現地からの声:停戦ラインの現実~ゴラン高原での経験を通して~

UNDOF副広報幕僚
3等海佐 麻生 玲於奈(れおな)

 ヘルモン山を北に仰ぎ、南部にはワディ(枯れ谷)が広がるゴラン高原。標高約千メートルの高地であるため空気が薄く、運動するとすぐ息切れしてしまいます。北はレバノン、南はヨルダンに接し、南西部にはイエス・キリストゆかりの場所として有名なガリラヤ湖、北東方約50kmの地点には世界有数の古代都市ダマスカスがあります。

切り立った崖のような地形のワディimg

切り立った崖のような地形のワディ

 ゴラン高原には日本のような四季はなく、乾季(夏)と雨季(冬)の2シーズンのみ。暑いときには40度以上にもなる気温はさすが中東の国ですが、一般的に湿度が低く風がよく吹くために日陰に入ると涼しく、日本と比べるとかなり過ごしやすいというのが率直な感想です。また、乾季には4ヶ月ほど雨が降らないどころか一片の雲さえない真っ青な空が広がる一方で、雨季には降雪も見られるほど冷え込みます。

標高約2,800mの頂に雪が残るヘルモン山img

標高約2,800mの頂に雪が残るヘルモン山

 副広報幕僚としてこの地に着任したのは、今年の2月の終わり。私の職場は、国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)司令部の広報室です。広報室は、主にUNDOFに対する来訪関係全般の取りまとめと、ゴラン・ジャーナルと呼ばれる機関紙の発行を担当しており、私の他に3名のオーストリア隊員が勤務しています(ゴラン・ジャーナルのサイトへ(英語)別ウインドウで開きます。彼らはみな軍服を着ていますが、面白いことに3名とも現役の軍人ではありません。というのも、私の上司は退役後再任用された元市民兵、そして、同僚は予備役の訓練を受けた国防省の官僚と、ジェフ・ユナイテッド市原の専属経験もあるプロ・カメラマン。初めて自己紹介を受けたときはさすがに驚きましたが、「オーストリアという国柄?」と一人で納得したことを覚えています。

カメラマンと一緒に印刷工場でゴラン・ジャーナルの仕上がりを確認img

カメラマンと一緒に印刷工場でゴラン・ジャーナルの仕上がりを確認

 彼らと机を並べて行う私の仕事は、主として日本人の来訪者に対する接遇関係全般。具体的には、日本から来訪する政府高官や自衛隊の高級幹部、あるいはシリア及びイスラエル両国に駐在する日本大使館関係者や邦人記者等を対象として、司令官などVIPに対する表敬や任務地域内にある陣地の視察等に関し、儀礼上適切かつ円滑な訪問を企画して実施することです。ここでのポイントは、緻密な計画と周到な事前の準備。分刻みのスケジュール作成とその管理は、細かいところまで事前に詰める習慣のない他国軍人からすると驚嘆すべきことであるらしく、ある友人から「記念に持って帰って部下に見せるから、そのスケジュール表をもらえないか。」と真顔で言われたことは、今でも忘れることができません。

日本隊を取材する記者にも同行img

日本隊を取材する記者にも同行

 勤務自体は比較的単調と言えますが、言葉の問題や、何より日本を含む6ヶ国の派遣国からなる部隊ということもあって、各国の習慣の違いなどにより何が起こるか分からない面白い部分もあります。そのため、司令官は「One Mission, One Team, One Goal」という指導方針を掲げており、UNDOF全体として、任務遂行に当たっては何よりもチームワークを重視する雰囲気があります。そのようなこともあって、任務以外にも隊員の結束を促す徒競争、行軍、球技大会や文化紹介等の行事が目白押しで、各国の隊員と仲良くなるチャンスはたくさん転がっています。また、どこの国であっても自分の国の言葉をかけられると嬉しいのは変わりません。「おはよう」、「こんにちは」、「こんばんは」と「ありがとう」のたった4つではありますが、オーストリア、クロアチア、フィリピン、インドとともに、シリアとイスラエルを含めた6ヶ国語を苦労して覚え、積極的に使っています。我々に対しても「コニチワ」と呼びかけられることが多く、毎日気分よく勤務していますが、時々混乱して違う国の言葉を使ってしまい気まずい思いをするなど、なかなか一筋縄にはいきません。

