第19回 消費者法制度のパラダイムシフトに関する専門調査会 議事録

日時

2025年3月21日(金)10:00~12:16

場所

消費者委員会会議室・テレビ会議

出席者

(委員)
【会議室】
沖野座長、加毛委員、河島委員、小塚委員、二之宮委員
【テレビ会議】
石井委員、室岡委員
(参考人)
【会議室】
伊藤亜紗 国立大学法人東京科学大学未来社会創成研究院/リベラルアーツ研究教育院教授
【テレビ会議】
飯田高 東京大学社会科学研究所教授
(消費者庁)
黒木審議官、古川消費者制度課長、原田消費者制度課企画官、消費者制度課担当者
(事務局)
小林事務局長、後藤審議官、友行参事官

議事次第

  1. 開会
  2. 議事
    ①有識者ヒアリング(飯田高 東京大学社会科学研究所教授)
    ②有識者ヒアリング(伊藤亜紗 国立大学法人東京科学大学未来社会創成研究院/リベラルアーツ研究教育院教授)
  3. 閉会

配布資料 (資料は全てPDF形式となります。)

《1. 開会》

○友行参事官 定刻になりましたので、消費者委員会第19回「消費者法制度のパラダイムシフトに関する専門調査会」を開催いたします。

本日は、沖野座長、加毛委員、河島委員、小塚委員、二之宮委員には会議室で、石井委員、室岡委員はテレビ会議システムにて御出席いただいております。なお、所用により山本隆司座長代理、大屋委員、野村委員は、本日御欠席との御連絡をいただいております。

また、本日は、東京大学社会科学研究所教授の飯田高様と、国立大学法人東京科学大学未来社会創成研究院・リベラルアーツ研究教育院教授の伊藤亜紗様に御発表をお願いしております。

伊藤先生には会議室で、飯田先生にはテレビ会議システムにて御出席いただいております。

配付資料は、議事次第に記載のとおりでございます。

一般傍聴者にはオンラインにて傍聴いただき、報道関係者のみ会議室で傍聴いただいております。議事録については、後日公開いたします。

それでは、ここから沖野座長に議事進行をよろしくお願いいたします。


《2. ①有識者ヒアリング (飯田高 東京大学社会科学研究所教授)
②有識者ヒアリング (伊藤亜紗 国立大学法人東京科学大学未来社会創成研究院/リベラルアーツ研究教育院教授)》

○沖野座長 ありがとうございます。本日もどうかよろしくお願いいたします。

早速ですけれども、本日の議事に入らせていただきます。

本専門調査会の後半の検討テーマは、ハードロー的手法とソフトロー的手法、民事・行政・刑事法規定など、様々の手法をコーディネートした実効性の高い規律の在り方でありますところ、そこでいうソフトロー的手法としては、ガイドラインやあるいは努力義務規定のように必ずしも厳密な意味で、あるいは確たる意味での法的強制力を伴わないルールというのもあれば、自主規制や共同規制のように、ルール策定に民間の主体が関わるものなど様々なものが想定されます。

このようなソフトロー的手法の活用可能性について検討を深めていく上では、そもそもそのような手法としてどのようなものが考えられるのか、またその長所、短所、適正性や実効性の確保手段については、どのように考えられるのかといった諸種の点を踏まえる必要があります。

そこで、本日は、法社会学を御専門とされ、ソフトローについての御研究もされている飯田高先生に「消費者法制度におけるソフトローの利用可能性について」というテーマで、20分程度御発表いただきまして、その後、質疑応答・意見交換をさせていただければと思います。

それでは、飯田先生、どうかよろしくお願いいたします。

○飯田教授 どうもありがとうございます。

本日は出張中のため、そちらに伺うことができず、申し訳ございません。オンラインでの参加をお認めいただきまして、どうもありがとうございます。

先ほど御紹介いただきましたが、東京大学社会科学研究所の飯田高と申します。

私の専門分野は、先ほど沖野座長から御紹介がありましたけれども、法社会学で、それから法と経済学という分野です。

必ずしも消費者法制度に関する詳しい知識は持ち合わせていないのですけれども、ソフトローの利用可能性につきまして、若干の話題提供を行いたいと思います。

時間が限られていますので、ソフトローの概念が意味するところについて若干の整理を行った後、ソフトローをどのような場面で活用できるのかについて、やや一般的な話をするにとどめたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

