第13回基礎問題小委員会 議事録

平成16年5月25日開催

石小委員長

それでは、時間になりました。第13回目になりますが、開催いたします。

まだお見えになっていない方もいらっしゃいますが、前回の「環境」問題に引き続きまして、「公共部門」を取り上げるという形でお三方の先生をお招きしております。

後ほど詳しくご紹介いたしますが、東京大学の加藤先生、北海道大学の宮本先生、東京大学の山脇先生、お三方のお話を聞くので、4時までという形で30分早めましたが、一応2時間半という形で予定しておりますので、よろしくお願いします。もし時間があれば、少し時間をとりまして、今日の3人の先生方の話をベースにいたしまして、少し我々の方向感を出すような議論もしたいと考えております。

それでは、いつものように事務局からまた大変懇切丁寧な資料をお作りいただいておりますので、佐藤調査課長から、その核になる部分だけ、切り口の部分だけご説明いただくことから始めたいと思います。

では、佐藤さん、お願いします。

佐藤調査課長

それでは、ご説明申し上げますが、事務局から2種類、資料をお出ししています。「基礎小13-1」「基礎小13-2」といたしまして、「公共部門-社会像(モデル)-」というものと「経済・財政」という2つお出してございます。今日のプレゼンテーション及びご議論はこの「社会像」を中心に行いますので、こちらをご説明しまして、「経済・財政」については今回は省略させていただきまして、必要とあらば次回にでもというふうに思っています。ただ、「経済・財政」につきましては、資料をぱらっと見ていただければわかりますが、日本経済を高度成長期、安定成長期、バブル期以降と3つに分けまして、それぞれの時期のキーファクターになったものがどういう動きをしたか。例えば貯蓄率とか、人口の動きとか、そういうものを入れてございますので、ぜひご参考いただければと思います。

それでは、お時間の関係がございますので、「基礎小13-1・社会像」という資料のご説明をいたします。真ん中あたりに赤い紙がございまして、公共部門の基礎データという目次がございますが、それを1枚めくっていただきまして、1の横紙をご覧いただきたいと思います。「経済社会構造の変化と『社会像』の選択」というタイトルの紙でございます。

この紙をご覧いただきますと、本日のご議論の位置づけがわかろうかと思いまして用意させていただきました。実は今まで、第1回「家族」から始めましてさまざまな切り口で構造変化というものに接近してきたわけでございます。そういうものが前提となりまして、今後、公共部門の姿をどう考えたらいいのだろうかとか、それから、公共部門のあり方を考えるということは社会の像を考えることになるということで、右側の箱の中をご覧いただきますと、例えば公共部門の役割と負担水準といういわば受益と負担の組合せということになりますと、「低福祉・低負担」「中福祉・中負担」「高福祉・高負担」という形になりますが、これを社会像ということで対応するイメージで置きかえますと、自助(「自由主義」)、共助(「保守主義」)、公助(「社会民主主義」)というふうなモデルがございます。これは、デンマークの学者でございますエスピン・アンデルセンという方の「福祉レジーム」という頭の整理がございまして、それをもとに類型化するということでここに掲げさせていただいているわけでございます。本日はこの部分についてご議論をいただき、またプレゼンテーションもいただけることになろうと思います。いずれにしましても、税の議論といいますのは、この箱を議論するとともに、下の箱でございますが、「税制の構造」という議論にも波及していくわけですが、いわばその前段階を今日ご紹介させていただく、あるいはご議論いただくということでございます。

1枚めくっていただきまして、先ほどエスピン・アンデルセンの「福祉レジーム」と申しましたが、これを簡略にポンチ絵にしたものでございます。自由主義、保守主義、社民主義とございまして、それぞれの人が生きていく上での例えば社会保障というサービスをどういう主体から得ているかということで、国と個人ということだけではなくて、その間には、家族だったり、会社だったり、市民活動だったりという、さまざまな主体の中で我々が生活をしているという中での受益・負担のバランスをどう考えるかという提示でございます。このあたりにつきましても、今日、プレゼンテーションの中で取り上げていただけるものと思っておりますので、説明は省略させていただきます。

以下、いろいろ資料をつけてございますが、お時間がございませんので、議論の中でもしも必要とあれば参照していただくということでつけてございますので、説明は省略いたします。

それで、この資料ちょっと前に戻っていただきまして、としたもので、本日の「公共部門-社会像(モデル)-に関する論点・切り口」を整理してございますので、このアンダーラインのところをちょっと読まさせていただきます。

「これまで行ってきた経済社会の構造変化の『実像』把握の取組みを踏まえ、また、経済構造の変化や深刻な財政状況の下で、今後の公共部門の役割、負担水準、税構造のあり方について、どのように考えるべきか」ということで、下でございますが、いわゆる「高福祉・高負担」、「中福祉・中負担」、「低福祉・低負担」といったようなことのいずれの方向性を念頭に置くことが適当と考えるか。あるいは、今後の「社会像(モデル)」として、「自助(自由主義)」、「共助(修正保守主義)」、「公助(社会民主主義)」のいずれの方向性を重視することが適当と考えるか。

それから、「これまで家族やカイシャ等が担ってきた機能の低下」ということですが、これをどのような形で補完していくことが考えられるか。北欧型の「高福祉・高負担」社会モデルは、経済社会の規模や文化的背景が大きく異なるわが国においても成り立ち得るのか。経済社会の活力が乏しいという見方があるが、どうか。次のページでございますけれども、上の段でございますが、「市民社会や慈善団体の存在がセーフティネットとして機能する」ということでございますが、このような伝統の薄いわが国において、欧州大陸型の「保守主義」社会、米国型の「自由主義社会」の実現可能性をどう考えたらいいか。

それから、「そもそも『公共性』とは何か」という話でございます。日本人の「公」に関する意識がどのような特色が見られるのか。それから、「公共性」が適切に発揮されるためには、「信頼関係のネットワーク(ソーシャル・キャピタル)」が重要であるという考え方がありますが、これをどう構築していくべきか。あるいは、わが国において市民社会ないしNPOの活動が広がる可能性についてどう考えるか。あるいは、それについてどの程度社会的に重要な主体としての役割を期待できるのか、といったような点を念頭に置いたご議論を賜ればと思います。

以上でございます。

石小委員長

ありがとうございました。膨大な資料をお作りいただいたわりには説明が簡略化されてしまいましたので、あとで皆さん各自この資料をよく読み込んでいただきたいと思います。同時に、我々が議論すべき方向が、今、佐藤さんの整理によりましてだいぶ明らかになってまいりました。そういうものを頭に入れて、今からお三方の先生からお話を伺いたいと思います。

まず最初に加藤先生でございますが、東大の大学院法学政治学研究科で、現在、「公共政策」、「比較政治学」等々の講義並びにご研究をされております。ご著書として『税制改革と官僚制』等があります。当税調の専門委員でもあられるので、これまでいろいろな形でこの税調にもかかわっていただきました。

では、加藤先生、よろしくお願いいたします。

加藤教授

ご紹介、ありがとうございました。

(スライド1番)

今日の報告は、時間がかなり限られておりますので、私の最近の著作、ケンブリッジ大学出版会から出版しました著作の結論をかなり断定的な形で述べさせていただきます。この研究においては、OECD18カ国の1960年代から現在に至るまでの租税のデータ及びその統計分析を行い、そして8カ国のケーススタディを行っています。ですから、疑問がある方はあとのほうで質問していただければと思います。

(スライド2番)

最初に、今から発表いたしますこの著作の内容のポイントを整理いたします。

第1に、高い所得分配の平等を達成した福祉国家は、高水準の公共支出をまかなうために逆進的課税--これは定率課税を意味しています。定率課税に依存する傾向を持つというのが第1のポイントです。これは、福祉国家が累進的な所得課税と社会保障プログラムに依存するという通説を少し修正するものであります。

2番目のポイントは、総課税負担の増大とそれに伴う逆進的課税に対する依存が、逆進的課税を導入するタイミングによって政治的に生じたというものです。このタイミングというのが、高度成長の終焉以前に逆進的課税を制度化したか否か、それにかかわっているというものです。

3番目のポイントは、このような福祉国家の税収構造の経路依存性と各国間の相違、それがある理由に、国民の政府の役割に対する期待があるというものです。

この3つのポイントを最初に整理いたしましたものを覚えておいていただいて、説明に入りたいと思います。

(スライド3番)

まず第1に、簡単にOECD18カ国の税収構造について要約いたします。OECD18カ国というのは、まず1940年代から50年代にかけて累進的所得課税中心主義の影響を受けました。そして1970年代以降、この累進的所得課税の問題が政治問題化します。具体的には、所得課税基盤の縮小や累進税率の名目化です。そしてこの問題を受けて、1980年代には、それを解決すべき課税基盤の拡大、税率構造の単純化、限界税率の切下げを目的とする改革が多くの国で行われました。

ここで一つ疑問となるのは、この同じような形で租税政策の流れ、租税理論の流れ、そういう影響を受けたOECD18カ国なのですが、その税収構造には現在に至るまで大きな格差があります。各国間の多様性が存在します。

(スライド4番)

これをグラフ3で見ていただきたいと思います。これは2000年のデータをまとめたものです。総課税負担のGDP比と諸税収のGDP比が示されています。ぱっと見ただけでも、18カ国間に税収構造においても総課税負担においても多様性が存在するのがおわかりになると思います。私は、著書では、1965年から80年、95年、2000年、同じようなグラフをまとめました。結果として、80年くらいまでは、各国間、例えば総課税負担の順位が入れかわったり税収構造が少し変わったりすることが観察されたのですが、80年代、80年以降、95年のデータ、2000年のデータを見ますと、それぞれの国がすべて総課税負担をある程度増やしつつこの多様性は保たれたままになっています。言いかえますと、同じように租税理論の影響を受けながら、同じ方向に影響を受けながら政策を変化させてきたOECD18カ国なのですが、その税収構造には現在に至るまで多様性があります。

そして、ここで一つ注意をして見ていただきたい傾向は、総課税負担が高い国、グラフでは上のほうに位置している、例えばスウェーデン、デンマークのような国、フィンランド、ベルギーのような国ですが、これらの国においては意外に所得課税の依存とともに、消費課税あるいは社会保険料への歳入の依存といった意味で逆進性を持つ歳入項目への依存が高いことが観察されます。これは実はデンマークが例外なのですが、デンマークは、社会保障支出を所得税収、一般税収から賄っている、そういう特徴によるもので、デンマークを例外とすれば、意外に総課税負担が高い国が逆進性を持つ歳入項目に依存している。具体的には消費課税、社会保険への依存が高いことがわかります。

このあと経路依存性を説明するために、先に皆さんに見ておいていただきたいのは、グラフの右にあります年号です。それぞれの国の右側に年号が書かれています。スウェーデンは、例えば1969年というふうに書かれています。これはお手元のグラフで見られたほうがおわかりになりやすいと思いますが、これは実は各国の付加価値税の導入年です。これをざっと見ていただくとすぐおわかりになるのですが、総課税負担が高い国ほど付加価値税の導入年が早い、そういう傾向が見られます。これは、そのあと経路依存性をご説明するときに大切なポイントになるので、留意しておいてください。

(スライド5番)

このように考えますと、OECD18カ国の税収構造、その多様性から幾つかのグループに分けられます。第1に区別できるグループとして、累進的所得課税に依存度が高いアングロサクソン系諸国と日本ということで、このグラフでは左上の固まりの国になります。そして、真ん中のあたりに固まっているデンマーク、ノルウェー、スウェーデン、ベルギー、オランダのような国は総課税負担が高い国、そういうようなカテゴリーに入ります。そしてまた右に少しずれまして、右の少し下がったところの上の位置にあるスペイン、フランス、ギリシャ、イタリア、ポルトガルのような国は、ラテン系諸国として伝統的に間接税への依存度が高い。大体こういうふうに分けられているわけです。

(スライド6番)

ここで少し確認したいのですが、税収構造と政府の公的債務を比較したグラフがここにあります。これがグラフ4です。棒グラフが税収構造、折れ線で書かれているのが公的債務残高のGDP比です。ここで着目していただきたいのは、政府のサイズの決定と公的債務のレベルには全くパターンがないということです。例えば低負担、総課税負担が低い国において公的債務の残高は比率が高いという傾向が見られる。反対に、高い総課税負担を持つ国においては公的債務のレベルが低い。例えばこういうパターンが観察されたとしますと、低負担、総課税負担が低い国が債務を繰延べをしている、そういう傾向が見られるはずなのですが、こういった統一的な傾向は全くこのグラフには見られない。これはある意味で政府のサイズの決定がほかの経済政策と比べても、政治的裁量の余地、その国の政治事情によって決定しているのではないか、そういうような疑問を抱かせるポイントになっています。

(スライド7番)

ここでは、福祉国家の財政基盤としての税制ということでお話をしたいと思います。福祉国家論については宮本先生からご説明があるので、ここで確認したいのは、所得再分配を達成するためには公共セクターの拡大が必要であるということが、少なくとも今ある福祉国家には観察される傾向だということです。それゆえに歳入、税収が重要になってくるわけです。この理由としまして理論的に一つ考えられます。

