というものがありまして、これはアトキンソンというイギリスの経済学者が提唱しているのですけれども、彼は、ここに書いてあるような一定の条件に該当する場合には、市民権を持った人々に最低限の所得を定額で全く無条件で給付する、そういう構想を持っております。

(スライド40番)

他方でワークフェアのほうでも、就労と福祉という、就労の中身が単に雇用ということだけではなくて、ボランタリーワークも含めて社会的に意味のある仕事、こういうことにまで広げて考えてくることになってきますと、ワークフェアとベーシックインカムというのが重なり合う部分があるのではないかと思うわけです。

(スライド41番)

そこの意味するところはどういうことかというと、今後、福祉国家を考えていく場合に、従来と違う点で考えていく必要があると思うのは、機会の保障とか、あるいは参加を促進する、こういうことのために社会的な投資を行っていくことが非常に重要になってくるだろうと。一つは、イギリスの「第三の道」などのような形でEmployabilityを高めることが重要なのですけれども、それだけではなくて、ベーシックインカムの中にあったような考え方で、社会的に有意義な活動。現在、年金制度の中で、育児期間、学生期間、ボランタリーワークに従事した期間、こういうものが必ずしも正当に評価されていないわけですけれども、こういうことをきちんと行っていくような制度の編成が必要になってくるのではないか。あるいは、最初の落合さんや山田さんの話との関係で言うと、ライフスタイルに中立的な社会政策、こういうことが一つ重要な課題になってくるのではないかと思っている次第であります。

若干時間を超過しましたけれども、以上で、私の話を終わらせていただきたいと思います。

石小委員長

どうもありがとうございました。大変貴重なご意見をいただきました。

ここですぐ質疑応答というのが手順なのですが、今日は少し時間が押しておりますので、次に、引き続きまして広井先生のお話を聞きまして、先ほどの佐藤調査課長の資料説明も踏まえて総括的に議論をしたいと思っています。

早速、広井先生にお話をいただきますが、広井先生は、現在、千葉大学法経学部の教授でいらっしゃいまして、「社会保障」、特に医療あたりについて積極的にご発言されていると思いますが、『定常型社会 新しい「豊かさ」の構想』、『日本の社会保障』等々のご著書があります。

今日は、定常型経済についてのお話をいただけると聞いております。20分程度しか時間がないのですが、よろしくお願いいたします。

広井教授

それでは、早速お話に入らせていただければと思います。このような機会を与えていただきましたこと、大変光栄に存ずる次第でございます。

お手元の資料のレジュメで、「基礎小14-4」と右肩になっているかと思いますが、「『定常型社会=持続可能な福祉社会』の構想」と標題がついているかと思います。これに即してごく簡潔にお話しさせていただければと思います。

最初に、社会像ということが先ほどからも出ておりますけれども、日本の現在については閉塞状況ということが、いやというほどといいますか、よく言われたりもするわけですが、その背景として、一つ、最も基本にある要因といたしまして、「経済成長」という、これまで戦後の日本社会が一貫して追い続けてきた価値といいますか、目標、それが従来のような形では維持できなくなっている。それに代わる価値といいますか、そういうものがまだ見い出し得ていない、あるいは、目指すべき社会モデルが見えないところに、閉塞状況と呼ばれる背景の一つがあるかと思います。

それで、これからの社会を考えていく場合に、突き詰めてといいますか、単純化すれば、対立軸として2つあろうかと思います。

1つは、「大きな政府(高福祉高負担)」か、「小さな政府(低福祉低負担)」か、というふうにしておりますけれども、いわば「富の分配」をどうするかという対立軸で、これはやはり社会保障が大きく関係してくることであろうかと思います。

もう一つの対立軸は、私のプレゼンテーションの本題になりますけれども、「成長」志向か、「環境(定常)」志向かということで、先ほどの第1の対立軸が富の分配に関するものであるとすれば、こちらは、富の大きさそのものをどうしていくか。これまでどおり成長を追求していくのか、そのあたりの軌道修正をしていくのかという視点であろうかと思います。これは、社会保障に対して環境政策に特にかかわってくる次元と言えるかと思います。

その2つの軸の関係ですけれども、そこに一つ図を入れておりますが、特にヨーロッパやアメリカの先進諸国では、主に第1の対立軸が戦後の政党対立の基調をなしていたと言えるかと思います。左側といいますか、伝統的社民、あるいはケインズ主義、「大きな政府」的な方向。右側の伝統的保守、あるいは市場主義と呼ばれる「小さな政府」的な方向、これが政権交代の対立軸となっていた。

ところが、考えてみますとこの両者というのは、実は経済成長志向という目標においては共通していたわけで、左側のサイドは、積極的な政府の公共事業や社会保障によって成長が実現できると考え、右側は、むしろ市場に委ねることが成長に寄与するのだということで、成長という目標においては共通していたかと思います。それが70年代、80年代くらいから徐々に、縦の対立軸--先ほど第2の対立軸と言った点ですけれども、これが環境問題として浮上してきたこと、その他、さまざまな要因から浮かび上がってきた。成長志向か、環境志向か。