UNDOF主催徒競走大会の表彰式に参加してimg

UNDOF主催徒競走大会の表彰式に参加して

 さて、このような勤務環境の中、中東和平のため、ひいては日本の国益のため日々精進していますが、私がここへ来てすぐの頃、強烈な印象を受けた出来事がありました。周りを海で囲まれた日本に暮らす我々にとって、海を隔てた向こうにある外国を意識することはあまりありませんが、ここゴラン高原においてUNDOFが任務を行う地域は、まさしく国と国との境界線上。しかも、準戦時下における停戦ライン。その出来事は、副広報幕僚として初めての仕事である日本からの来訪対応に関することでした。

 通常、シリアとイスラエルの両方にまたがって活動するUNDOFの施設等を部外からの来訪者が両国を訪問する際は、シリア入国後にイスラエルに入国することになります。というのは、パスポートにイスラエル入国のスタンプがあると、そのパスポートではシリアへの入国ができないからです。そのため、その時の来訪者もシリア、イスラエルの順で訪問しましたが、その間の移動は何と、1日がかりで南部に隣接するヨルダンを経由して数百キロの行程を車で走破するというものでした。

 国連任務に携わる我々は、停戦ラインのほぼ中央に設置されたゲートと呼ばれる検問所を通ることによって、シリア・イスラエル両国を行き来すること(クロッシングと言います。)ができます。しかし、国連職員以外の人々は、映画「シリアの花嫁」のような花嫁クロッシングや、叫びの谷で有名な分断された町ドゥルーズ派の巡礼クロッシングのような一部例外を除いて、クロッシングすることはできません。停戦ラインを挟んだ、わずか200m程度の長さのゲートを部外からの来訪者が通れない一方で、我々がその間の移動にかかる時間は、手荷物検査等を含め約10分。シリア・イスラエル両国間の地理的な距離と政治的な距離の差を、ここまで実感したことはありません。

 余談ですが、クロッシングの際には手荷物検査があります。シリア側、イスラエル側とも持ち込み禁止のものがありますが、それぞれ若干異なります。一例を挙げると、シリア側はヘブライ文字が印刷されている品物全て、イスラエル側は開封された飲料や生鮮食品類が禁制品です。この結果どうなるかと言えば、ゴラン高原はコカ・コーラが美味しい気候ですが、これを飲みながらクロッシングすることができません。理由は、お分かりですよね。これらの禁制品は、国連職員として厳正に守らなければならず、違反すると直ちに協定違反として報告され、処罰されることになります。

ドゥルーズ派の巡礼クロッシングを支援する日本隊員を撮影中img

ドゥルーズ派の巡礼クロッシングを支援する日本隊員を撮影中

 その後の勤務でも、準戦時下における停戦ラインということについて考えさせられる出来事として、今年の5、6月に任務地域内の一部において生起したナクバとナクサの事案が特に印象に残っています。ナクバはアラビア語で「破局」を意味し、1948年イスラエルの建国と同時に難民となったパレスチナ人の記念日のことです。一方ナクサは、1967年の第3次中東戦争においてアラブ側が惨敗して領土を失った「喪失」を意味する記念日です。これらの両事案は、いずれもシリア在住のパレスチナ人が停戦ラインを越えようとしてイスラエル軍と衝突したものですが、1回目のナクバ事案で学んだイスラエルは、2回目となるナクサ事案に対し迅速かつ断固とした対応をとりました。シリア側からの侵入を物理的に防ぐために停戦ラインに沿って設置しているフェンスを補強し、部隊を増強してパレスチナ人の越境阻止に努めたのです。

 陸地に引かれた境界線は、ただそれだけでは領土を約束してくれるものではありません。領土を維持するためには、それを領有する意思とそのための行動という膨大なエネルギーが必要です。問題は、これを担う覚悟があるかどうか。イスラエルの対応を間近に見聞きし、その覚悟を持つイスラエルの気概を肌で感じることができたことは、私にとって貴重な体験でした。その一方で、この出来事によって一時的にゲートが閉鎖されてしまい、休養でイスラエルに来ていたのに翌朝ゲートが開くまでシリアへ帰れなかったという苦い思い出にもなりましたが……。

次期副広報幕僚要員候補者(右)に対して任務地域を説明する筆者(左)img

次期副広報幕僚要員候補者(右)に対して任務地域を説明する筆者(左)

平成23年11月
ゴラン高原にて