再分配の方法としては、限定主義、普遍主義という考え方が大きく区別できます。限定主義というのは所得水準で対象者を限定する。非常にわかりやすい話で言いますと、高額所得を持つ人から例えば所得水準の低い人へ所得を再分配する、そこから直接に所得再分配を行う。普遍主義の考え方というのは、社会保障給付において対象を限定しない。ですから、市民、国民であれば給付を受けられる権利を持ち、その上でさらに困っている、あるいは所得水準が低い人には手厚く給付を行う、そういう考え方です。

ここで、限定主義であれば、政府を通るある意味で歳入と支出の額が低くなるということが皆さんおわかりになると思います。つまり必要な税収だけを高額所得者から得て、そしてターゲットを定めて給付を行うわけですから、非常に効率的な形で歳入・歳出を回していく、そういう考え方になります。それに対して普遍主義というのは、対象を限定しないということで、ある意味で公共セクターを通るお金、税収、歳入・歳出の形で通るお金の額がどうしても増えてしまう、そういうような形になります。

理論的に考える場合には、課税給付の両者で再分配を行うという限定主義、つまり税金は累進的に高額所得者からしか取らない、そして給付は低額所得者になるべく限定した形で行う。非常に理念型的な形で言うとこういう形なのですが、そういったほうが効率的なのですが、実際にこれを行うと再分配がうまくいかないということが生じます。これを抽象的な理論で考えた場合には、個人がもし自分の自己的な利益しか考えない場合には、限定主義的な政策には、その政策にかかわらない多くの中間所得層の人々が関心を持たないということが挙げられます。そして、民主主義においては多数決主義ですから、大多数の支持、関心を呼ばない政策は実行されなくなります。ですから、限定主義の考え方は非常に効率的なのですが、一方で、高額所得者は自分たちが税収を集中して取られるということでそれに反対し、そして、それを支持するのは例えば所得水準が低い貧窮者だけであるということで、大多数の支持を得られない。それに対して普遍主義的な政策であれば、市民である、国民であるという資格によって対象を限定せずに給付が受けられるということで、多くの人間にかかわる政策ということでこちらのほうが大多数の支持が受けやすいということになります。

これが非常に抽象的に考えた場合の政治的な論理なわけですが、実際これに沿った形で既存の福祉国家の所得分配のレベルは決まっています。限定主義的な傾向の強いアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、スイスのような国においては、所得の再分配があまりうまくいっていない、それに対して普遍主義的傾向の強いスカンジナビア諸国、そして少し程度は劣りますが、ドイツ、フランスのような国においては所得再分配の度合いが高い、所得の平等が達成されているということになります。結果として、もし再分配を求めるのであれば普遍主義の採用は避けられない。普遍主義を採用する限りにおいては公的なセクターが拡大するのは避けられない、というのが既存の福祉国家において見られる傾向です。

(スライド8番)

ここにおいて、公共セクターの拡大が避けられないとした場合に、それを支える税制としての逆進的課税、定率課税の役割について考えてみたいと思います。なぜ、普遍主義的福祉国家の財政基盤として逆進的な課税が有効であるか。それを考えてみるためには、戦後のOECD18カ国における租税政策の歴史を振り返ってみる必要があります。

まず、1940年代から50年代にかけていわゆる包括的所得課税主義というのがOECD18カ国に伝播したわけですが、この包括的所得課税というのは公平性において非常にすぐれた側面を持っている一方で、まさに所得水準によって累進税率を課す、あるいは税額控除を行えるということによって、政治的圧力により課税基盤が縮小する、そして結果として累進税率が名目化する、そういう弱点を持っています。これは理論ではなくて、運用した際に政治の場に置かれたときに出てくる問題点です。また、経済状況の変化を受けやすい、そういうような傾向も持っています。

この問題が1970年代に明確にあらわれてくる。そこで代替的な税収源として着目されたのが定率課税としての一般消費税です。一般消費税は広い課税基盤へ定率課税をするということで、いわゆる累進的所得課税とは全く逆に中立性と単純性においてその長所があります。中立性というのは経済活動に影響を与えない、中立的である。単純性というのは、制度として単純な形、簡潔な形で運用できるという点。一般消費税に対してはまさに逆進的であるという批判がなされるその裏側として、中立性、単純性があるわけですから、中立性・単純性をもって制度の一貫性を崩すような政治的圧力には抵抗できるという、そういう側面があります。ここが累進的所得課税と最も違うところです。そして、これが1970年代以降注目を浴びてきたわけです。

(スライド9番)

日本が、福祉国家と税収構造の関係、あるいは総課税負担の関係でどういう形で位置づけられるかをここでまず簡単に確認します。日本は公共セクターの拡大を持たない福祉国家という点では、例えばスイス、アメリカ合衆国のような自由主義的な福祉国家に近い側面を持っています。一方で、フランスのような社会保険制度に基づく保守主義的福祉国家に近い側面も持っているというふうに分類されます。この表のカテゴリーでは左上の四角の中に日本が位置づけられている。この点については宮本先生からあとから詳細なご説明があります。

(スライド10番)

日本が公的セクターの拡大を伴わない、いわゆる公的セクターの拡大を伴うような普遍主義的福祉国家ではないということを頭に置いていただいた上で、OECD18カ国に見られる逆進的課税制度化の経路依存性についてご説明したいと思います。

今までご説明したように、課税基盤として最初は所得税へ依存する傾向があり、それが70年代以降、消費課税へ少し重心を移していくというのがOECD18カ国一般に見られた傾向で、この傾向が経路依存的であるというのは、一回起こってしまうともとには戻れない。一回生じてしまった傾向が逆には戻せない、そういう経路依存性があるというのがここでの主張です。

具体的には、高度経済成長期終焉以前に逆進的な租税制度を導入していた国は、1980年代以降の財政赤字の時代において、まさに逆進的な租税を使って、あるいは租税制度を使って公共支出のレベルを維持する。ですから、これによって社会保障支出のレベルも削減せずに維持することができる、そういう傾向を持ちます。1980年代というのは福祉国家に対する批判がされた時代、政治的に批判が集中した時代ですから、その圧力に対抗することができるということになります。これは、導入した高度経済成長期の時点において総課税負担の増大を経験していなくても生じる傾向です。一方で、導入しなかった国は1980年代以降導入することができず--これはちょっと強い言い方で、大変困難になる、あるいは導入したところで、あまりその税収を活用できないということになり、1980年代以降の財政赤字からの福祉給付削減の圧力に対抗できない。そういう傾向が観察されています。

この経路依存性、一回生じてしまった差がそのまま温存されるという意味での経路依存性ですが、それが生じる理由は、1980年代に入って財政赤字が慢性化したことが有権者にも政策当事者にも知れてしまったこと。それと、逆進的な定率課税が税収源として非常に効率的で有効であることも、有権者そして政策当事者にわかってしまった。このことがわかってしまったということで、この経路依存性は生じています。

(スライド11番)

実際にこれが各国間の相違を説明するのにどういうふうに役に立つかということで、8カ国の事例研究をしました。ここでは、時間の都合上なるべく簡潔にいきます。

西ヨーロッパの国というのはEU統合のために付加価値税を導入した。ですから租税制度の逆進性も高まった、あるいは逆進的な定率課税を使うようになった。そういうように考えていらっしゃる方が多いと思いますが、実はヨーロッパにおいても税収構造には多様性がある。そして付加価値税の導入に対しても、それに対する考え方、認識は全く違っているというのが、スウェーデン、イギリス、フランスの比較から得られた結論です。

スウェーデンが非常に面白い事例でして、スウェーデンが累進的な所得税中心主義を採用しているというのは「神話」である。実はスウェーデンの中ではこれは現実的には認識されていないことであり、かえってスウェーデンにおいては、1950年代後半という非常に早い時点から逆進的な課税を使ってそれによって税収を得て、支出によって所得再分配を進める、そういう考え方が明確に存在していました。その結果、高度経済成長期において税収も伸ばし、支出も伸ばしという形で、払えば戻ってくるという形の認識を国民に徹底させることで、有権者の間でも福祉国家への支持、そして非常に総課税負担が高い税制を受け入れるそういう態度が形成された、そういう事例として考えることができます。

それに対してフランスというのは、間接税中心主義によって付加価値税を使っている。スウェーデンにおいて社会民主党政権、左翼政権が長く続き、フランスにおいて保守政権が長く続いた。この違いにもかかわらず、フランスにおいてはかえって付加価値税の逆進性が政治問題化しています。言いかえますと、逆進的な課税を使って支出で所得を再分配するという、スウェーデンの社会民主党政権におけるような考え方はフランスには存在していなかった。しかし、伝統的に間接税中心主義であったということで、結果的に1980年代以降、フランスにおいても社会保障支出の削減があまり進まないという形で福祉国家が温存されている。

それに対してイギリスというのは、1950年代まで、いわゆる「ビバリッジ報告」にわかるように、普遍主義的福祉国家の例と考えられたのですが、それ以降、社会保障制度の整備も、そして福祉国家の財政基盤の整備も進まず、このカテゴリーから脱落していきます。そしてEU統合のためだけに、つまり歳入ということを全く考えずに付加価値税を1973年に導入したのですが、この付加価値税収が実は1980年代、新保守主義の時代にサッチャリズムのもとにおける社会保障給付削減の圧力に対抗する、そういう結果を招いています。ですから、ここにまさに財政基盤の重要性が、各国間違う形ですが、重要性があるという点では共通して観察されることになっています。

(スライド12番)

それに対してニュージーランド、オーストラリア、カナダ、アメリカ合衆国、日本というのは、1980年代以降の付加価値税導入の事例--実はアメリカ合衆国はまだ導入されていませんが、そういう事例としてとらえられます。ニュージーランドとオーストラリアはここでは少し逸脱事例となります。なぜかといいますと、ニュージーランドにおいて付加価値税、GSTが導入されたのは1986年だったのですが、このときに大変な経済危機下にあったために、規制緩和改革の一環として導入されたそのおかげで付加価値税に対する有権者の反対が少し抑えられたということがあります。ですからニュージーランドにおいて付加価値税は、1980年代以降の導入においてもあまり政治的に困難ではなかったのですが、しかし、導入後は総課税負担が増大するという西ヨーロッパのような傾向が観察されています。オーストラリアはこのニュージーランドの経験を、隣国ですので、それから学んで2000年に導入したために、ここでも政治的反対は少し抑えられる傾向にありました。

それに対してカナダと日本は、1980年代以降の導入が難しいという典型例になります。これは財政赤字をある意味で念頭に置いて導入を図ったわけで、これは大変な有権者の反発を受ける。

アメリカ合衆国においては、リベラルは逆進性を恐れ、保守陣営は歳入の創出力を恐れるために、実は何度も提案されているのですが、連邦レベルの付加価値税は導入されていません。

(スライド13番)

最後に、この比較研究から得られる含意をまとめます。

結論の1としては、政府も有権者も財政赤字や国民負担の増大を懸念しなかった高度経済成長期においては、定率課税としての逆進的税制の導入が容易であったということが言えます。つまり誰もこの税金によって将来の負担が増えることを懸念していないわけですから、その導入が非常に容易であった。一旦導入されてしまった租税は、その後、財政赤字の時代になり、国民負担の増大という傾向が見られてもやはり有効な歳入源として機能し続ける。これは、高度経済成長期に課税負担が増えれば公共サービスが増える、そういうような経験に基づいている。有権者側の経験、そしてそれを支持する政策当事者側の姿勢に基づいている。これがまさに1980年代以降、公共支出を維持拡大しやすい政治的環境を作ったと言えます。1980年代以降の導入はこれと全く対照的なケースになります。

そして、現存の福祉国家が普遍主義を採用せざるを得ない以上、所得の再分配を達成するために国民負担は増大することが避けられない。それゆえに、国民の間に負担増の懸念がない間に福祉国家の財政基盤を築くことが重要になります。一旦負担増に対する懸念が生じてしまいますと、そこからいくら負担のレベルが低くても負担を増大することが難しくなります。ですからここに、高福祉・高負担と低福祉・低負担の全く逆の政治過程が生じるということが言えます。赤字財政下では、言いかえますと、今から払う税金が公共サービスとして戻ってくるという期待が形成できない。ですから、現在の負担のレベルが低い場合でも、やはりそれに対しては政治的反対が起こることになってしまうわけであります。

(スライド14番)

ここまで経路依存性の話をしますと、日本はかなり悲観的な状況ということがおわかりになった方もいらっしゃるかと思います。日本は、実際に高度経済成長期に逆進的課税を強化するタイミングを逸した典型例として、私の比較研究では挙げられています。ですから、先進国の中でもきわめて低い総課税負担--あのグラフ差を見ていただければわかるのですけれども、1960年代以降、必ずアメリカ合衆国と最下位を総課税負担においては争っています。先進国の中でもきわめて低い総課税負担にもかかわらず歳入強化が難しいということがよく言われていますが、これは実は逆で、低い負担であるからこそ歳入強化は困難である、そういう政治過程が生じてしまっていることになります。

これを考えますと、日本において財政赤字の増大や、あるいは他国と比較した場合、いかに総課税負担が低いかということを世論に訴えてもこれは反発を呼ぶだけで、歳入強化の支持が得られる可能性はありません。そういう政治過程になってしまっているということになります。