ソフトローの概念、これは、よく知られていますように、元来国際法・国際公法の分野で使われていた概念なのですが、これが国内法の概念として転用されているというのが現在の状況です。もともと上位機関のない国際法の世界で使われていた概念ですので、国内法に応用する際には、環境ないし状況の違いを認識する必要がございます。

ここでは、ソフトローの「ソフト」がどういう意味なのか、それから、ソフトローはどのような場面で使われていて、ハードローとどういう関係にあるのか、という二つの問題について簡単に触れながら、ソフトローの概念を整理しておきたいと思います。

スライドの1ページ目です。

まず、ソフトローはハードローと比べて何がソフトなのか、という問題です。これまでにソフトローの概念が使われている文脈を見ますと、「ソフト」には三つの種類の意味があります。これは、フランスのティビエルジュによる分類です。

一つ目は、規範の内容に可塑性があるということです。言い換えますと、ルール自体が曖昧であったり、抽象的であったりするということです。例といたしましては、倫理憲章や、一般的な義務を定めた規定などが挙げられます。抽象的ですので、予測可能性が低くなるのですけれども、多様な事態に対応できるという利点があります。

それから二つ目ですが、法的な義務を伴わないという意味でのソフトローがあります。奨励、勧告、助言、誘導など、義務を課さずに、こういった手法によって行動を誘導するというタイプのものです。このタイプのソフトローでは、義務からではなく、自発的に規範に従うということが期待されます。

三つ目として、拘束力が欠けているという意味でのソフトローがあります。もう少し厳密に言いますと、司法で定められる法的制裁による拘束力を伴わないということになります。制度的な拘束力はなくても、事実的な拘束力を持っていて規範として遵守されるというのが、このタイプのソフトローです。

英語では全て「ソフトロー」なのですが、フランス語圏ではしばしばこれらの区別が行われていまして、第1のタイプはdroit flouと呼ばれます。flouというのは「ぼんやりとした、ぼやけた」、あるいは「曖昧な」といった意味です。

二つ目の義務を伴わないソフトローはdroit douxと呼ばれます。douxというのは、「穏やかなとか、やわらかい、甘い」というような意味です。厳格に義務を課すものではないというイメージです。

三つ目のタイプはdroit mouと呼ばれています。mouというのは「緩やかなとか、柔らかい、ふにゃふにゃした」という感じですね、ネガティブな表現をすれば「軟弱な」という意味にもなります。

このdroit douxとdroit mou、2番目のものと3番目のものは、実際には重複する部分も大きいのですが、概念的にはこれらを区別することは可能です。つまりdroit douxが義務のありなしを問題にするのに対しまして、三つ目のdroit mouはどのように規範が実現されるのかという点、つまりエンフォースメントに関わる概念になっています。

概念上は区別されるのですが、もちろん実際には、droit douxであり、かつdroit mouであるという、2番目と3番目の種類の性質を併せ持ったソフトローは非常に多く存在します。droit flouはほかの二つとはかなり性質が異なっているのですが、これら3種類は、相互に排他的な性質というわけではありません。ソフトローと呼ばれるものの中から、3種類の性質を抽出しているとお考えいただければよいかなと思います。

では、2ページ目をお願いいたします。

次に、ソフトローはいかなる場面で使われて、ハードローとどのような関係にあるのかという問題に移ります。

言うまでもなく、ソフトローは、現在様々な場面で使われているのですが、少なくとも、次の3種類の場面がございます。

一つ目は、ハードローを準備する段階でのソフトローです。これは、ハードローの成立前という意味で、事前的なハードローと表現することもできます。

日本では、努力義務規定を導入して、その後で強行法規化するということがよく行われるわけなのですけれども、こういったものが準備型のソフトローの例として挙げられます。指針として提示して将来の立法の基盤にするという目的で導入されるソフトローです。この事前準備的な性格を持ったソフトローには、対象者に心積もりをさせたり、ソフトランディングをさせたりするという機能があります。急激な変化を強いるのは、対象者にとって酷なことがありますので、漸進的、段階的なルール変更を行うということです。

