イスラエル連絡調整要員

平成23年7月
ゴラン高原国際平和協力隊
内閣府事務官 森野久美子

 皆さんは、「イスラエル」と聞いて何を想像するでしょう。世界史の舞台となった聖地や史跡? 世界一海抜の低いところにある死海? それともパレスチナ等アラブ諸国との和平問題でしょうか。
 「イスラエル」。この国は、一言ではとても言い尽くせない複雑さと多様さを抱えています。私は、平成8年からシリアのゴラン高原に展開する日本の派遣する司令部要員や部隊と関係機関との間の連絡調整要員として、この度イスラエルのテルアビブで勤務しました。今回、私が連絡調整要員として勤務し、感じたイスラエル、そして日本の要員が活躍するゴラン高原について紹介をしたいと思います。
 ゴラン高原は、1967年の第3次中東戦争後、イスラエルが占領した状態にあり、シリアとイスラエル両軍の兵力引き離し状況を監視するためにUNDOF(国連兵力引き離し監視隊)が現在展開しており、日本の要員は主に物資の輸送や保管、道路などの補修等の業務を担っています。

ベンタル山ゴラン高原からの眺めimg

ベンタル山ゴラン高原からの眺め

 ゴラン高原は、自然が非常に豊かで、砂漠が多い南部地域と対照的に、肥沃な大地が広がっています。特にシリア、レバノン、イスラエルの三国にまたがるヘルモン山(標高2,814メートル)からは雪解け水が湧き出し、その清流を端に発する水資源は、古くから遺跡や伝説を残していますが、現在ではイスラエルの重要な水資源を支える水瓶となっています。それ故にゴラン高原が係争の地となっているのです。
 時として不安定化する中東情勢の中で、日本の要員を含め、UNDOFの存在が重視されており、今後も活躍が期待されています。

自衛隊記念日レセプションの様子

自衛隊記念日レセプションで(中央は竹内大使)

 今年3月11日の東日本大震災に際しては、私はイスラエルの報道でそれを知りました。震災発生当初、私は、派遣隊員の家族の安否確認等の連絡を行っていました。震災後、自衛隊から被災地への大規模な動員がなされ、厳しい状況に直面したにもかかわらず、PKO派遣業務に携わる日本の関係府省は、これまでどおり適切な業務を行い、現地で活動する日本の要員への影響は全くありませんでした。また、ゴラン高原に派遣されている隊員においては、被災地へ飛んで行って、支援業務に携わりたいという気持ちを抱えつつも、海外で与えられた自らの任務を完遂することで、被災者の方々の気持ちに寄り添おうとしているのを感じました。 

 震災後、イスラエルからは、イスラエル国防軍(IDF)の医療チームが日本へ派遣され、被災地・宮城で住民に対する医療支援活動を行いました。遠きイスラエルから、日本に行ってくれた医療チームには、感謝の言葉を尽くしても尽くしきれません。 男女の別なく徴兵制がとられているイスラエルですが、今回の医療チームの活動からも、IDFの持つ機動力の高さと即応性、自己完結能力には感心させられるものがありました。

ラトルンの戦車博物館img

ラトルンの戦車博物館

 イスラエルは、軍事面のほかにも、その独自性に驚かされるものがあります。それは、文化・芸術のレベルの高さとユニークさです。多民族社会を反映した結果でしょうが、音楽や絵画、ダンスといったものには独特のセンスが凝縮されています。私は、週末を利用して、モダン・ダンスのクラスに参加していたのですが、特に振り付けの斬新さとリズムの取り方に新鮮さを感じました。インストラクターからは、よく「カップルダンスは合気道みたいなものだよ」と言われ、まさかイスラエル人から「気を合わせる」とか、「間合い」とかいった日本固有(?)の文化について語られるとは思いませんでした。

 私が滞在したテルアビブの町が生まれたのは、1909年で、イスラエルの殆どの町が紀元前からの歴史を持つ中、テルアビブは、イスラエルで最も若い町といえると思います。新しいということが、この町に爆発的なエネルギーを与えており、テルアビブ建設以来のスローガンである「決して立ち止まらない町」というのが実感できます。活気に満ちたエネルギッシュなこの町が、世界の色々なものをうまく融合し、新しいイスラエルの魅力の象徴となればよいなと感じました。
 ゴラン高原での自衛隊の活動は今後も続くと思いますが、日本と大きく異なる中東の地での勤務の経験を活かし、今後も日本の国際協力活動の一助となれるよう、精進していきたいと考えています。

ヤッフォからテルアビブを眺めてimg

ヤッフォからテルアビブを眺めて