ここまでお話ししますと、私の研究が、租税政策をこれから変化していくということに関しては何の害も与えないということになってしまいますので、経路依存性がなぜ生じたかということに焦点を当てて、日本の政策変化に対して何らかのインプリケーションを最後にまとめたいと思います。

ここで参考になるのはニュージーランドのケースです。ニュージーランドは1986年の導入にもかかわらず10%の税率でほとんど政治的反対もなく導入し、その後、税率を12%に上げている。そして、総課税負担は実は増えていないのですが、所得税制を代替する形で、一般消費税、GST、付加価値税をうまく使っています。これがなぜニュージーランドでできたのかということを考えると、2つの点が重要になります。

まず第1に、大変な経済危機の危機的な状況の認識が有権者、政策当事者両者に共有されたため、有権者側も、政府がこの課税を導入して総課税負担を増やしていく、そういうような危惧を抱かなかったことです。言いかえますと、規制緩和のために行った改革の一環ですから、この課税は経済活動のために導入されたのであって、負担増大のために導入されたのではない、そういう認識があったという点です。

第2に重要な点は、ニュージーランドにおいては付加価値税の逆進性はかなり率直な形で有権者に示されたことです。そして、付加価値税は逆進的な課税である、しかし、これを導入すると同時に公共支出のプログラム、あるいはタックス・エクスペンディチュア(租税支出)を増大して、逆進性の緩和に支出の側面から--つまり付加価値税以外の側面から努めるということをかなり明確な形でアピールした点です。ですから、財政赤字がある、あるいは、負担が今低いといったようなことと全く違ったロジックを持って訴え、それが危機的な状況によって有権者に受け入れられた。そういうようなニュージーランドの事例がありまして、これが、ある意味で経路依存性から抜け出す一つの例として挙げられるのではないかということです。

これで私の発表を終わります。

石小委員長

ありがとうございました。いろいろお教えを受けること多々ございますね。

しばらく時間をとりまして、皆さんからご質問なりご意見を賜りたいと思いますが、いかがでしょうか。いろいろ重要な論点をご示唆いただいたと思います。

どうぞ、尾崎さん。

尾崎特別委員

70年代に付加価値税を導入した国というのは、その前に取引高税があって、その取引高税の合理化ということで付加価値税に至って、自分たちの持っている取引高税の非合理な点を改めるという形で導入しているから入れやすかった。日本のように80年代になってから入れたところは、そうではなくて、取引高税を前提にそれを改めるという形ではなくて、むしろ日本の場合には、所得税に偏り過ぎているものをもう少し間接税に移そうではないかということで……。日本もあの頃は、税収としては比較的そう悪い時期ではなかったし、何と言ったらいいのでしょうか、赤字対策でやったのではなくて、むしろレベニューニュートラルでやったわけですね。それでもなかなか説得力を持てなかったということは、70年代までは要するに取引高税の合理化のためにみんなで考えて、ヨーロッパでああいう税が考えられ、新しいものに置きかえていったということで比較的入れやすかった。それがとてもうまくいくねというので、取引高税を持っていない国がそれをあとからマネしたほうがフリクションが大きかった、こういうことではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

石小委員長

どうぞ。

加藤教授

発表のところで、その前にあった一般消費税ですね、付加価値税というのは一般消費税としては最も優れた形態を持っていて、取引高税というのが最も劣った形態を持っている。それがあるかないかによって、それを説得に使えるかどうかということが決定する。それはもちろんそのとおりだと思います。ところが、これで全部は決定しないのです。なぜかといいますと、日本は明らかに不利であったというのは全くおっしゃるとおりです。日本は例外的にOECD18カ国の中でも不利であった。

ところが、カナダ、あるいはオーストラリア、ニュージーランドのような国を見ていきますと、やはり付加価値税より劣る形態での一般消費税を持っています。持っていても説得できる国と説得できない国というのが生じてきてしまう。そこがやはり非常に重要な論点になると思います。それと同時にスウェーデンのような事例を見ますと、実はスウェーデンというのは1940年代の後半に戦時財政で導入した売上税を一旦廃止して、それを1958年に再導入しています。つまり、その前に劣った形の一般消費税がなくても意図的に導入している事例です。そういうふうに考えますと、日本においてもしその前に劣った形の一般消費税が存在していれば、それが説得に使えたという点では全くそのとおりだと思うのですけれども、その事実でもってOECD18カ国の相違を全部説明していくことはできない。

それと、もう一つ非常に重要な論点は、政府の側が財政赤字という問題を回避するためにレベニューニュートラルの形で政府案を提示しても、財政赤字が生じている現状では、有権者が将来の負担純増、つまり払った税金が返ってこないのではないかというその危惧を抱いてしまう、それは解消できないというのが、これも実はOECD18カ国の比較においても出ています。ですから、カナダの政府にしても日本の政府にしても、提案の際には非常にアジアナセッティングに留意したのは事実なのですが、一方で、その現状があるということが政府の提案にとって不利に働いたという意味で、この比較研究は、財政赤字と付加価値税の性質に関する有権者と政策当事者の理解というものが経路依存性が生じてしまった理由である、というふうに位置づけているのです。

石小委員長

ほかにいかがでしょうか。

村上さん、どうぞ。

村上委員

日本の場合は、高度成長期に逆進性のある課税をし損なったということかもしれませんけれども、高度成長期であろうとなかろうと、日本の戦後の政治的な構成、つまり与野党の構成が結局その政策を決定づける大きな要素だったのではないかと思いますが、その点はどうなのですか。例えばどちらが逆進性のある課税を説得しやすいかというときに、おっしゃっているように、財政赤字の増大とか、よその国に比べて税負担が低いよということを言ってもだめだということであれば、どういうふうなことを言えばいいのか。その2点をちょっと。

加藤教授

まず、政府の党派制によって税収構造が決まるというのは政治学者の中でもよく言われていることなのですけれども、それを否定するというのが実はこの研究の目的です。実際にヨーロッパのところでお話ししましたように、フランスは保守政党を中心とする連立政権が1980年代に至るまで長く続き、スウェーデンにおいては左翼政権、社会民主主義政権が長く続いている。日本の場合は自民党の一党優位体制というものが1955年から93年にかけて続いている。ですから、ある意味で優越政党制という点では3国共通しているのですけれども、それによって租税政策がすべて決まってしまう、政策過程が決まってしまうということは言えないということが第1点です。

第2点としまして、最後のニュージーランドの事例というのがやはり日本にとって参考になるかと思われるのですが、ニュージーランドはまさに1980年代に入ってからタイミングを逸して導入したにもかかわらず、ある程度まで付加価値税から税収を得ることに成功した事例になっています。ニュージーランドは経済危機があって、有権者、政府の間に共通認識が形成されたこと、逆進性を認めた上で非常に効率的に得られる税収によって国民の総課税負担を増やしていかないこと、これを説得できたという点です。もちろんこれは、日本にどういう状況によって行えるのかということが、私は何かいい提案というのはないのですが、一応ニュージーランドの事例が参考になるということです。

一つ、皆さんの質問に関係するかと思うので断っておきたいのですけれども、タイミングを逸したというふうに言いますと、今から見ると大変悪いことのようにとられる方もいらっしゃると思うのですが、私はここはそういう意味で言っておりません。実は、高福祉高負担、低福祉低負担の政治過程が異なるという点で非常に日本は面白い事例であります。といいますのは、政府の側も有権者の側も、ある意味で「大きな政府」というのは求めていないという点では合意しているんですね。つまり、課税負担がどんどん増えていくのは好ましくないという点では合意しているにもかかわらず、少しの負担を増やすということも政府ができないという点、これが政治によって規定されてしまった経路依存性だというふうに私は考えています。これは私の理解ですと、1970年代初頭の高度経済成長期まで、有権者や世論の理解と全く逆に、日本の政府が公共セクターを拡大しないように努力してきた結果であるというふうに考えています。ここが非常に逆説的というふうに考えています。

石小委員長

加藤さん、時間はまだ大丈夫ですか、公務があるとおっしゃるけど。

では、もう一つだけ。井掘さん、短めにお願いします。

井掘特別委員

簡単な質問、2つですけれども、1つは、普遍主義のもとでの再分配政策という意味ですが、普遍主義というのが、逆進的というのが比例税ですよね。比例税で取ってそれから定率的に一律に分配するということであれば、あまり再分配効果はないように思われるのですが、それがどうしてなのかというのが……。要するに普遍主義での再分配効果を強調されていましたので、それが一つ。

それからもう一つは、経路依存性です。経路依存性の意味が、一旦導入すれば後戻りできない、そういう具合いにおっしゃられたのですけれども、そうだとすると、導入のときのイニシャルコストが高ければ当然起こり得る話であって、要するに債務コストになってしまうわけですから。そうしますと基幹税を入れる場合には、当然、一旦入れると、苦労して入れたのだから、あとで廃止するというのは合理的にはできないわけですから、何も一般消費税、付加価値税を導入するときだけにかかる話ではなくて、昔、消費税ではなくて所得税を入れる場合であっても、もっと昔であれば間税を構築する場合であっても、当然、大きな税であればかかる話なので、特にここで付加価値税のときにだけ経路依存性を強調されるのはなぜかなという素朴な疑問です。

石小委員長

お願いします。

加藤教授

第2点からいきます。ちょっと私の説明がよくなかったと思うのですが、これ、税収構造の経路依存性ということで、経路依存性を言うときには重要な分岐点というのを特定しなければならなくて、その分岐点を特定するのに付加価値税導入を使ったということです。ですからおっしゃるとおりに、一回導入してしまった税金を例えば廃止するのは非常に難しい、それはそのとおりなのですが、一方で、これから入れたいと思うような税金でも、入れにくくなるという点ですね。そういうところでも経路依存性ということで、つまり付加価値税を入れようと思ったときに、その以前であれば容易に入れられたけれども、それ以降になると難しくなるという点の経路依存性ということでここでは言っています。ですから、税収構造の経路依存性と言ったほうが正しい言い方かもしれません。

第1点については、実は定率課税で定率給付でも再分配効果が行えるということを、実はスウェーデンのボー・ロススタインという政治学者が実際に主張しています。ここの専門家は実は私ではなくて宮本先生ですので、宮本先生の福祉国家のお話のところでお聞きいただけるといいと思います。よろしくお願いします。

石小委員長

まだまだお話をお伺いしたいのですけれども、公務のご関係でご退席して大学へ戻られるということなので、これで加藤先生のお話を終わりにしたいと思います。

どうもありがとうございました。今後もよろしくお願いします。

加藤教授

どうもありがとうございました。

石小委員長

それでは引き続きまして、宮本先生にお話を伺いますが、簡単にご紹介いたします。

宮本先生は、現在、北海道大学法学部の教授でございまして、「比較政治学」のご専門家。『比較政治経済学』とか、『福祉国家再編の政治』等々のご著書があります。本日は、福祉国家という点を国際比較の面からご整理いただける、このように伺っておりますが、よろしくお願いいたします。

宮本教授

宮本でございます。お手元に2つ、ハンドアウトが届いているかと存じます。「基礎小13-4」と「基礎小13-4-1」。「基礎小13-4」のほうがレジュメでございまして、「基礎小13-4-1」が資料になります。レジュメで資料のどの部分に対応しているかということが明示してありますが、一々参照していると時間の関係で前に進まないかと思いますので、必要な範囲で資料を参照しながら進めさせていただきます。私のレポートは、基本的には事務局からいただきました3つの論点、いずれも大変的確な論点であると思いましたが、これに沿って組み立ててあります。

第1に、福祉国家類型論。これは近年、各方面でよく言及されているが、これが具体的にどういうものなのかということであります。福祉国家の類型論などと申し上げますと、いかにもクラシカルな過去の遺物の分類学のように響くかもしれませんが、近年、発達してきました福祉国家の類型論は、従来しばしば見られました社会保障支出等の量的で一元的な指標によって、「大きな福祉国家と小さな福祉国家」を分けて、それぞれのメリット、デメリットを論じるという議論。具体的には、格差是正には有効だけれども、経済の足を引っ張る大きな福祉国家と、格差は広げる傾向があるが、経済を引き上げる小さな福祉国家、こういう対比に対して、財政の規模とか公共セクターの規模と成長率の相関は決して有意ではないのであって、実は公正観や経済戦略そのものが全く異なる3つの国の形が存在するのだという議論を展開しているわけです。具体的には、自由主義レジーム、保守主義レジーム、社会民主主義レジームという3つのタイプを論じていることになります。

この紹介に続いて、2番目に、特に社会民主主義レジームを取り上げてその独特な国の形についてご紹介したいということになります。先ほど加藤先生から、従来の常識とは相反するのではあるがというふうにして、実は普遍主義的な福祉国家においては逆進的な税制が展開されているというご議論がありました。それと対応するような意味で、従来の常識とやや異なった福祉国家の仕掛けとでも言うべきものをご紹介することになるのではないかと思います。なぜ、「大きな政府」の北欧福祉国家で政治的な合意の達成と経済成長が可能であったのか、このあたりを明らかにしたいということになります。特にその仕掛けとしては、福祉と個人の業績、あるいは自己努力といったものの関係について少し考えてみたいと思います。