二つ目に移ります。二つ目は、ハードローを補完する、補うソフトローです。ハードローが成立した後に用いられるのは、こちらの事後的なソフトローと言えます。例としましては、通達や解釈の指針などが挙げられます。要するに、抽象的で曖昧なハードローの中身を具体化する、一旦成立したハードローについてその内容の細部を定める、というのが主な目的になります。このような事後的なソフトローは、規範を明確化したり、予測可能性を増大させたりする機能を持っています。

そして、最後の三つ目です。ハードローを代替するソフトローです。これは、事前の場合もありますし、事後の場合もあり得ます。ハードローの制定が何らかの事情で難しいという状況はしばしば起こります。例えば、合意が困難である場合、総論賛成・各論反対になっている場合、時間がない場合、環境の変化が激しい場合などです。あるいはハードローでは、規制のコストがかかり過ぎるという場合もここに含めてもよいかと思います。このようなときに、ハードローの代わりにソフトローがつくられて活用されるというケースがあります。

これら三つに分けたのですが、先ほどの三つのタイプのソフトローと同じように、これらの3種類の場面も峻別できるわけではありません。例えば、準備段階のつもりでソフトローをつくったのだけれども、結局ハードローができなかった、というケースもあると思います。このような場合は、準備型のつもりが結果的に代替型になったと考えることができます。ここでの区別は、ソフトローの機能を考えるための大ざっぱな区別だと捉えていただければと思います。

では、3ページ目をお願いいたします。

以上の3分類を組み合わせると、この表のようになります。このうちハードローは、わざわざ曖昧なdroit flouで補完するということは考えにくいので、そこの部分には斜線を引いています。真ん中の上のところです。

下のところ、グレーの部分なのですが、ハードローを補完するタイプのソフトローは背後にハードローが控えているわけなので、法的義務と拘束力はそこまで弱いということはあまりないかと思います。

この後、主として念頭に置きますのは、準備型と代替型のソフトローです。ここの黄色でつけた部分です。ここでソフトローがどのような場合に活用できるかということを考えていきたいと思います。

では、4ページ目をお願いいたします。

ハードローがないとき、対象者、消費者法の文脈では、通常は事業者が対象者ということになろうかと思いますが、この対象者のインセンティブは、状況によって大きく異なります。

まず準備型の場合ですが、もし将来を見据えた対応することが、対象者の直接的な利益になるのであれば、対象者はそのような行動を選択すると考えられます。例えば、事業者が将来的な規制、ある製品の原材料が禁止されるといったことですけれども、そのために早めに準備しておくほうが得だという場合は、強制がなくてもソフトローに従った行動を取ると予測されます。

また、準備型の場合なのですけれども、新しい環境に慣れることによって、ルールが指示する行動を取ると、あるいはルールは禁止する行動を控えると、そのためのコストが小さくなるということもあります。この例としては、各種の経過措置とか、あと努力義務規定などが挙げられるかと思います。

そして、これは準備型と代替型に共通する点なのですが、対象者が足並みをそろえる必要があるケースなど、いわゆる調整問題になっている場面では、ルールが自発的に遵守されることがあります。ルールにネットワーク効果がある場合と、こちらには書いてありますけれども、ネットワーク効果というのは、「採用する人が増えるほど、価値が高まる」という性質を指します。こういう場合、ルールに従う人が多くなるほど、従うことによる利益が従わないことによる利益を上回る可能性が出てくるということになります。例えば、どのような規格で製品をつくるかとか、どの会計ルールを用いるかとか、感染症対策として何をするかとか、こういった場面です。このような例は、みんなが歩調を合わせれば、お互いに利益になるという構造になっています。

このスライドの最後の点は改めて言うまでもないことかもしれませんが、ルールに違背する行動に対する社会的な圧力が強ければ、そのルールは遵守されやすくなります。これに関しては、次のスライドを御覧ください。5ページ目をお願いいたします。

こちらに、どのような要素が社会的圧力として作用するのかをまとめておきました。これらは、ごく一般的な話になります。何が圧力として作用するかは、おおむね下記のような要因に依存します。

ここでは3点挙げています。まず、対象者、つまり規範の名宛人となっているのがどういう人なのか。対象者が組織なのか個人なのか、あるいは、匿名なのか顕名なのかといったことがこれにあたります。2番目は、プレッシャーを与える人が対象者との間に継続的な関係を持っているかどうか、ということです。さらに、対象者が別のところで利益を得る機会を持つかどうかです。何が圧力として作用するかは、こういった要素に依存します。