その対立軸が浮かび上がると同時に、対立の局面が下のほうにシフトしてきたといいますか、より環境志向の軸足が強くなり、また、それまでの左と右の対立がむしろ接近してくる。左派のほうといえども低成長時代に何でもかんでも「大きな政府」というわけにはいかなくなり、逆に右側のほうも、少子・高齢化も進みますので、単純な市場主義では立ち行かなくなるということで接近してきている。そのような構造の中で、では、どのような社会の姿をイメージしていくのか、構想していくのかというのが問われている状況かと思います。

ただ、以上は主にヨーロッパやアメリカの状況に即した議論で、日本の場合について言いますと、戦後のこれまでの60年程度というのは、「成長がすべてを解決してくれた」と言えるかと思うのですが、パイの拡大によってみんなが豊かになって、ほとんどの問題が解決されていた。富の分配の問題に直面する必要がなく、政党対立ということも、先ほど申しましたようなヨーロッパ、アメリカにあったような対立がなくともパイの拡大によって吸収されていたという状況。これが90年代以降から大きく変容しているわけで、先ほどのご説明にもありましたけれども、そういう中でどのような対応を図っていくかということが問われているかと思います。

ここから、1、2、3ということで、社会保障と定常型社会、それから政策の話をごくかいつまんでお話しできればと思うのですが、最初の1番の社会保障の話は先ほどの武川先生のお話ともかなり重なりますので、あるいは、すでに前回などにも議論があったかと思いますので、ごくはしょっていきたいと思います。

日本の社会保障の特徴は、規模は、アメリカと並んで先進諸国の中で最も低いという点。内容は、年金の比重が大きくて福祉の比重が非常に小さいという点。財源は、税金と保険料が渾然一体になっているという点が指摘できるかと思います。

なぜ、そういう相対的に低い社会保障でやってこられたかということを考えますと、先ほどの武川先生の話とも関連しますけれども、見えない社会保障、インフォーマルな社会保障といいますか、会社や核家族が社会保障的な機能を支えてきたということと、日本の場合、公共事業が職の提供を通じた生活保障という形で、事実上、社会保障的な機能を果たしてきた。「公共事業型社会保障」というふうにしておりますけれども、そういうことが言えるかと思います。

これからの日本の社会保障、これは本日の主題ではございませんので、一言触れるだけに止めますと、私見ではございますけれども、医療・福祉重点型の社会保障という形で、年金は基礎的な生活保障にとどめて、医療・福祉といいますか、サービスに主体を置いた社会保障が望ましいのではないかと考えております。

それから基本理念といたしまして、先ほど来の話とも関連いたしますけれども、やはり「実質的な機会の平等」を保障することが、今、非常に揺らいでいるという状況がございます。かつ、機会の平等というのは将来の選択肢の幅という意味では個人の自由を保障する側面を持ちますので、そういった意味では個人の自由といいますか、自己実現の機会を保障するという意味での社会保障、そういう視点が今後重要になってくるのではないかと思われます。

財源につきましては、消費税、相続税、環境税ということを次のページにかけて入れておりますけれども、ここでは省略いたしまして、環境税の関係についてあとで少し立ち戻らせていただければと思います。

2番目としまして、今日の本題の「定常型社会」ということでございます。冒頭にも申しましたように、戦後の日本は、経済成長が国民を挙げての絶対的な目標という状況がこれまであったかと思います。しかし、現時点で問い直すべきは「成長は無限に可能か?」と。経済成長というのはその源泉が最終的には需要にあるというふうに、ケインズ以降、言われているわけですけれども、少なくとも物質的な需要といいますか、そういったものはかなり成熟化、定常化しつつあるのではないかということで、定常型社会ということをこれからの社会の一つのイメージとして考えられないかということです。

関連する要因といたしまして、先ほどの資料の説明にもありましたように、2006年をピークに日本が、明治維新以降といいますか、人口減少社会に入る、あるいはやがて定常化する。もちろん環境制約との調和からも、一定の資源消費の定常化が要請されるという側面があるかと思います。

今、定常型社会という言葉を使っておりますけれども、これは決して目新しいものではございません。古くは、古典派経済学を完成したと言われていますイギリスのジョン・スチュアート・ミルという人が19世紀の半ばに、本の中で"stationary state"、停止状態といいますか、そういう社会のイメージを出しております。やがて経済発展の末に社会は定常的な状態に達すると彼は論じたわけですけれども、その場合に彼が意識していたのは、当時は農業が中心の時代でありましたので、土地という自然的制約でやがて経済は定常化するだろう、と。

しかし、そのようにはその後の時代は動かなかったわけで、やがて産業化、工業化の時代になって、自然の制約をどんどん越える形で、人間の社会といいますか、経済が展開していったわけです。そういう意味では百数十年を経たのちに、もう一度地球規模でそういった制約に新しい形で、今、直面しているというふうに言うこともできるかと思います。