それから、3番目にご依頼があった論点でもあるわけですけれども、以上2つが福祉国家のこれまでにかかわる論点であるとするならば、3番目はこれからにかかわる論点でございます。実は、今、グローバル化と脱工業化へどういうふうに対処していくのかというその戦略に関しても、それぞれの国の形次第で大きく異なっているということです。その中でも保守主義レジームと呼ばれるレジーム、これに日本が近いので話が厄介なわけですが、これが一番困難を抱えている。フランスやドイツの昨今の福祉改革をめぐる政治的な混乱にうかがえるように、保守主義レジームは大きな軌道修正を余儀なくされておりまして、自由主義レジームと社会民主主義レジームへ分岐していく傾向があるが、しかし、自由主義レジームと社会民主主義レジームもそれぞれ内部の改革を迫られている。その基本動向についてご紹介することになるかと思います。

まず、その第1番目の論点、福祉国家の類型論の基本的な枠組みからご紹介させていただきます。近年発達してきた福祉国家の類型論は、もとをたどれば、近年稀に見る影響力を持った1冊の本、これは先ほどもご紹介がありましたけれども、デンマークの社会学者と申しましょうか、政治学者と申しましょうか、エスピン・アンデルセンという人の書いた『福祉資本主義の三つの世界』、手前みそになりまして恐縮ですが、これは私と早稲田の岡沢憲芙先生の監訳でミネルヴァ書房から出しておりますが、ここにたどり着きます。これが1990年に出された本でして、その後十数年の間に、この本で提示されたフレームがさまざまに他の論者によって発展させられてきたということになるかと存じます。

このフレームですけれども、先ほどもちょっと触れましたように、「国のかたち」というとやや大げさかもしれませんけれども、福祉と労働市場、それから家族の相互関係を示すというところに眼目がございます。その相互関係にかかわってそれぞれのレジームで、異なった公正観と異なった経済成長の戦略が追求されてきたことになります。表の1として、その3つのレジームを整理してございます。先ほど言及された参考資料の赤い紙のあとの3ページに、事務局が作成された同様の趣旨の表が出ております。私、大変感心したのですけれども、これがよくできた表でございまして、双方見ていただいて話を進めていきたいと思います。

まず、自由主義レジームというのはアメリカが典型でして、社会的連帯の機軸といいますか、社会構成の機軸は市場になるわけです。労働市場の動態という欄に飛びますけれども、どうやって雇用を拡大していくかというところは、弱い規制と柔軟な労働市場で、市場自体のダイナミクスによって雇用を創出していくことになるわけです。その上の欄、相対的に比重の高いプログラムの領域もそのような労働市場の動態に対応しておりまして、要するに規制の弱い労働市場から脱落した一部の層を支えるセーフティネット、換言すれば公的扶助が中心になっていくということであります。これは従来の常識とそう大きく違わないと思います。

2番目に保守主義レジームになるわけですけれども、これは、こうしたレジームを政治的に主導してきたキリスト教民主主義、その社会観でもございます補完性原理、サブシディアリティー・プリンシプルに基づいて構築されてきたと思われるわけでありまして、社会的連帯の機軸としては、職場・家族がまず一義的に重きを置かれ、政府がこれを支える形になります。したがいまして相対的比重の高いプログラムというのは、男性稼ぎ主が加入する職域ごとの社会保険が中心になります。そして社会サービス、公共サービスは家庭における主婦の活躍が期待されて、それ自体としては抑制されていくことになるわけです。労働市場の動態もこれに対応しておりまして、職域ごとの雇用保障がかなり硬直的になっているために、労働市場自体も柔軟性を欠いているわけです。したがいまして、失業率をどう抑えるかという問題になりますと、これはかなり困ったことになるわけでありまして、例えば早期退職を奨励したり女性の非労働力化を維持することで形式的に失業率を抑える形になります。

3番目が、社会民主主義レジームということになります。ここの社会的連帯の機軸は政府になるわけですが、こういうふうに申し上げますと、やはり介入主義的で官僚主義的な大きな政府というイメージになるわけですけれども、しかし、その実態は、政府と市場、あるいは公正原理と競争原理のかなり独特な結合であったと言ってよいのではないかと思います。詳しくは第2の論点に関してご説明させていただきますが、必要な限りで申し述べますと、まず労働市場に関しては、同一労働・同一賃金に近い賃金体系をまず設定するわけです。そうなると、各企業の収益率のいかんにかかわらず賃金コストがほぼ同一ですから、収益率の低い企業は大変大きな困難に直面するわけであります。そのような企業が自己努力で収益率を上げられない場合はあえて保護しない。そこから流出した労働力は、再訓練等によって収益性の高いセクター、企業に移していく。まずこれが基本になります。

そのような形で労働市場政策のレベルで失業層、困窮層の出現を抑えておいて、そうなると福祉の役割はどうなるのか。相対的比重の高いプログラム領域ということですが、これは、教育や社会サービスを中心に経済能力のある市民が通常ライフサイクルの中で直面するさまざまなリスク、出産とか、新しい職業に就くに当たっての技能や学力の不足といったようなリスクに対してこれをケアしていく。すなわち福祉国家の役割というのは、通常の市民がライフサイクルの中で直面するリスクに対処する支援をするという、いわば機会保障型の福祉になっていくことになります。

その典型がスウェーデンということになります。アメリカ、ドイツ、スウェーデンがそれぞれの典型になるわけですけれども、いずれかのレジームにぴったりはまらないケースは2つのレジームの中間事例として扱われることになりますが、ここはちょっと時間の関係でスキップしようと思います。

さて、問題は日本の位置づけということになります。エスピン・アンデルセン自身は日本について、形の上では保守主義レジームに近いのだけれども、保守主義レジームに属する国々、ドイツやフランスやオランダ等が挙げられるわけですが、それに比べると日本の社会保障支出はかなり規模が小さくなっている。このことを説明せざるを得なくなったエスピン・アンデルセンは、ここには自由主義的レジームの要素もあって、2つのレジームのいわば混合体であるというふうに説明するわけです。

それに対して私どもは、エスピン・アンデルセンの枠組みを継承しつつ日本の位置を説明する上で、欧米の福祉国家とスタートラインの異なる、日本をはじめとする東アジアの福祉国家は、時間軸を導入してその位置を説明せざるを得ないだろうという趣旨の議論をしております。後発の福祉国家であった日本は、いわば福祉国家へのテイクオフの時期に石油ショックに直面するわけでございまして、その後の福祉ニーズに対しては、福祉国家を通してではなくて、より政治的に動員可能であった経済政策的な諸手段、具体的には公共事業や保護・規制などの手段に家族主義を組み合わせることで、これを福祉政策に代替させてきたというふうな理解をしております。

福祉国家論として保守主義レジームとこうした日本型のモデルの差異ですけれども、保守主義レジームはたしかに職域や家族をベースにしながらも、それを補完する国家福祉を発展させてきたわけです。したがいまして、先ほど申し上げたように、経済効率が悪くなると熟年層を年金や障害保険に移して、いわば福祉で雇用を代替したことがあります。しかし、それは経済的には大変無理があるわけでして、それは昨今のドイツやフランスの社会保障改革をめぐる動向を見れば明らかでございます。これに対して日本は、職域福祉--日本の場合は企業福祉になりますが、あるいは、家族や公共事業、保護・規制の政策そのものが福祉国家に代替した。したがいまして、国家福祉にげたを預けるわけにいかなくて、公共事業費や余剰な雇用そのものが膨らんでいくという構造になっているわけです。このような違いはありますが、労働市場の硬直性や社会的流動性の欠如という点で、根本的な転換を迫られているという意味では保守主義レジームと似通っているわけであります。

さて2番目に、「大きな政府」であるはずの社会民主主義レジームは、いかに優れた経済パフォーマンス(これは資料「基礎小13―4―1」の9、10あたりですが)を維持してきたのか。さらに言うならば、政治的な合意を調達することを可能にしてきたのかということです。先ほど申し上げた言い方であるならば、ここには政治と政府と市場、公正と競争の独特の関係が働いていたことになります。このことを福祉と個人のパフォーマンスの関係からご説明したいわけですが、それを2つに分けて、まず、労働市場における個人のパフォーマンス、業績に応える福祉政策だったということ。それから2番目に、個人のパフォーマンスを支援する福祉政策であったという、この2面からお話をしたいと思うわけです。

実はスウェーデンの福祉国家は50年代から60年代にかけて、保守中道派からの福祉国家批判が強まる中で所得比例型のプログラムを飛躍的に拡大してまいりました。これはどういう意味があったかと申しますと、福祉国家の維持のためには中間層の支持の獲得が不可欠であったわけでして、これは先ほどの加藤先生のお話と重なっていくわけですけれども、福祉国家に対する中間層の支持を獲得するためには、セーフティネット的な最低限保障ではなくて、中間層が自分の労働市場の業績を反映した現行の所得、これに見合った保障がきちっとなされる。そして、自分のライフサイクルの中で直面するさまざまなリスクに対して、現行の所得が保障されていくことがとても大事になる。

エスピン・アンデルセンは社会民主主義的なレジームを「中間層の福祉国家」と呼んでいるわけですけれども、一つ例を申し上げますと、スウェーデンには「両親保険」という制度がございます。これは育児休暇期間中の所得保障になるわけですが、基本的には450日間の間、従前の所得の80%の保障が360日間続きます。スウェーデン女性のライフスタイルとかかわってくるわけですが、日本では子供を産むと働きにくくなるわけですが、スウェーデンでは逆に働いてないと子供を産みにくいという仕掛けになっているわけです。それはどういうことかというと、この育児休暇期間中の8割の所得保障がないと、子供を産んだり育てる期間、経済的に厳しいからであります。したがいましてスウェーデンの女性は、出産の生理的な限界が近づいてくる頃合いと自分の所得が高まる頃合いを見計らって、30代半ばくらいでまとめて子供を産むという傾向があるわけです。言いかえれば、よい福祉給付を受けるためには頑張って働いておかなければならない、そういうからくりになっているわけです。実はスウェーデンの年金制度の眼目もそのあたりにある。決して一元化だけが売りではないのだというふうに思っているわけですが、時間の関係でこの話は飛ばします。

このことの意味をもう少し整理させていただくために、ちょっと資料(基礎小13-4-1)をご覧いただきたいのですが、11、12のあたりです。11のところには、50年代、60年代の半ばに所得比例的な給付がいかに急速に比重を増やしたかということが書いてあります。その横の12の表は、実は、このように所得比例型の給付が増える前まではスウェーデンはOECD諸国の中でも決して大きな福祉国家ではなかったということです。1960年の順位は9位でした。それに対して、このような改革が行われたあと80年に一挙に1位に躍り出るわけです。これが何を意味しているかというと、なぜこんな大きな福祉国家で人々が労働インセンティブを維持し支持をし続けるのかという問いは、設定が実は逆転しているわけでありまして、中間層の労働インセンティブとその政治的な支持を獲得するためにこそ、福祉国家を大きくせざるを得なかったというロジックになるわけです。

これが一つの仕掛けになっていくわけですが、次に、個人のパフォーマンスに応えるということに加えて、個人のパフォーマンスを支援することの意味であります。これも50年代、60年代に今の社会民主主義レジームの基礎的な部分が構築された時期に活躍した論者でありますが、イエスタ・レーンという経済学者、社民党のブレーンでもあった人ですが、彼が、福祉国家は選択の自由を奪うという議論に対して、福祉国家こそが選択の自由を広げるのだという「自由選択社会論」というのを展開しました。その考え方を、ドイツの労働経済学者であるゲンター・シュミットがモデル化したのが次の図1になるわけです。これは、スウェーデン福祉国家がどういうふうにお金を使っているのかというその理念を表現したものでございまして、5つのライフステージに5つの橋がかかっているということになります。

IからVまでの橋が具体的に何を意味するかというと、Iの橋は高等教育や生涯教育、IIの橋は育児・介護支援、IIIの橋は職業訓練であり、IVの橋は高齢者雇用支援等、そしてVの橋が職業紹介等のプログラムを意味することになります。他のレジームと形式的に比較するならば、自由主義レジームというのは要するにIからVの橋に、これが市場原理で機能するわけでありまして、いわば通行料がかかる。市場化されているがゆえに、人々がこの橋を自由に渡ってさまざまなライフチャンスを生かしていこうとした場合、そのような生き方をして能力開発のチャンスをつかんでいくことができる層とそれができない層との階層化が進んでしまう。保守主義レジームというのは、IからVまでの橋が双方向的ではなくて、一方通行によって--これは日本のライフサイクルなどを想定すればよいのかもしれません。左から右へとひたひたと進んでいく。女性は、進行方向を途中で左折して家族のほうに入ってきて、IIの橋はなかなか大手を振っては戻ってこられないということになるわけです。