定常型社会に関しては当然いろいろな批判があり得るわけで、「進歩のない退屈な社会」ということがあるわけです。これに対して私がよく挙げる例は、音楽CDの売上総量が量的には定常化しても、ヒットチャートの中身はどんどん変わっていくという具合に、質的な変化というものは内包されている。それから資本主義の論理と相容れないという、かなり根本的な批判があり得るかと思いますけれども、マクロの富の総量の定常化と、個々の企業の利潤追求というのは、必ずしも矛盾するものではないということ、あるいは、あとでも触れたいと思いますけれども、ヨーロッパの社会はこういう定常型社会の姿に近いものになっているのではないかということを指摘しておきたいと思います。

では、定常型社会と言っておりますものの特徴ですけれども、一つは、「時間の消費」が中心となる時代ということで、消費構造から見てみますと、これまで、物質・エネルギーの消費、情報の消費ということで来たのが、時間の消費に移ってきているのではないか。現代の日本人に何が一番足りないかといったら、「時間が足りない」という回答が多く示されていることからも示されておりますし、あるいは、スローライフということも言われるようになってきている。

ちなみに、前後いたしますが、資料の8ページをお開きいただたければ幸いです。そこに図を入れてございますけれども、「経済・社会システムの進化と『定常型社会』のイメージ」ということで、左から順に、伝統的社会。これは、江戸時代とかそういう農業中心の時代のイメージです。それから市場経済が浸透し、さらに産業化、工業化。特に戦後はケインズ政策ということで、市場経済の規模は拡大してきたわけですけれども、その中で消費構造も、下にちょっと書いておりますように、変わってまいりましたのが、定常化という段階を迎えつつあるのではないかということで、関連する幾つかの点を下に示しております。

恐縮ですが、また3ページのレジュメに戻らせていただきたいと思います。時間の消費ということとも関係いたしますが、労働時間と失業問題。労働時間は年間で見ますと、国際比較で、大ざっぱに言いますと、今アメリカが先進国で最も長くて2,000時間ぐらい、日本が2,000時間弱で、イギリスが中間的といいますか、1,900時間くらいで、さらに大陸ヨーロッパといいますか、ドイツ、フランスになると、1,600時間前後が現状と言えるかと思います。

これまで経済成長が目標として強く掲げられていた理由は、失業があるから成長が必要だ、失業問題を解消するために経済成長が必要だということが言われてきたわけですけれども、やはり今、「失業問題をすべて成長によって解決できるのか?」という問いを考える時期になっているのではないか。

これまでは、そこに書いておりますように、経済成長と生産性上昇の無限のサイクルといいますか、失業が存在しているとしますと、失業が存在するのは経済の規模が小さいからだ、経済の規模が小さいのは需要が足りないからだということで、公共投資を行って需要を拡大する。一旦失業が解消する。ただ、そのあと生産性が上がりますと、同じ時間働いてたくさんのモノができるということですので、また人が余って失業が再度発生する。しかし、再び需要を拡大すれば失業も解消するということで、失業も解消され経済成長も実現してみんなが豊かになる、これが当然のようにサイクルが続いていたのがこれまでの時代であったかと思います。ところが、需要拡大というところがうまくいかなくなって、前提とされていたサイクルが必ずしもうまく機能しなくなってきているのが近年の状況ではなかろうかと思います。

次の4ページに進みますけれども、そういう意味で現在は幾つかの局面で供給過剰のような状況が見られる時代で、そういう状況になってきますと、労働生産性の上昇分をむしろ労働時間削減で対応するという発想への転換が重要になってくるのではないか。それでこそ失業問題にもむしろ寄与するという面が出てきている。ワークシェアリングという話も、このような文脈の中で考えられていくべき点ではなかろうかと思います。

そこに表ということで、「生産労働の変化とこれから」というふうにして、これは非常に単純化したモデルでございますけれども、3段階に分けております。工業化以前の社会というのは農業中心の社会ですけれども、男性も女性も比較的同じように働いていた。工業化社会になると、日本のイメージで言いますと、会社人間という形で生産労働が男性に集中する形で、女性は比重としてかなり小さくなっている。トータルの労働時間は少し減少する。

しかし、これからの成熟社会というのは、1.5 というふうにしておりまして、これはオランダの「1.5 モデル」、2人で1.5人分ということがよく議論にもなりますけれども、トータルの賃労働時間が減って、かつ、男性と女性でそれがいろいろな形でフレキシブルになる。しかも、先ほどの武川先生のお話とも関係してきますけれども、これはあくまで賃労働の話であって、それが減った分、家族とともに過ごす時間とか、子育てや地域活動に参加する時間が増えるということで、豊かさという意味からすれば、いろいろこういった方向を考えてよいのではないかということが言えるかと思います。

その他ということで、先ほど来お話ししております定常型社会というのは、自ずと分権型社会となる。その趣旨といたしましては、戦後の日本の場合、国を挙げての「成長」ということと「中央集権」が表裏の関係で、成長を実現するために中央集権的に号令をかけたという面が強かったかと思われますので、定常型社会は分権型社会と重なってくる。「公-共-私」の役割分担は社会保障の関係でございます。

あと重要なことといたしまして、市場経済、貨幣経済が定常化しても、それを越えたコミュニティとか、自然とか、環境、あるいは公共性といったものに関する、人間のより高次のニーズといいますか、そういうものが今後大きく展開していくのではないかということで、それが、NPOですとかコミュニティビジネスと言われる領域ともつながってくるものであろうかと思います。

定常型社会のもう一つの側面として、「営利-非営利」、「貨幣経済-非貨幣経済」という境界が連続化していくといいますか、そこに図を入れておりますけれども、横軸が営利と非営利の軸で、縦軸が貨幣的なものと非貨幣的なものです。従来は、左上と右下といいますか、Aの企業、これは営利で貨幣的関係、市場経済。それから右下、ボランティアというのは、非貨幣的で非営利というふうに位置づけられてきたわけですけれども、NPOなどの活動、それからボランティアの一部も、非営利でありつつ貨幣を媒介とするものが最近はいろいろな形で出てきておりますし、地域通貨の話などになると、営利-非営利とか、貨幣-非貨幣という関係も一つにおさまらないような性格が出てくる。こういった領域が、今後、発展すると言えるのではないかと思います。

次、5ページに進ませていただきたいと思います。今まで、定常型社会ということについて一般的にお話をさせていただきましたけれども、あえて定義的に言うとすれば、そこに、第一、第二、第三というふうにしておりますように、「マテリアルな物質・エネルギーの消費が一定となる社会」。第二として、「経済の量的拡大を基本的な価値ないし目標としない社会」。第三の意味として、「変化しないものにも価値を置くことができる社会」。「変化しないもの」というのは、例えば自然ですとか、伝統的なものであるとか、そういったことですけれども、そういった状況にこれからの時代はなっていくのではないかと思われます。

下のほう、第一、第二、第三のあとに行くほど強い意味での定常型社会ということで、これはいろいろな側面から考えていけることかと思います。それから定常型社会が、高齢化と環境親和型社会とどういう関係にあるのかというのを、その下の表のようなところに簡潔に示してございます。

最後の部分になりますけれども、政策対応ということで、これはごくかいつまんでお話しさせていただければと思います。定常型社会においては、冒頭に触れました社会保障政策と環境政策が非常に重要になってくるのではないかと思いますけれども、定常型社会というのは言いかえますと、持続可能な福祉社会、サステイナブルなウェルフェアソサエティといいますか、環境調和的であり、個々人の福祉が実現される社会が果たしてどのような形であり得るのかということになってくるかと思います。

そこで重要になってくるものとして、一つ、社会保障政策と環境政策の統合という点に触れさせていただければと思います。これは、国のレベルや、幾つかの地域レベルや、地球的なレベルがございますけれども、国のレベルの政策として私などは非常に面白い政策ではないかと思いますのが、社会保障財源としての環境税ということで、ヨーロッパでは多くの国が、ドイツ、デンマーク、オランダ、それからイギリス、スウェーデン、ノルウェーなども同じような政策をやっておりますけれども、象徴的なのが、最近ではドイツが99年にエコロジカル税制改革というのをやっております。

これは、環境税を導入するとともにその税収を社会保障に充てて、かつ、それによって年金の保険料を引き下げるという非常に面白い政策で、次のページに移りますけれども、ねらいとしては、環境税によって環境負荷を抑制しながら、社会保障に使うことで福祉の水準を維持し、かつ企業にとって年金の社会保険料負担を下げることで、社会保険料負担から来る失業率上昇を抑えるとともに国際競争力の強化にも資するという、いわば複合的な効果を目指した。

それから、より根本にある考えとしては、これまでの税制が労働あるいは所得への課税であったものを、自然資源消費への課税ということで、かつてのような労働力不足、資源余りの時代には、労働生産性を高めるのが第一だということで雇用に対して税をかける。ところが、現在はむしろ労働力余り、失業の問題が深刻になって、逆に資源の不足が顕著になっている時代には、労働力はある程度使ってもいいから資源の消費を抑えるということで、インセンティブを労働生産性から資源効率性のほうにシフトするということで、福祉あるいは社会保障と環境が結びついた、非常に興味深い政策の一つではなかろうかと思います。

それから、地域レベル、地球レベル、それぞれにおいて環境と福祉の統合を図っていくのが重要な課題になって、これについてはさまざまな試みも行われているかと思いますし、地球レベルについても、地球レベルでの富の再分配や定常型社会ということを考えていくのが、長期的には求められているのではなかろうかと思います。

次の「その他の政策統合」ということで、社会保障と雇用、教育と社会保障というのは、少し別の側面がありますので省略させていただきまして、最後の7ページ目です。そのように定常型社会、あるいは、持続可能な福祉社会ということをイメージしながら、関連分野の、幾つか触れてきましたような社会保障、環境、雇用、公共事業、教育といったものを総合的にデザインしていくことが重要になってきているのではないか。