これに対して、この5つの橋をかける意味ですけれども、労働市場に出てからもう一度自分が自分の人生で活用していく学問領域を選んでいくとか、一旦失業してもより適合的な仕事を見つけていくといったような形でライフチャンスをつかんでいく、能力開発を進めていくことができることを意味します。重厚長大型の産業構造の時代であるならば、個人の能力よりも組織の力で何とか乗り切ることができた。だから、保守主義的なレジームのような一方通行型の人生パターンでも何とか行けたわけですけれども、現行のグローバルな市場競争というのは、やはり一人一人の創造性能力がどこまで引き出されるかというのが国の競争力につながっていくわけで、それは個人の幸福と同時に国の力をも意味するわけでございます。そのためにはこの5つの橋を活用して、多様な……もちろん自己責任と自己決定に基づいて、ただしこの橋は無料で渡らせてもらって自分の能力を高めていく、そういうライフサイクルが構想されていく。少なくとも理念としては、個人のパフォーマンスを支援する福祉の意味合いはこういうところにあったということになります。

ついでに資料(基礎小13-4-1)の13のところでは、中間層を含めて福祉国家のプログラムに対する強い支持。ただし、住宅扶助であるとか社会的扶助のような、所得調査の伴う選別主義的なプログラムに対しては支持が少ないのですが、今申し上げてきたような理念に合致するプログラムについては、いずれも支持が強いということを意味しています。

最後に、これからの話というふうに先ほど申し上げましたが、それぞれのレジームが、今、大きくシフトしつつあるというダイナミクスをどういうふうに理解するかという点です。まず、「三つのレジームのトリレンマ」と書きましたのは、下の図2にあらわしてありますが、仮に財政規律、雇用拡大、所得平等という3つの政策目標を念頭に置くと、それぞれのレジームは、少なくともグローバル化、産業化の進んだ現在では、その3つの目標のうちせいぜいのところ2つしか達成できなくなっているということです。

実際には保守主義レジームの場合、ここの図の意味というのは、自由主義レジームは財政規律と雇用拡大は何とか維持できるけれども、その対極にある所得平等が犠牲となる。社会民主主義レジームの場合は所得平等と雇用拡大は実現できるが、財政規律がしばしば危うくなるといったような意味ですが、保守主義レジームの場合は、3つのうち2つのみならず、現実には財政規律や所得の平等、すなわち職域の中にうまく潜り込んで安定的な社会保険を享受している層と、そうなると雇用コストがどんどん高くなるわけで雇用拡大が犠牲になってしまうわけですが、その結果、そうした制度の外にいることを余儀なくされた層、インサイダーとアウトサイダーの間で格差が広がってしまうこともありまして、実際にはその3つの政策目標がことごとく犠牲となりかねないところがあります。それに対して自由主義レジームは、柔軟な労働市場を活用する形で、それから社会民主主義レジームは先ほど申し上げたようなメカニズムを通して、しばしば社会的投資などと言いますが、人的能力の開発を進めることによって新しい環境に対応していこうとすることになります。

ただ、自由主義レジームと社会民主主義レジームの中でも調整が必要になってきているわけでありまして、最後にそのあたりのことを図3に示しました。「福祉改革のオプション」というふうにしてありますが、6ページの上の図です。もちろん、それぞれのレジームで追求されている福祉国家の調整・改革の手段というのは、今から申し上げることに限定されないわけでして、例えばこのあとの山脇先生のお話とも関連すると思いますが、先ほど、5つのライフステージに5つの橋をかけるというモデルをお示ししました。あの橋というのはこれまで、社会民主主義レジームにおいては公共セクター、具体的には国や自治体がかけてきたわけです。ところが、それがお金がかかるということで財政規律の揺らぎにつながるということで、例えば非営利民間セクターによって置きかえるというオプションが検討されているわけであります。

そのように福祉改革をめぐる議論の内容というのは多様でございますが、ここでは所得保障政策に限定してオプションを整理すると、大体こうした四象限モデルのような形になるのかということです。ここでは、新たに導入する、ないしは維持・発展させていこうとする所得保障プログラムが、就労との強い連携のもとに構築されているか。つまり、就労を給付の条件とするとか、例えば先ほど申し上げたような従前の所得を高い割合で補てんしていくような所得比例型のプログラムのように、労働市場におけるパフォーマンスを強く反映したプログラムといったような意味で就労との強い連携を維持しているか、あるいは、むしろそこと全く切り離されているか、これを水平軸に取っています。そして垂直軸には、そのプログラムにどれくらい政府がコストをかけていくのかということを示しています。

まず、自由主義レジームにおいて進められている福祉改革、一般にワークフェアというふうに呼びます。これもまたあとで山脇先生の話の中で言及されることと思いますが、なぜワークフェアかというふうに申し上げますと、先ほどお示ししたような自由主義レジームの仕掛けからして、公的扶助を中心にしたセーフティネットが肥大化していかざるを得ないわけです。そのコストは、自由主義レジームの小さな福祉国家といえども多大なものになっていきます。それに対応するために、具体的にはAFDC(要保護児童家庭扶助)という片親世帯・母子世帯に対する公的扶助が非常に大きく膨らんで財政を圧迫していたわけですが、これに就労義務を課すというのが、80年代の半ば以降ずっと追求されてきた自由主義レジーム、アメリカにおける福祉改革の機軸でありました。

96年にこれがかなりドラスティックな制度変更に結びつきまして、AFDCが廃止されて、TANF(困窮家庭一時扶助)に再編されるわけです。これは、受給者に就労義務を課して、しかも受給期間を最長5年に限定する等のオブリゲーションを加えるわけです。クリントン自身は、単に就労義務を強めるだけではなくて、職業訓練等の社会サービスで支援をするという要素を加えようとしたのですが、政治過程の動態の中でギングリッチ率いる共和党の抵抗で、就労の強制に力点を置いたワークフェア、特にコストをかけずにまず就労を求めるという意味で、こういうのをワークファースト・モデルというふうに呼びますが、このモデルに帰着したということです。その結果、たしかにAFDCを受給する、換言すれば公的扶助に依存する人口は、94年から99年まで大体半分くらいに減る。それでも250万くらいいるのですけれども、そういう効果はあったわけですが、結局、そのプログラムを離れた層も4割が働いていない。職業訓練が欠如していたり、労働市場にディマンドがないということもあって、結局、困窮や所得格差の問題は解決されていない。要するにワーキングプアーを増やしていることになります。

それに対してスウェーデンでは、図3で言うならば、アクティベーション--アクティベーションというのはデンマークでよく使われる言葉で、正確にはスウェーデンではワークラインなどという言い方をするのですが、その中身は労働市場のパフォーマンスを反映する社会保障という意味です。あるいは、労働市場のパフォーマンスを支援する社会保障という意味であります。しかし、これも問題がないわけではございませんで、具体的には中間層の支持を獲得し、彼らの労働パフォーマンスを支援することになるわけですが、スウェーデン経済が好調な伸びを見せていて彼らの所得もどんどん増えていくわけです。そうなりますと、従前の所得の8割を保障するといっても高額所得者の所得の8割を公的に保障できるはずもないわけでして、これにはおのずと算定所得の上限が設定されています。この上限を越える市民がどんどん増えてしまった。そうなると、彼らにとっては所得に比例する福祉というのもあまりおいしくないわけです。

これにどう対処するかというと、この上限を引き上げるしかないわけです。社民党としては、アクティベーション的な福祉を維持し、福祉と労働市場のよい関係を継続するためにもこの上限を引き上げようとするわけです。しかし、先ほどの税制の話とも重なって、社会民主主義レジームというのは存外中間層にやさしく、労働市場の外にいる人々に対しては厳しいレジームであったわけですが、中間層への対処をすればするほど困窮層は犠牲になっていく。現行のスウェーデンは社民党と緑の党と左翼党の連合政権ですが、緑の党の側は、むしろ就労と全く切り離されたベーシックインカムと呼ばれる所得保障を提案するわけです。

ベーシックインカムというのは、ヨーロッパの中で大変注目されている所得保障政策についての全く新しい発想でありますが、要するに所得のいかんを問わず、あるいは就労のいかんを問わず、すべての市民に対して無条件で一定水準の所得保障をしていくという考え方でございまして、これは経済効率と真っ向から反するように見えるかもしれませんが、一つは、きわめて福祉国家の仕組みが単純化される。これは、年金もない、児童手当もない、失業手当も公的扶助もない、それに代えてこのベーシックインカムを導入するということですから、行政経費がドラスティックに節減されるということです。

それから、しばしば所得調査を伴う公的扶助に伴いがちな「貧困のわな」、すなわち一定所得以下の所得について公的扶助が得られるがゆえに、それを越える就労を控える傾向にあるというような、「貧困のわな」、「失業のわな」を回避することができる。つまり稼いだものが全部上積みになっていくということで、存外、経済効率とも両立するのだという議論があって注目されているわけですが、逆に就労とは徹底的に切り離されるわけです。このようなオプションを緑の党は提案しているということです。

大変大まかではございますけれども、それぞれのレジームにおける福祉改革の基本動向はこういうふうに整理できるのかなというふうに思います。

長くなりましたが、以上でございます。

石小委員長

どうもありがとうございました。大変興味のある切り口をご提示いただいたと思います。

それでは、時間がちょっと押してはおりますが、貴重なご報告をいただきましたので、質問あるいはご意見をいただきたいと思います。いかがでしょうか。

加藤先生が置いていった宿題はお答えいただいたことになるのかな。普遍主義を何とか……。

宮本教授

普遍主義に関して果たして再分配が行われるのかということであったと思います。その場合、全くのフラットの税率であってもこれだけ大きな規模の税が課されるとなると、一つは、それ自体で一定の再分配効果がある。こういうのは先ほど加藤先生がご紹介になった議論ですが、さらにそれに加えて、再分配といった場合、それが具体的に何を意味するのかということです。大変粗っぽく言うならば、垂直的な再分配と水平的な再分配。垂直的な再分配というのは、要するにお金のある層からない層に対して分配が進むということなのですが、水平的な再分配というのは、お金がある、ないの問題は同じようにかかわるにせよ、ライフサイクルの中である時期、リスクが集中する時期に対して比較的余裕のある時期に集めたお金を集中していくという議論です。

LSEのニコラス・バーという研究者が、"The welfare state as piggy bank "という議論をしております。「豚の貯金箱としての福祉国家」という意味であります。要するに、みんなが自分の大きな豚の貯金箱にお金を貯めるような意味、そして必要なときにそこからお金を引き出すような形で実は福祉国家は社会民主主義レジームは機能している。ただ、文字どおりに豚の貯金箱をやってしまうと、時にそれを欲望に負けて使ってしまう人が出たり、あるいはリスクをシェアしていくという機能が果たせないので、福祉国家が豚の貯金箱に代替していく、これが水平的な再分配ということの意味になると思います。

先ほどの委員のご質問で、普遍主義における再分配とは何なのかということですが、そのような水平的な再分配でもジニ係数としては一定の大きさで出てくるわけですね。再分配効果として出てくるわけであります。ただ、私が申し上げたのは、社会民主主義的レジームで機能しているのは水平的な再分配が主軸であろうということです。

石小委員長

どうぞ、田近さん。

田近委員

いただいたレジュメの最後の図3「福祉改革のオプション」というのを興味深く拝見しているのですけれども、これと税制とどういうふうに関係してくるのだろうということを質問させていただきたいのですが、幾つかあって、ワークフェアということをおっしゃっているのは、TANFというか、要するに稼得を条件にして国が税額控除を与えてくれる、Earned Income Tax Creditの体系の中の一つだと思うのです。そして、ベーシックインカムとTANFとかワークフェアを対比的に考えられているようですけれども、基本的にスキームとしては、税の中で一定の要件を満たすときに給付を上げると。ベーシックインカムも、子供から80歳の人から、男から女から、いろいろな人に一律に与えることもできるし条件もつけられるわけで、議論としては、税の中で給付……というのはおかしいですけれども、税額控除を与えることによって保障する。そういう意味ではワークフェアもベーシックインカムも同じグループで、ただ、ワークフェアのときには稼得を条件にしてクレジットをあげるということで条件がついているというふうに理解できるのではないかというのが第1点です。

それから、それはそれでいいのですけれども、この図で私は一番興味深いと思ったのは、要するに社会保障と税が一体になってきた。ベーシックインカムにせよ、ワークフェアにしても、いずれにしてもポイントはタックスの中でウェルフェアをやってしまう。そうすると日本で落ちているのは、租税負担はなるほど低いかもしれないけれども、社会保障は上がってきている。そうすると議論としては、社会保障は社会保険で社会保険料、残りの社会福祉はタックスでというのではなくて、それを一体に見ていったらどうなのか。もし一体に見ていけば、基礎年金の問題も、国保(国民健康保険)の保険料とか問題になっていますけれども、そんなもの税金で取って税金で払ってしまえば未払いも全くないわけで。だから申し上げたいのは、ここの図でむしろ興味深いのは、社会保障とタックスが一体になっている、そういう形の改革が進んでいるということではないのかと、質問です。

石小委員長

2点出ましたので、よろしく。

宮本教授

まず最初のご質問で、必ずしも私、委員のご質問を正確に理解したかどうかわかりませんけれども、負の所得税というのは、これはたしかにベーシックインカムのコストのかからないバージョンに位置づけているわけであります。それはすべての人に提供されるわけではない。そういう意味ではコストがかからないのだけれども、しかし、就労のいかんを問わず保障されるという意味では就労連携が弱いことになるわけですね。