「おわりに」ということで、冒頭にも触れましたように、基本的な対立軸として「大きな政府」か「小さな政府」か、富の分配の話と、成長志向か、定常志向かという富の大きさの対立軸があるわけですが、私などが見ますに、近年、アメリカとヨーロッパのこういった対立軸に関する社会モデルや価値の相違が非常に顕在化しているような印象を持っておりまして、アメリカ型モデルというふうにとりあえずしておりますけれども、「強い成長志向&小さな政府」。ヨーロッパ型モデル--もちろんヨーロッパも多様ではございますけれども、とりあえず大まかにくくりますと、「定常(環境)志向&(相対的に)大きな政府」。単純な大きな政府ではございませんけれども、相対的にはということで、社会モデルの相違が顕著になってきているのではないか。

どちらがよいと考えるかというのは、最後は価値の選択の問題で、一義的な答えが出ることではございませんけれども、私自身は、日本はヨーロッパ型の社会モデルにもう少し目を向けてもよいのではないかと考えておりますし、いずれにしましても、こういった基本的な社会モデルの選択についての議論を重ねていく必要があるのではないかと考えております。

以上でございます。

石小委員長

ありがとうございました。環境あるいは定常型という視点で新しい側面をご提示いただいたと思います。

それでは、予定した時間まであと25分くらいしかないのでありますが、今のお二人の先生のご指摘を中心にいたしまして、冒頭、事務局が過去の総まとめをしてくれたことも踏まえて少し議論したいと思います。どうぞ、時間もございませんから、どなたからでもご発言ください。

本間さん、どうぞ。

本間特別委員

武川先生のお話、非常に興味深く拝聴いたしました。経済学においても福祉国家と個人の関係というのは、20世紀に入る頃からきわめて体系的に議論された問題でありまして、その際に個人主義という考え方はもうあの頃言われておりました。それは、ナショナルなウェルフェアというのは個人のウェルフェアに帰属させて考えるのだ、国家というものが自立的な存在としてそれと独立した形で規定できるかどうか、こういう問題が一つのポイントでございました。福祉国家観の背景に、国家が個人の生活にどこまでコミットするかという根源的な問題があって、あの当時、個人に帰属させるといっても、ポヴァティライン、あるいは生存の基盤すら危うい状況の中で、それを救貧的な形ですくい上げる、こういう背景があって、そして、今日のご議論の中にもそれがジェンダーの問題に形を変えておりますし、さまざまな形でのいわばボーダーライン的な福祉社会の中で議論されてきたというのが特徴だろうと思います。

ところが、日本の場合には、今抱える問題というのは、成熟化され所得水準がきわめて高くなって、世界で類例のないほど資産を保有している状況の中における現代的な個人化の問題、この問題に対してどう考えていくかということがおそらく税制の問題を考える上でも非常に重要なポイントになってくるのではないか。例えばアトキンソンの問題もございます、ワークフェアの問題とナショナルなミニマムなインカムをどのように規定するかという問題は、これは所得最低限の問題であり、そしてそれが、ワークインセンティブに対するどのような考え方があり得るか、こういう問題に帰属させられるわけでありますけれども、もう一つ我々が抱えている問題は、高額所得者、あるいはレーバーサプライにおいて効率的な方々に対する課税の問題とそうでないものを、累進性という構造の中でどのようにコンプロマイズしていくか。いわば効率性と公平性とのトレードオフをどのように考えるか、こういうような問題もございますし、家族の要素をウェルフェアの中でどのように位置づけていくかということは、結婚の中立性でありますとか、さまざまな条件の中で課税単位として考えなければならない問題が出てくるわけであります。成熟化され、ある程度の社会的な豊かさを達成できたあとにおける国家と個人との関係について、もう少し踏み込んだ説明をお願いできれば非常にありがたいと思います。それが第1点です。

もう一つは、広井さんのお話でございますが、我々、構造改革をやっているときに、今の状況をどういう形でとらえるかということですけれども、定常社会から我々は離脱していくのではないかという危機感で構造改革をやっているわけです。グローバル化をしていく中で我々が今までの生活水準をどういう具合に維持していくのか、中国が資源を全部持ってエネルギー価格が高騰するときに、我々はディフェンシブな形でどのように対応するのか、こういうような問題もございます。人口構成で少子・高齢化が進んでいったときに、あと100年くらいたってくると、非常に少ないボリュームの中でどのように定常的な形に持っていけるかどうか、こういうような部分がありますので、方向性としては気持ちがわかるのですけれども、発散型の社会で今我々がいるような状況でそこをどのようにコンプロマイズしていくのか、あるいは収束させていくのか。ぜひ、その辺のところについてお話をお伺いしたい。

石小委員長

冒頭から根本的な問題になりましたけれども、お一人ずつお答えいただけたらと思います。

では、武川先生から。

武川助教授

ご質問ありがとうございます。現代的な段階における国家と個人のあり方についてもう少し説明しろということですけれども、非常に難しい問題でありまして、一言では言えないと思います。ただ、基本的には、現在の個人化というのが、むしろ福祉国家によって可能になった個人化であることは指摘しておかなければならないかなという気がします。福祉国家が個人化を促すわけですけれども、それが前提としていた制度が新しい個人化と齟齬を来すようになってきている、こういうことは言えるのではないかと思っています。

あと効率の問題で、参考になるかどうかわかりませんが、お配りした参考資料の中に宮本さんと小沢さんと3人で話した座談会の記録があるのですけれども、そこでベーシックインカムについて触れています。ベーシックインカムというのは、通常、非常に金がかかるものというふうに考えられているのですけれども、効率の問題を考えると、基本的には累進課税ではなくて定率税制を前提にして各個人に最低限所得を保障する、そういう仕組みなんですね。そういう意味で言うと、能力のある人たちをどう処遇するかという問題提起だったと思うのですけれども、そちらに関しては、働けば働くほど、定率ですが課税されないので、蓄積されていく。そういう考え方も含まれているかなと、ちょっと蛇足になるかもしれませんが、一つ指摘しておきます。

石小委員長

ありがとうございました。では、広井さん、お願いします。

広井教授

非常に根本的な点で、私自身も、以前、成長率が結構あった頃は、定常型とか言うと、いや、もっと成長できるという批判をいただいたのが、最近では、0%でなんてとても行けないのではないかと、逆に定常型を言うことが成長志向というぐらいに状況が変わってきている面もある。しかも、また最近は状況が変わってきているかと思いますが、それはおきまして、一つは、例えばアジア諸国とか、グローバル化、中国の追い上げとか、そういうこととの関係で言いますと、私自身は、ある程度の定常型経済を実現していくのは、先進国としての責務といいますか、今度はこういう途上国が追い上げてきたから、また何とか成長を維持しなければという発想は当然避けられない面もあるかと思うのですけれども、同時に構造変化という意味で、かつてのような成長を維持することは難しい状況があるかと思います。先進国としては、定常型の経済をいかに実現していくかというのを、そういう意味では率先してリードしていくといいますか、そういうのが大きな規模で考えると必要になってきているのではないか。

それから、いろいろなレベルのガバナンス、公的部門の対応がないところの定常型というのはなかなか実現できないものがあるかと思います。グローバルレベル、それからEUもございますけれども、リージョナルなレベルとか、それぞれのレベルでの望ましい公的なガバナンスといいますか、そういうものがあって実現できることではないかというふうに思っております。

石小委員長

時間も少ないので、できましたら、大きい政府、小さい政府、あるいはアメリカ型、ヨーロッパ型というのがお二人の先生からご関心が出ております。我々も実は時間があればその辺についてじっくり詰めたいとは思っておりますが、そういう点につきまして何かお考えなりご意見があれば、今後、まとめる方向がおのずからにじみ出てくると思うのですが。ただ、これに拘泥しませんので、どうぞ自由にご関心の向きをおっしゃってください。

どうぞ、田近さん。

田近委員

それとも関係するのですけれども、前回のお話も聞いていて非常に参考になったのですが、ここは今、税調という場で議論しているのですけれども、税と社会保障との関係、あるいは組み合わせというのが大きな問題になってきたのかなと。何ページということを申し上げませんけれども、我々が知っているのは、イギリスは社会保障も伝統的にタックスでやる、ドイツは社会保険型で、事務局のさっきの説明からも、ドイツは最近社会保険がものすごく上がってきている。スウェーデンは両方高いけれども、比較的税が多いとか、いろいろな組み合わせがある。

最後のほうに武川さんも、アトキンソンのベーシックインカムとか、ワークフェアとか出てきたわけですけれども、税調のここでのおそらく一番重要な議論の一つは、我々の任務というのは一体どこまであるのだろうかと。社会保障と税と……まあ、社会保障はギブンでやっていくのか。日本の場合、社会保障は、90年代、とにかく減税し過ぎたということはたしかで、それに比べれば社会保険は上がっているのですけれども、では社会保険が任務をしているのか、仕事をしているのかといえば、ほとんどのことは国費が半分くらい払っているので、税がやっている。あえてここで答えが出るような話はできませんけれども、税を考えるときも、やはり社会保障と組み合わせてどこまでここで射程に入れて議論するのか。それはベーシックインカムなのかどうか知りませんけれども、その射程をこれからどう絞っていくのかというのが最大の議論だと。

石小委員長

武川先生は税調の委員ではないから、あなたの質問に答える必要はないと思うのですが、今のような悩みを持ったのがいっぱいいますので、何かサゼスチョンがあれば、ぜひ。つまり、税か社会保険料かというのは大変な問題だと思うんですよね。それはいかがでしょうか。

武川助教授

税調と関係のない立場なので自由に発言させていただきますけれども(笑)、2つありまして、1つは、大きい政府か小さい政府かということです。広井さんもその話が前提となって、宮本さんもそうなっていたと思うのですけれども、政府の大きさはもちろん重要ですけれども、どういう機能を果たしてどういう規制を行うかということも、実質的な社会保障とか社会のあり方を考える上で非常に重要だと思うのです。雇用の機会均等とか差別禁止とかいうようなことは、必ずしも税金を伴わないで行われる政府の施策であって、しかも実質的に社会保障と同じような役割を果たすことがあり得るわけですから、その辺を含めて、大きい政府か小さい政府かというのは総合的に考えていかなければいけないのではないかというのが私の立場です。