むしろここで注目すべきなのは、委員が言及されたEarned Income Tax Credit。これはアメリカでは70年代の半ばにすでに導入されていたのですが、これが飛躍的に強化されたのは、実は先ほど申し上げた96年の福祉改革、ワークフェアが導入されたことと軌を一にしておりまして、これは何を意味しているかというと、ワークフェアとベーシックインカムが同一であるというよりは、むしろある種補完的な要素がある。つまり、ワークフェアを導入すると基礎所得の部分が相当おろそかになる。それを補う意味で、負の所得税にある種類似したEarned Income Tax Creditを導入したということになるのかというふうに思います。

北欧に関しましても、アクティベーション的な政策を補完するような形で--これは緑の党と社民党の政治的な妥協の帰結でもあるのですが、アクティベーションやワークフェアというのは労働市場の外にある人々に対しては大変厳しくなる。だからこそ経済効果が担保できるわけですけれども、しかし、外にいることによって、その条件に自分の基礎的な能力を高めていく、あるいは家族を介護・育児するといったこともとても大切になるわけでして、ここでも、ある種の妥協バージョンとしてのベーシックインカムがすでにスウェーデンでは導入が検討されております。これは「フリーイヤー」というのですけれども、申請のあった市民に対して失業給付の85%を無条件で1年間給付するという制度です。こういうのを実験段階で、2005年以降、正式な導入が検討されることになっています。

2番目のご質問であります保険料とタックスのいわば融合というのは、全くそのとおりであると思います。社会民主主義レジームを代表するスウェーデンの場合は、こうした支出を支える財政収入の多くの部分は、雇用者の負担金、ペイロールタックスということで集められているわけですが、これは統計があって、保険料として計上されたりタックスとして計上されたり、さまざまであって、そのこと自体が事実上融合していることを意味すると思います。

ただ一つ、なぜ、こんな多額のペイロールタックスをスウェーデンの雇用者が払うことが可能だったか、同意したかというと、その他の政策群とリンクすることで、スウェーデンの大企業に対しては大変有利な税制構造--法人税の低さとか、先ほど申し上げたような同一労働・同一賃金の賃金体系というのも、企業ごとの収益性のいかんを問わず労働コストが一定に抑えられるということで大企業にとっては非常に有利になった。その見返りとして一定の負担をお願いする、そういう政治的な契約、妥協があったわけです。それはさておき、委員のおっしゃるように、この両者は次第に融合する傾向にあるというふうに思います。

石小委員長

では、宮島さん。山脇先生のお話をまだ聞かなければならないので、手短にお願いします。

宮島特別委員

わかりました。今、福祉の3つのレジームが紹介されたわけですけれども、この間の移動可能性というのが一体あるのかどうかということで、私の率直な印象を言うと、社会民主主義レジームというのは、オープンだけどスモールという条件がないと、こういうかなり自由度を持った社会政策とか財政政策はできない、こういうものは難しいのではないかというふうに思います。ですから、保守主義レジームが両方に分離するといったときに、どちらに行けるかというのはそれほど実は自由度がないというふうに私は思っているのですが、それはいかがでしょうか。

宮本教授

たしかに社会民主主義レジームは、国の規模の小ささということで大いに有利な条件を得てきた側面はあると思います。ただ、国の規模の小ささというのがすべての意味で有利であったかというと、決してそうも言えないわけでありまして、例えば同じ距離の鉄道を敷設するにせよ一人の国民の持ち出しはそれだけ大きくなってしまう、そういう面がございます。

それから、たしかに規模の小ささというのは有利であったと思うのですが、具体的にそれではどういう意味で有利であったのかというと、それは、顔の見えるコミュニティとでも申しますか、つまり、誰がきちっと自分の責任を全うしていて、誰がさぼっているのかといったようなことがわりと確認しやすく、また、その意味で制度に対する信頼が得やすい、そうした規模のコミュニティを実現してきた。そのこと自体は国自体の大きさと直接対応しているわけではございませんで、日本のような規模の国でも、そうしたコミュニティを自治の単位として創出していくことは可能であるわけで、その意味では決してレジームシフトの可能性がないわけではないと思っております。

宮島特別委員

すみません、ちょっと一言だけ。私がスモールと申し上げたのは、規模だけではなくて、要するにスウェーデンとかで個別の国の取った経済政策が、世界経済にはあまりインパクトを及ぼさないという意味で、今、スモールと申し上げました。

宮本教授

わかりました。

石小委員長

まだおありだと思いますが、山脇先生の話に移らせていただきます。また、時間がもしありましたら、戻っていただくという形にしたいと思います。では、山脇先生、お待たせしました。

先生は、現在、東京大学大学院の総合文化研究科で、「社会・公共哲学」をご研究でございます。『公共哲学とは何か』という最近のご著書もあるようでございます。「公共性」の意味につきましてお話を伺いたいと思います。よろしくお願いします。お待たせいたしました。

山脇教授

山脇と申します。お手元にありますレジュメは非常に不完全なものでございまして、これはインターネットにのるようですから、今日明日中にもっと充実したものに書きかえるつもりでございます。といいますのも、私がちくま新書で『公共哲学とは何か』という本を2週間くらい前に出しまして、それで急に、何かこれについて話してくれという話がありました。時間もなかったものですから、こういう脆弱なレジュメになりましたけれども、それはお話しすることで補っていきたいと思います。

「公共哲学」という概念自身がまだ全く広まっておりませんけれども、あちこちの大学にこういう授業が設けられています。例えば早稲田大学で政経学部、政治学と経済学のその両方を統合しなければならないということで、政治学と経済学と公共哲学を必修科目にするとか、あるいは、学習院大学に公共哲学ができるとか、東京大学出版会から佐々木毅・金泰昌編で『公共哲学』という全10巻が出ましたけれども、それで終わらずに、この7月から『公共哲学』のシリーズがまた5巻出て、さらに10巻出る。その最終が西尾勝編の「自治」の問題、次は長谷部の「法律」の問題、「組織」とか「医療」とか、そういったものもすでに会議は終えていますから、一過性のものではなくてストックされていって、こういった学問運動をしよう、現状を打破すると同時に、市民との対話可能な哲学を開こうというものが一口で言えば公共哲学です。

今日お話しすることは「公共概念の再検討」ということで、まさに社会像のモデルとかかわることでございます。基本的なコンセプトとしては、市民社会、公共性、これは一体何なのかということ。それと、新しいコンセプトをパラダイムとして、「活私開公」とか、公私二元論に代わる三元論みたいなものを考えたらどうか。これはあくまで提案でございますけれども、そういったことを簡単にお話しさせていただきます。

従来の社会科学を見ますと、政府と市場(企業)と家計の3分類が出てきまして、経済学の教科書をはじめこういう3分類で社会像をはかっているのですけれども、どうもこれだけでは不十分ではなかろうか。政府の公にも私的経済にも還元できない公共性の次元、これを位置づけなければならないのではないか。特に1990年後半以降、NPOという組織が動き出しまして、民間の非営利団体、あるいは非営利民間団体というふうに訳されております。そういったこともありまして、社会科学教育とか、社会科学のテキストとか、そういったものを書き換える必要があるのではないか、それが私の問題意識の背景にあります。

レジュメの1のところで、「官から民」へというフレーズが言われていますけれども、この民って一体何? ということを私は一々確かめたい気持ちになるわけです。普通、民間ということ。これを英語で引きますと、private と、civil ないしcivilian、2つの意味があります。ですから民間企業というものもあります。しかし、民間企業もNPOみたいな非営利的な公共性を持つ民間団体もありますし、文字どおりプロフィット・マキシマイゼーション、いわゆる利潤極大化を目指す私企業もあります。ですから、官から民へという場合、民で一体何を指すのかということをはっきりさせなければならないのではないかと思うわけです。

プライベートといいますと文字どおり私的なものですけれども、シビルというと、まさに市民的な公共性を持つ概念でございます。日本で公共性というコンセプトは、1980年代まで、ほとんど「政府の公共性」という意味で使われてきたような気がいたします。実際に裁判の判例でもそういうふうに定義をした判例がございます。あと、「市民社会」という概念、これは社会運動家が使う言葉ではなくて、プーチン大統領ですら、この間、ロシアにおける市民社会の成熟が必要だというようなことを言ってますから、これはあまねく世界的に広まり、イデオロギーの違いを越えて社会を記述するために必要なコンセプトになりつつあると言っていいと思うのです。英語で言うと、civil society でございます。

2のところで「市民社会(civil society)の概念」ですけれども、少なくともコンセンサスとしては、政府ないし国家と家庭の間にある中間領域の社会を指すものと受け取っていただきたいと思います。これはどういう人でも一応認めると思うのです。ただ、その内容に関しましては必ずしも一義的ではないのです。つまり、政府と家庭の間にあるような例えば一般の私企業、市場経済、それを含めるか含めないか、それをめぐって2つの市民社会論があると言っていいと思います。

市場経済を含めるという考え方、それはヘーゲルというドイツ型のモデルで1820年に『法の哲学』というのを書いて、これは非常に難しい言葉を使っていますけれども、今でもアクチュアリティに富んだことを述べていると私は思っている古典です。いわゆるビスマルク体制の前のプロシアの社会を見ながら書いた本ですけれども、彼は、いわゆるニーズの体系としての市場経済、しかしそれは予定調和みたいにうまくいかないだろうから、それを補うものとしての、裁判を行う司法であるとか、あるいは、ポリツァイと言いますけれども、福祉行政。いわゆる弱肉強食のマーケットでこぼれ落ちた人々を救うような福祉行政、並びにコーポラチオン(職業団体)、そういったものがあって市民社会が成り立つ。ですから、市場経済と、その歪みを保障するような諸団体、行政、それを含めて市民社会と述べたわけです。

ヘーゲルに関して言いますと、彼は、利権国家がそういった公共性の究極的な担い手にならなければならないということで、特に官僚が優秀でなければだめだ。官僚の教養というものが市民社会のメリットを生かすという形で、国家と市民社会の相互補完関係、最終的には国家のほうが上に立ちますけれども、しかし、国家の正当性も市民社会がいろいろ担うというような言い回しで市民社会と国家の関係を述べたわけです。それに対して、経済とか市場経済は市民社会に含まないという考え方、それが最近、ハーバーマスとか、日本で言えば坂本義和先生とか、そういった方々からなされているわけです。

この市民社会論がパーッと脚光を浴びたのは、ソビエトとか東欧圏の社会主義が、国家が独占して市民社会を抑圧するということがありましたから、それに抵抗して、教会とか、ワレサの「連帯」とか、そういったアソシエーションがいろいろ活動のコミュニケーションの場になっておりました。そこで、市民社会という概念が重要だということで、1990年代から再びいろいろなところでまた始まって、それが、先ほど述べましたようにプーチン大統領の「ロシアにおける市民社会の成熟の必要」という最近の演説にあらわれたわけです。

ハーバーマスという人は、『公共性の構造転換』という本の第2巻の中で市民社会をこのように定義しております。教会、文化的なサークル、学術団体、独立したメディア、スポーツ団体、レクリエーション団体、弁論クラブ、市民フォーラム、市民運動から同業組合、政党労働組合、オルターナティブな施設にまで及ぶ自由な意思に基づく「非国家的・非経済的アソシエーション」、これが彼の定義なのです。そういうふうになりますと非経済的な要素が入ってきますから、いわゆる営利企業が入らないということになってきます。この見方は2つあってよろしいと思うのです。市民社会はこうだと一義的に定義するのではなくて、市民社会というミニマル・コンセンサスは国家と家族の間にある。ただ、そこに私企業を入れるか入れないか、それは複数の考えがあるという程度におさえておけばよろしいと思うのです。

ただ、ハーバーマスが述べたアソシエーション、1990年ですけれども、彼は社民寄りの哲学者で、今のシュレーダーとかフィッシャーとか、ああいった人にすごく影響を与えている哲学者で、そういったハーバーマスの見方が1990年に出ましたけれども、NPOという考えが出てくるのは1990年代の後半であります。NPOが出てきてもう一回この問題を考えなければならないということが生じていると思うのです。そこで出てくるのは、パブリックという概念、公共性という概念。これも、いわゆる政府が担う公共性とは違う意味でもう一回考えようという動きが1990年から出てくるわけです。

ちなみに日本で市民社会運動というのは、1970年代、松下圭一先生とか、篠原一先生とか、平田清明先生とか、そういった方々が使いました。その場合は「市民運動をする」という、そういった場として市民社会をとらえていたのですけれども、そのとき公共性という概念とはリンクしませんでした。つまり、市民運動家が「公共性をたたく」という本を出しまして、公共性は政府の側にあって市民の側にないというような考えが一般的であったのです。これは、最近出ました篠原一先生の『市民の政治学』という岩波新書の中ではっきり述べられています。