その延長上でもう一つのことですけれども、私は別に厚生労働省でも財務省でもなくて、第三者的に言えば、税金と社会保障を分けて考えるということは感覚としてちょっとわかりにくいかなという気がします。国民から見れば、どうして社会保険料を社会保険事務所に支払って税金を税務署に支払うかというのは、ちょっとわかりにくいのではないか。国によっては税務署が一括してやっているところもあるわけですし、それは個人的には全く問題のないことだと思います。それから、ベーシックインカム的な発想を徹底すれば、結局、控除を廃止してベーシックインカムみたいなものに給付として一本化してしまうという話ですから、社会保障と税制の区別は一切なくなってしまうことになります。そこまで極端なことは言うつもりはないですけれども、そういうアイデアもあってもいいし、ほかの国で議論され始めているということは言えるのではないかと思います。

石小委員長

竹内さん、どうぞ。

竹内特別委員

今の個人化の傾向について、私もそういった傾向はそのとおりだと思うのですけれども、ポイントは、制度的な問題と個人の関係がどう整合するか。国と個人の関係というよりは、その間にいろいろな職業組合あるいは縦型の年金制度が絡み合ってきて、我々の意図とかかわらず帰属社会を通じて国とつながっているという関係、これを一回壊さなければいけない。つまり、国と個人化がストレートにつながるような制度にするために、一回ユニバーサルなものに変えなければいけないということが私はポイントだと思うのです。ドイツ、フランスでも、そういったきちっとしたユニバーサルな、どこの社会に属していようと制度的に一貫しているということが制度設計上どのようにできるのか、あるいは、大きな政府か小さな政府か--基本的には大きな政府にならざるを得ないのはわかっているわけで、しかし、それがいかに透明度の高い制度になるかということ。

もう一つは、これは先生の分野ではないかもしれませんけれども、実際上、日本の制度が欠陥をたくさん持った制度だということになると、制度設計上、これをいかにスピードアップしてやるかということ。女性の問題もすべてそこに絡まってきておりまして、年金制度についても、女性は名前が変わるとかいろいろなことで、時系列を追えなくなってしまうというようなことをまだたくさん抱えておりまして、そういった制度設計上、どういったシナリオを考えるかということについて、もし何かあればということです。

石小委員長

難しい問題ですが、何かお考えがありますれば、お伺いさせてください。

武川助教授

すみません。難しくてすぐ答えられませんが、社会学は個人と国家の間にある中間集団というのを比較的重視してきた伝統がありますので、企業にしろ家族にしろ、そういうのを解体してしまうということはちょっと言いにくい立場に私はあります。

ただ、個人がどこの集団に属していても、国家との関係で全く同じ扱いを受けるべきであるというのは全くおっしゃるとおりだと思うのですけれども、それと同時に、福祉とか何かを考える場合に、国と個人ということでやるといろいろうまくいかない問題が出てきて、地域の中で中間集団的な、NPOでも何でもいいのですけれども、そういうものの役割というのはこれからもどんどん増してくる。だから、ある意味で普遍化していくことは重要ですけれども、普遍化した個人を前提にしたネットワーク的なものはますます重要になっていくのではないか。あまり大した答えではないですけれども。

石小委員長

遠藤さん、どうぞ。

遠藤特別委員

広井先生にお聞きしたいのですけれども、先ほど本間先生がご質問されたことと同じかもしれませんが、これからの日本の社会は人口が減って老年者が増えるということですから、社会保障を今までどおりやろうとしても若い人の所得を増やさなければ維持できない。そこから出てくる話は、先生のおっしゃる定常型社会にして、全体の富を一定にするというのは不可能だと思うんですよね。どんどん、どんどん減っていってしまうと思うのです。ですから定常型というか、今の富を一定にするのであれば、もっと成長率を高めて若い人の所得を増やして、その中で社会保障の税源を見ていくとか、そういう形にならざるを得ない。そのために、今、本間先生などが構造改革をやっているのだろうと思うのですけれども、そういう社会のときに、足りない部分を環境税だけで補うというのは、相当な企業に対する負担になるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

広井教授

これはまた、すぐにお答えできない部分が大きいのですが、まず、ちょっと説明をはしょった部分がございます。社会保障としては私自身は医療・福祉重点型と申しましたように、日本の社会保障はかなり年金に偏っている制度ですので、年金などはかなりスリム化して、医療・福祉のサービスの部分などは拡充するような形でやっていけば、社会保障の規模としてはそう大きなものにならない形にしていけるのではないか。これは社会保障をどうするかという話で、あらゆる分野を手厚くというのではなくて、社会保障の設計の仕方によってかなりそれは対応できる部分がある。