そういう形で、公共性というのは政府のほうにある、市民社会にはないのだという考えが1970年代の市民社会論でした。ところが、現在は、市民社会とパブリックの概念がくっつくようになってきているのであります。このパブリックという概念は英語でも多義的です。例えばイギリスのパブリック・スクールは私立です、アメリカは公立です。ですから非常に多義的であります。英英辞典で調べますと、大体3つの位の意味があるんですね。「人々の」とか「人々のための」という意味。それから、open、not hidden、「公開の」という意味。それから、governmentalないしofficial、そういう意味があります。ですから、どういうコンテクストで使われているか、それを一々確かめなければならないのです。パブリック・カンパニーというと株の公開会社であって、国立の会社ではないのですけれども、普通パブリック・カンパニーというと、これは国営企業かなというふうな誤解を招く。そういった事例もありますし、さまざまな言葉とかコンテクストに応じて使い分けしなければならない、それだけややこしい概念なのです。

パブリック・エコノミクスという学問がありまして、私も実は最初は経済学者になろうと思って塩野谷祐一先生のところで経済学をやって、「厚生経済学から公共経済学へ」という卒論を書いて、そのときから経済学をやめて哲学のほうに移って、現在、何とか社会科学と哲学が分離されているのを統合できるような学問がないかということで、相関社会科学--東京大学の駒場キャンパスにいて、そこは学際性を売り物にしていますし、公共哲学という学問がありますから、私にとっては居心地がいいのですけれども、いわゆる公共経済学という学問を考えますと、その「公共」というのがどういう意味で使われているか。石先生のほうがご専門でしょうけれども、財政学に代わる学問として近代経済学が使い始めた学問ですけれども、少なくとも市場が失敗して財を提供できないときに政府がそれを補ってやるという、ガバメンタルという意味が非常に強いですね。だから、パブリック・セクターが行うような学問、そういった意味でガバメンタルな公共性というものが強く出ます。

ただし、そこでどういう財を提供するか。パブリック・グッズですね。公共財、それは公園であるとか、道路であるとか、警察であるとか、場合によっては国防も入れることがありますけれども、それは、どういった人でも排除できない、消費の共同性、あるいは対価を支払っていない人でも使用できる、そういう意味で使われますから、ここはまさに「人々のための」という意味と「公開の」という意味が入ります。そういった担い手としては政府なのですけれども、そこでどういった財とかサービスが考えられているかというと、「人々のための」とか、「公開の」とか、そういう意味があるわけです。公共事業という言葉、これは政府がお金を出す事業ですけれども、少なくともタテマエとしては「一般の人々の福祉のための」という意味がありますから、「人々の」という意味。それから、「排除できない」「公開の」という意味がありますから、この3つがくっついているわけです。

ただし、ここで問題となってくるのは、公共性の担い手が政府だけでいいかというのが今日のメインポイントであって、市民社会のほうが担わなければならない、そういったものもあるということをお話ししたいと思います。これは単なるべき論ではなくて、こうしなければ今の社会も見えてこないという記述分析。経済学で言うと、ノーマティブだけではなくてポジティブな次元でこの概念を使っていきたいと思っています。

ここでちょっと、アーレントとか、ハーバーマスという人を出してきましたけれども、アーレントという人の公共思想というのは、政治学などではすごく影響力を持っておりまして、『人間の条件』という本の中で、彼女はパブリックネスという言葉を次の2つの意味で定義しております。それは、「できるだけ可能な限り人々に開かれた現象」と「異質な人々が共有し合う世界」、そういう意味で使っています。異なる人々でもシェアできるようなそうした世界、それから、できるだけそれがオープンにされている、そういった意味の横の意味で使われている。ですから、「人々のための」という意味と「公開の」という意味、2つが使われているわけです。今のドイツのSPD政権に影響力を与えているハーバーマスなどの言うパブリックというのは、「公開の」という意味と「人々のための」という意味で使われているということです。

ロールスとかセンとか、英語圏の政治哲学者とか経済学者が言う場合は、3つが入り交じった意味で使われていることが多いです。センの場合、パブリック・リーズンと言った場合は、大抵は、いわゆる公共性に目覚めた人々が担うようなリーズン。そこにはお役人というのも入ってくるかもしれません。それがコンセンサスをつくるというような、人々のため、公開のため、プライベートと違うそういったレベルでのリーズン。ただ、パブリック・セクター、公共部門と言った場合、これは明らかにガバメンタルというほうに比重が置かれるわけです。税の担い手ということでパブリック・セクターという場合は、ガバメンタル、あるいはオフィシャル、そういう意味で使われていると言っていいと思います。大体それがパブリック概念と市民社会概念、新しく考え直さなければならないという意味で用いました。

次に、公私二元論というものがあります。これは、公と私をはっきり分けまして、公は政府とか、法律とか、そういった次元にかかわる。私は、人々のプライベートな生活のみならず、企業とか経済もそういったレベルの事柄であるという考え方です。リベラリズムとかそういった思想がこれを支えているのですけれども、どうもこれだと社会を記述することもあまりできないのではないか、不十分ではないか。経済は本当にプライベートなの? というと、私は「プライベートな要素は多いけれども、公共的次元を含む」と言わざるを得ないのであります。

これは、社会現象を毎日見ていますと、そう言わざるを得ないわけです。例えば今問題になっている自動車のリコール問題、あるいは雪印の問題、商品も公共性を持つわけです。それは企業人として話していて、私の知っている企業人は、「経済は公共性を持つのになぜ経済学者は経済を私的に言うの?」という形で、経済学者に対して不満を持っている企業の方々もかなりいるわけですね。例えば独禁法、あるいは外為法のようなもの、あれは公共的なルールです。経済刑法というのもあります。ですから、そういった枠の中で経済活動は行われているということを意識しなければならないのです。商品の公共性とか、自動車のリコール問題ということ。

それから公法と私法という分け方、これもはっきりしない場合があります。公法は刑法と憲法と行政法です。民法と商法、民事訴訟法は私法ですけれども、しかし、商法の中にも刑法があります。いわゆる特別背任罪とかそういったものがあります。単なる民事裁判ではなくて、それを破った場合、お縄ちょうだいになるということが商法の中に書かれているわけです。そういうことも考えますと、公と私の二元論、ここにもあらわれていますけれども、これも考えなければだめだと。医療とか教育もそうですね。私立、公立、これはお金がどこから出ているかということで区別される概念です。もちろん私立の大学には文科省からの援助金がありますけれども、しかし、私立であっても公共性は持つわけです。教育の場というのは公共の場でありますし、医療現場は公共性、それと同時に守秘義務みたいなものもありますけれども、そこら辺の問題をどういうふうに考えるか。ですから、公共性の次元を持ちます。

宗教も社会的な責任という形で、政教分離がありますけれども、にもかかわらず宗教はやはり公共性を担っている、責任という形であるというふうに思います。教育はそのとおり。科学技術に至ってはまさに原発問題とか、いろいろ公共性、住民の意思決定にかかわるような問題、それが行われています。学会でも科学技術社会論学会というのができました。経済でも経営倫理学会というのができて、そこで社会的な投資のあり方、社会貢献をした企業がどれだけ貢献しているか、貢献度をはかってそれをランキングするというようなことも行われています。そういった企業に多く投資しようという運動もあります。そういった意味で企業の公共性ということも必ずどこかにあるわけです。

それをすっぱり公と私と分けるというパラダイムそのものが行き詰まっているのではないかということで、それに代わって、私がちくま新書等ではっきり述べているのは、「政府の公(governmental official)」。ガバメンタル・パブリックないしパブリック・オフィシャル、そう言っていいかもしれませんけれども、それと、これは「民(たみ)と言っておきましょう。「民の公共(public common)」。あえて民と言ったのは、そこには市民、国民、住民、いろいろなものがそれぞれのコンテクストで言われ得るだろうと。市民、国民、住民、その定義も一義的ではありません。

国民というのも、ジャパニーズ・ピープルとしてとらえるか、ネーションとしてとらえるか。日本国憲法はジャパニーズ・ピープルですから、「日本に住む人々」ということであれば、国籍を持っていない人も国民かもしれませんけれども、この場合は国民を「日本の国籍を持った人」というふうに仮に言っておきます。そうしますと市民は、日本国国籍を持っていなくても、地方参政権を持っていたり、いわゆる公務員になったりすることができる人を含めた、そういった人々。住民というのは、たとえ住民票をもらえなくても、そこで住んでいる人という形で公共ということを考えましょうと。市民という言葉に抵抗を持つ人はかなりいるんですね。一時期、社会運動家がこれを使ったために、それに対するアレルギーとして市民という言葉にアレルギーを持つ人とか、あるいは「私は村民であって市民ではない」と開き直った場合、どう説明したらいいかとか、いろいろありますけれども、幸いなことに市町村合併で多くの市ができますから、大多数の人が市民になってこの問題は自然に解消されるのかもしれません。この問題はまだはっきりしませんけれども。あと、私的企業、営利企業、家政というものを考えるということ。そのほかにもプライバシーの問題であるとか、私有財産の問題であるとか、侵してはならない私的な領域、それも含んでもいいと思います。

この3つを、単に並列的ではなくて、相互作用的に相互連関するように考えていくものが公共哲学の大きな課題です。それで何がメリットになるかというと、政府の公のレジティマシー(正当性)は誰が支えるの? というと、やはり民なんですね。いろいろな政策を行政がつくりまして、それが国会を通ったりしますけれども、それにノーとかイエスとか言うのはやはり世論であり、あるいは総選挙です。そこで、民の責任といいますか、それをどういうふうに監視するかという形で、それによってサポートされるかサポートされないか、それが政府の公の正当性ですけれども、それは「民の公共」が支えるという問題。さらに、税金を払います。税金はどう使われているかということを民がチェックしていく、あるいは個人がチェックしていく。アカウンタビリティ、これは、説明責任ないし説明義務といろいろ訳されますけれども、政府のアカウンタビリティであると同時に、当然、NPOのアカウンタビリティもあるわけです。会計監査という形で私企業のアカウンタビリティもあるわけですけれども、いずれにしろ、そういったことがはっきり見えてくる。

NPOに関しても、財源をどこで仰ぐの? というと、私企業から寄附をもらったり、自分が事業を起こして得たお金を使うとか、あるいは、中央政府からどうしても多少の援助を得なければならない、そういった形で相互作用をする。それと同時に説明責任を果たしていくという形でその関係が明確化されるのではないかと思うわけで、これは何も古い考えではなくて、アダム・スミスを読めばはっきりするわけです。普通、アダム・スミスは市場経済礼賛者と言いますけれども、私の考えはそうではなくて、『道徳感情論』という本と『国富論』両方読みますと、それははっきり出ています。いわゆる市場経済、営利活動を彼は肯定しました。ただしそれは、野放しではなくて、身内以外の公平な第三者のシンパシィを得てはじめて正当化されるのです。いわゆる身内以外の第三者(インパーシャル・スペクテーター)、彼がシンパシィを持つか持たないか、これに私的経済活動のいわゆる適宜性がかかっているわけなのです。それにチェックされることで私企業の公共性というものも担保されます。それによって政府が--彼に言わせれば「小さな政府」でしょうけれども、司法と、軍事と、一部の公共事業をやっているという形でこのトライアングル、これはアダム・スミスにもはっきり出てくる考えだと思います。これを経済学教育は行っていただきたいと思うわけです。

4番目に行きます。新しい個人像と社会像です。公共性というとイヤな顔をする人がまだいるわけで、それは、戦前に滅私奉公ということがありまして、森前首相も「私の好きな言葉は滅私奉公だ」と言って私はギョッとしたのですけれども、今時そんなことができるの? ということで、私はこういう時代に戻りたくないのです。そういったメンタリティ、自分を犠牲にして公に尽くすという考え、これは戦後はあるわけです。過労死とか過労自殺とか、そういった痛ましい事例、それを見ると、滅私奉公の精神がまだまだ日本人にあるのかなということです。そういった公共観は是正しなければならない。

他方、「滅公奉私」という考え、これは日高六郎という先生が『戦後思想を考える』という岩波新書で1980年に出した言葉です。これは、自分が私生活だけを楽しめばいい、公共性は人に迷惑をかけなければそれでいいという考え方です。これもいろいろな形で問題があると思います。意外とこの2つは、違うようで、結びつくのかもしれないですね。いろいろオタク的な生活をしていた人が、あるときに国家意識に目覚めて滅私奉公に走るということはそう不自然ではないような気がするのです。その双方に反対して、個人と民の公共と政府の公を切り結ぶような概念として「活私開公」という言葉。これは、金泰昌という韓国人の方ですけれども、日本語ぺらぺらで、京都フォーラムというところで活躍している人ですが、彼がつくった言葉で、東大出版会の全10巻の中に出てくる言葉で、文京区の区役所が区民憲章作成に向けた報告書でこの言葉を使っているんですね。びっくりしました。私は駒場キャンパスですけれども、本郷キャンパスが東大にあるから文京区役所も使ったのかなと思います。

これは、個人が生き生きと活動する、個人を生かすことによって民の公共性を開花させて、政府の公をオープンにしていくという、3つの意味で使っていければと思います。ですから、個人の人権、日本国憲法で保障している基本的人権をできるだけ生かしながら、しかも生きがいをつくるようなNPOの場というようなこと。あるいは70歳の定年ということも、それ以降働ける人はどんどん働いてもらう。大学の教員の定年も70歳ではなくて、場合によったらもっと上げてほしいと私は個人的に思っているわけですけれども、そういう形で社会でいろいろな活動をすることで民の公共性を開花させて、政府の公を開いていくという考え方。