それから財源につきましては、環境税は一つの例として挙げましたけれども、決して環境税だけでという……環境税はどんなに大きくしてもせいぜい数兆円とかの規模ですので、それでという趣旨ではございません。消費税などは私自身はやはりヨーロッパ並みの水準になっていくことは避けられないのではないかと思いますし、それから相続税、所得税、そのあたりも、これはまさに税調で議論されることだと思いますけれども、そういったあたりも全体的には税財源の拡充は必要ではないか。

では、その中で定常型社会というのは本当に実現できるのかということになりますと、私も一番難問だと思っていますのが、人口のピークは2006年に迎えるわけですけれども、高齢化のピークはむしろ2050年くらいまで続くので、そこらあたりのタイムラグといいますか、過渡期が非常に難しい。そういう意味では一定の生産性を高めたりすることは必要かとは思うのですが、ただ、例えば失業問題などへの対応についても、では需要を増やして経済を拡大することで対応できるかというと、それもまた限界もあるのではないか。そういう意味では成長というよりも定常というような、基本的な価値観といいますか、労働時間はむしろ減らしていくとか、生産性、効率というよりは、ゆとりとか、そういった別の形の豊かさを考えていくことで何とか乗り切れるのではないか、そんな感じで考えております。

石小委員長

時間もなくなってまいりました。もうひと方くらい、どなたかご質問なりご意見を。

では、井堀さん、どうぞ。

井堀特別委員

広井先生に質問ですけれども、労働課税と資産課税のところで、労働力が余っていて資源が不足している時代には、余っているものに課税しないで、不足しているものに課税したほうがいいと、そういうお考えかと思います。これは、マーケットで労働なり自然資源に対する価格づけがうまくいってない場合に当てはまる話で、要するに余っていれば価格は安くなって、足りなければ価格は上がるわけですから、例えば原油が希少だとすれば、原油価格が上がる形でマーケットでは調整がつくはずですよね。それを越えて税の段階で、希少資源だからあえて高くしなければいけないということは、逆に言うと、希少資源の場合にはマーケットでの価格づけがうまくいってない。余ってるものはうまくいってるとか、逆にいってるという、そういう前提があると思うのですけれども、それは実際に例えば労働賃金の価格づけなり原油のような自然資源の価格づけで、マーケットのメカニズムでの価格づけが本当にバイアスがかかっているという、そういうことも前提になっているのでしょうか。

広井教授

そこまでは必ずしも私自身の中でまだ整理できていません。ただ、例えば企業の構造ということに関しても、労働生産性を高めるということよりも資源消費の効率性を高めることの要請が、現在のようにむしろ労働力が余って失業の問題が顕在化しているようなときには、インセンティブを変えるという意味では労働生産性から資源消費の効率性へシフトしていくという意味で課税をそちらにシフトしていくべきではないかと。今おっしゃられましたようなメカニズムが働いているかどうかというあたりについては、ちょっと私の中でもまだ十分整理できていないところです。

石小委員長

予定いたしました時間が来ましたので、これで議論は今日は終わりにしたいと思います。お二人の先生、お忙しいところをどうもありがとうございました。貴重なご意見をいただきました。今日は実はこの種の勉強会的な検討会は最後なので、ちょうどいいまとめをしていただいた、このように考えております。あとどのような報告書が出るかは、外からウォッチしてコメントしてください。

あとは身内の話でありますので、お忙しいと思いますから、どうもありがとうございました。ご退席いただいて結構でございます。

あと、今後の予定のことをお話ししますが、最初に、返却と書いてある袋がございます。「会議終了後回収」ということで、これは今後の我々の報告書の中身になります。お手元に次回以降お渡しするということで、今日は未定稿の部分もございますので、そのままお残しください。

次回は、6月11日金曜日午後2時からを考えております。これからは、これまでの9回やりましたいろいろな成果を、どうやって報告書という形で文章化するかという仕事になろうかと思います。そこで次回は、完全な文章になるというよりは、俗に言われるたたき台をボキボキという格好で事務局がまとめて、我々の議論の参考にしたいと思っていますので、それを用意してもらおうと今から依頼をしております。ボキボキというのは、いうなれば項目を並べその問題点を整理するという形ですが、これをたたき台にいたしまして、文章化は15日、そして22日に一応総会でこれをご承認いただいた格好で公表したい、こういうことを考えております。

報告書のまとめに当たりましては、総会メンバーの方にも引き続き、これまでご参加いただきましたので、貴重なご意見をこれから伺いたいと思っています。次回以降は取りまとめという形もございますので、議事は非公開にしたい、このように考えております。

実は、これからもう一ラウンドありまして、総会をやろうということになっております。これは、金融小の取りまとめについてご説明いたしましてご承認いただきたいということでございます。

長時間にわたりますので、5分ぐらい休憩にいたしたいと思います。4時5分から再開いたしたいと思います。

〔閉会〕

(注)

本議事録は毎回の審議後、速やかな公表に努め、限られた時間内にとりまとめるため速記録から、財務省主税局及び総務省自治税務局の文責において作成した資料です。

内容には正確を期していますが、税制調査会議事規則に基づき、事後の修正の可能性があることをご承知置きください。