類似した思想としては、ロバート・パットナムという人のソーシャル・キャピタル論。NTT出版から『哲学する民主主義』という題で翻訳が出ておりますけれども、ソーシャル・キャピタルというと「インフラか?」と勘違いする人がいると思いますけれども、これは、人々の信頼のネットワークという意味です。彼は、中世から近代にかけてのイタリアの中部の都市においてそういった自治が発達して、そのトラディションが現代まであって、イタリア中部の都市においてはそうした民主主義がすごく機能している。その理由は、人々のそういった横の軸の関係、別な言葉で言えば「公共性」かもしれませんけれども、そういったソーシャル・キャピタルが強いところが民主主義が発達している。南のほうに行くと、逆に縦軸のマフィアとかそういったものがありますから、縦のネガティブな意味のソーシャル・キャピタルはあるのだろうけれども、必要なのは、そういった民の公共としてのソーシャル・キャピタルであるというようなことを述べているわけです。

アンソニー・ギデンズのポジティブ・ウェルフェア論というのは、「第三の道」、ブレア政権の下でのブレインで、NPOの発想のきっかけとなった社会学者です。ビバレッジ報告にあるみたいに、貧困を是正するという形、貧しい人を救うというような社会保障ではなくて、人々の生きがいをつくり出す、新しいポジティブなウェルフェア、それをつくらなければいけない、ウェルフェアという概念を変えなければならないというような形でポジティブ・ウェルフェア論をつくっていて、それがワークフェアリングという考えです。

ワークフェアという考えは、競争原理と社会的な公正を両立させるという考えで、いわゆる失業者が出たら、現在必要とされているような企業のニーズに応じた形で社会的なトレーニングをしていただいて、その間のお金は国が出しますけれども、それで社会復帰をする。そうすることによって、経済の活性化と、人々の社会活動、失業問題も解決し得るという考えで、これには賛否両論ありまして、私は全面的に賛成しませんけれども、にもかかわらずこれは、新しいポジティブ・ウェルフェア観に基づく考え方。

アマルティア・センは非常に有名ですけれども、経済学者が嫌がる人かもしれません。彼はウェルビーイングという言葉を使います。ウェルフェアのかわりに「よく生きる」。それが福祉であって、いわゆる所得とか効用によって福祉は語られない。むしろ人々の能力がどれだけ生かされているか、いわゆる潜在能力、ケーパビリティがどれだけファンクションしているかという形で福祉を考えていく。ですから、貧しいけれども、人々の福祉が実現されている社会もあるし、また、所得が非常に高いけれども、生きがいを喪失している社会もある。ですから福祉ということも新しく見直さなければならない、開発もそうである、というようなことを述べたわけです。

こういった考え方は「活私開公」という考えと連なる、あるいは、相関的三元論につながる考えであろうかと思います。この考え方を本当はもっと丁寧に見なければなりませんけれども、時間の関係で、はしょります。インターネットに載せる資料にははっきりとその定義も書き込むようにいたしますけれども、これは古くからあったのではないか、と。市民社会とか、公共性とか、活私開公ということでもう一回日本の自前の社会科学を見ようというふうにしますと、あるんですね。それが全く忘れられている。名前だけあって、一橋へ行くと偉い先生ということで銅像が建っているけれども、「この人誰?」と言っても、誰だろうな、偉かったんだろうなくらいにしか思われていない、福田徳三という大先生がいるわけです。

図書館からボロボロの本を借りて読むと、非常にいいことが書いてあって、私はこれを見直すべきだと。大正デモクラシーのときに『社会政策と階級闘争』という本を書いています。これはまさに市民社会論です。彼は、ローレンツ・フォン・シュタインというヘーゲリアンの考え方を逆転させて、社会というものが「生存権確保」のための人々の要求の場である、そこで福祉、公正、ウェルフェアというものも考えられる。ですから厚生経済学というものも、ピグーみたいな形で、上から政府が単に支出するだけでは不十分である。人々の全生活の生存権を含めたそういった要求をいろいろ突きつけている場が、それが社会である。それを国家は承認し実現する。国家の意味というものも非常に強調しております。ですから、国家の意味を認めないマルクス主義者、あるいは河上肇と論争があったわけですけれども、マルクス主義がほぼ崩壊したような--崩壊というと言い過ぎかもしれませんが、少なくともマルクス経済学が説得力を失ったときにこれをもう一回見直す。広い意味の経済学、並びに「生存権」というのは憲法25条にありますから、その問題を、「健康で文化的な最低限の生活」という意味でもう一回これを見直す必要がある。誰もやらないのは非常に残念に思っています。

河合栄次郎は教養主義的な面がありますけれども、彼は、「人格の実現」を可能とする条件をつくり出すような社会政策論を唱えていて、彼はフェビアン社会主義に行くわけですけれども、彼も忘れられている。ある意味で時代が、いわゆる大正ヒューマニズムとかフェビアンの人格主義にそぐわなくなってきている。1930年代の昭和初期ではそぐわなくなってきているという形で、いわゆる滅私奉公ということが唱えられる時代なんですね。

そのときに登場したのが大河内一男先生で、彼の総生産力という考え方。パイを大きくして、それを分配するのが手っとり早いという考え方。彼はいわゆる革新官僚として、総動員体制に対しては若干批判的であったのでしょうけれども、そういう考え方をするわけであります。戦後、非常に影響力を持ったわけです。社会保障論とか社会政策論、大河内一男の「生産力説」という考え方がすごく影響力を持っていた。

ケインズ流の経済政策論は、市場に介入して有効需要をつくり出すという思想ですけれども、財政投融資政策という形で援用されまして、1960年代の池田勇人内閣の所得倍増計画、下村治、日本開発銀行の方の考え方、それで押し進められたのですけれども、ここでは、公共性の担い手は政府とか国家がひとり占めにした感がある。それはイギリスも同じで、ビバレッジ報告が取り入れられる。労働党もストレイチとかそういった人が、ケインズの経済政策を労働者の福祉に尽くすという考えがあったのですけれども、そこでのパラダイムはやはり公共性の担い手は政府であるという考え方が強かった。しかし、それが今、もうそろそろ変えなければならないのではないかというのが私の考えです。

塩野谷祐一・元社会保障・人口問題研究所長、これは私の昔の先生ですけれども、今でもいろいろお話しすることはありますが、石先生の前の前の一橋の学長ですけれども、彼は、非常に大著で難しいのですけれども、社会保障の目的を基本的ニーズとリスクの対応、自己実現の機会とみなす。その倫理的基礎を「正義」「卓越」「効率」に求めるようなビジョンを2002年の本で出しています。

篠原一先生はまだ健在で、川崎市民アカデミーというところでご活躍ですけれども、最近出た岩波新書でもう一回、「市民的公共性」の論理を明示しているというようなことが動きとしてはあります。

参考文献はいろいろありますけれども、私どもはちくま新書で、今の日本の公共哲学運動の鳥瞰図を示す。あと、非常にマイナーですけれども、『経済の倫理学』という本の中で、NPOとか、そういった産業論については書いております。『公共哲学』全10巻のほかに第2期の『公共哲学』は7月から出て、「自治」は西尾勝編、「法律」は長谷部編、あとは「都市」ですね。それが出る。あと第3期としては、医療問題とか、組織の問題とか、教育とか、メディアとか、そういったものが出る。公共哲学という科目も早稲田の政経とかそういったところに出はじめているということで、一過性ではないということ。それを、私自身コミットしている者として報告しておきます。

時間もないので、これだけにさせていただきますけれども、あとはご質問でお答えします。

石小委員長

大変ありがとうございました。現在、ある分野の学問がどういう形で進展し、また、昔のものを大事にしているかということがわかってきました。我々の関心とも非常に密着しておりますので、どうご、ご質問を。

河野さん。

河野特別委員

きわめて具体的なことをお尋ねしたいのです。先生の三元論というのはよくわかるんですよね。それで、今、現実に国家と個別企業と別に公的な活動をしている、非常に伸びているグループにNPOというグループがあります。これは特別法があるのです。民法に基づく公益法人というのもあります。それから役所の延長線上のような、補助金をもらって天下りを引き受けてやるというのもある。さまざまなんですよ。それも全部ひっくるめて--先生のあれだと、広くやればそれを全部ひっくるめる話なんですね。

私がお尋ねしたいのは、先生の哲学に基づけば、今の特別立法によるものはちょっと別にして、NPOと、今ある公益法人、今、実は改革論があるのです。進行中なんですよ。この議論に若干の形で、私、かんでいるのですけど、そこでの最大の論点は、一つ絞ってみれば、そういうふうな新しい担い手に対して国はどういうふうなスタンスをとるべきか。もっと絞れば、これは税調に関係してくる、間もなく秋口から。税法上なにがしか、寄附金だ、会費だ、補助金だ何だかんだについてどういう立場をとるべきかという話があるのです。NPOの論客、たくさん知っているんだけど、何としても我々は立派なことをやっているのだから税金まけろという話なんですわ。そうすると、優良な学者だとか、優良なサラリーマンとか、有力な企業も、立派にやっていれば税金まけるのかという話と混同したくなるような話もあって、未整理のまま単純な議論が横行していて、それを担ぐマスコミも結構多いというのが現状なんですね。それで先生は、こういう新しい役割を担うグループに対してどういう立場を税調はとるべきか、と。

山脇教授

具体的にまだ私のほうは教えを乞うという立場で、NPOについていろいろインターネットでこういうふうに調べてまいりました。まさに先生がおっしゃるところで、税制優遇措置をどうとらえるか、これは大きな問題で、ここにかかわる問題です。NPOの貢献度といいますか、単に税金対策のためにつくっているNPOなのか、本当にそれが公共性とか社会に貢献しているか、それをどうやって判断するかということの基準とかそういったものは、今、あるのでしょうか。

河野特別委員

それをつくろうとしているわけです。

山脇教授

それはやはり絶対つくっていただきたいと思います。それに対応した形で税金のあり方も考えていくべきではないかな、というくらいにしか今はわからないのです。ともかく税金逃れでなりたがっているという話は、NPOに法人化されたいというグループがずいぶんあって困っているという話は聞いたことがありますので、ぜひそれは、どれだけ社会に貢献しているかというようなクライテリアもわかるような形でつくっていただくことを期待するということしか、私には今の時点ではお答えできません。これからもっと勉強させていただきます。

石小委員長

ありがとうございました。ほかにいかがでしょうか。

先生の学問体系から、公共性や何かの物差しではできないものですか。つまり公益性とか公共性が定かでないから、税をどれだけ面倒を見るか見ないか、決め手がないんですよ。

山脇教授

EUなどでそういったことは動き始めているみたいで、経営倫理学会というのを私は知らなかったのですけれども、そういったところでやり始めているみたいなんですね。ですから、この土曜日、「経営倫理と公共哲学」という形でそういった方々と討論してきます。そういった社会的貢献度に応じてどの株を買ったらいいかというのは、例えばキリスト教の修道女とか、そういった人がいろいろリストをつくってアメリカではやっているみたいです。どれだけ貢献しているか。そういった意識とかいう形で考えていかなければならないですね。ですから、これはまだ骨の段階ですから、もっと肉付けしていきたい、こういうふうに思っております。

石小委員長

よろしゅうございますか。ちょうど『公共哲学とは何か』という近刊が出ておりますから、勉強させていただきたいと思います。

実は、30分近く時間をとって自由討論をして、一体国家の仕組みなるもの、あるいは先ほども出た、自助・公助・共助みたいなものの選択のプレミセスですか、それについて、お二人の先生にいていただいて議論しようかと思ったのですが、予定した時間がなくなりました。もう2時間半なんなんとしておりますから、今日はそれは持ち越しまして、次回以降の議論の対象にいたしたいと思っております。

どうもお二人の先生、ありがとうございました。心から御礼申し上げます。あとは我々の事務連絡でございますから、お忙しいと思いますので、どうぞご退席いただいて。

あと、我々は「公共部門」のヒアリングをもう1回受けることにいたします。それからとりまとめに、ということを考えております。次回は、6月1日午後2時からでございますので、テイクノートしていただいたほうがいいと思います。このヒアリング以外に、これまで勉強してきましたことをまとめていくことが必要だと思いますので、「実像」の分析、これからくみ取れるようなものについて議論したいので、事務局のほうで何かたたき台的な、あるいは、ある視点、そういうものを用意してもらえば議論がし易いかなと思っております。

6月11日金曜日、15日火曜日、さらに議論をつけまして、一応15日くらいをめどに文章化したものをまとめて報告書という形をとりたいと思っております。あと3回予定しておりますので、よろしくお願いいたします。よろしゅうございますか。

それでは、今日は長時間、本当にありがとうございました。お二人の先生、心より御礼申し上げます。

〔閉会〕

(注)

本議事録は毎回の審議後、速やかな公表に努め、限られた時間内にとりまとめるため速記録から、財務省主税局及び総務省自治税務局の文責において作成した資料です。

内容には正確を期していますが、税制調査会議事規則に基づき、事後の修正の可能性があることをご承知置きください。