その圧力の強さも、対象者自身の性質、敏感さ、関係する他者の人数、社会の同質性、違反行動についての情報の流通性とか、いろいろ書いてありますが、こういった要素によって異なってきます。ですので、圧力の強さを知るには、対象者が置かれている状況を具体的に調べる必要があります。

一般的に言いますと、合法か違法かがはっきりしているほうが圧力は強くなります。したがいまして、droit doux、つまり、義務を課さないソフトローは社会的圧力が相対的に弱くなるということにはなります。

では、6ページ目をお願いいたします。

これは、まだ一般的な話なのですけれども、ソフトローのメリットとデメリットをこちらに挙げておきました。時間の関係上、口頭での説明は割愛したいと思います。1点だけ申し上げておきますと、一番下のところですが、ソフトローは、多くの場合は基本的には制御が難しいものだということ、こちらは一応言及しておいたほうがいいかなと思います。

次のスライドをお願いいたします。

では、消費者法制度の中でソフトローを活用できるのかという問題に移ります。非常に大まかな方針のみで恐縮なのですけれども、スライドを2枚分にまとめてあります。

まず、どのタイプのいかなる目的でのソフトローなのかを意識しておく必要があります。一口に消費者法制度といいましても、様々な場面が守備範囲に入ってくることになるかと思いますので、それぞれの場面でどういう機能を持つソフトローを使いたいのかを検討しなければならないという、ある意味で当たり前のことです。

次に、droit douxとdroit mouの場合なのですが、十分な実効性を持つためには、ここに挙げている①から③のいずれかの条件が必要になります。

①は、問題状況が調整問題型になっていると、規制の対象者が互いに歩調を合わせることに関心を持っていて、抜けがけをするインセンティブがない、ということです。これは、もともとの利得の構造の問題です。

②は、ルールに違反した場合に、将来取引機会が失われたり、その他の不利益を受けたりする構造になっている、ということです。例えば、事業者が緊密なネットワークを形成していれば、この条件は満たされやすくなります。緊密なネットワークを形成していて、レピュテーションがそれなりに圧力として作用するという状況です。あるいは、社会的な圧力、事業者間ではなくても、社会的な圧力がほかからもかかるという状況でも同様です。

そして③です。ルールの実効化を行うインセンティブを何らかの理由で有する主体が存在するということです。その理由としては、複数のものが考えられるかと思います。例えば、業界の健全性を重視するような事業者がいて、その事業者がルールのエンフォースメントを積極的に担当するようになるとか、業界の健全性を示したほうが消費者との関係でより利益が大きくなるとか、あるいは、規制されると困るので先手を打って自主的に規制をしておきたいと考える事業者が存在する、といったことです。

以上、三つの条件を挙げましたが、逆に言いますと、調整問題型ではない場合は、匿名性が高ければソフトローの効果に期待するのはなかなか難しいということになります。

では、次のスライドです。規制の対象になっている事業者を取り巻く環境も様々です。業界間でも業界内でも大きく違う可能性があります。したがいまして、事業者がどんな環境に置かれて、どういうインセンティブを持っているのかということです。これを検討する必要があります。

消費者法が関係する場面では、事業者団体がある場合と、そうでない場合とでソフトローの有効性は大きく異なると考えられます。あるいは、事業者団体がどのくらいの力を持っているかにも大きく依存します。つまり、市場の中で事業者団体がどのくらいの力を持っているのか、ということです。事業者が非常に流動的で、次々に事業者が入ってくるような状況では、ソフトローはなかなか効きにくいのではないかということになります。

一方、今までほとんど触れてこなかった補完型の場合なのですけれども、先ほどグレーでつけたところなのですが、こちらにつきましても一言だけ付け加えておきます。

補完型は、ハードローの存在を前提にしていますので、実効性の面では、問題は少ないかもしれません。しかし、手続の透明性や適正性の面で考えておくべきことは多いと言えます。立法府を経由しない手段でルールをつくるに等しい場合もありますので、この点は、気をつけておくべき点だと思います。

今の点は、ルールをつくるという局面での懸念事項なのですが、ルールを変更したり、廃止したりする局面でも考えておかなければならない問題があります。一旦形成されたソフトローを変更、除去するためにはどうすればいいのかという問題です。

ソフトローに対する異議をどこに申し立てればよいのかという問題も、ここに含めてもよいかもしれません。一旦ソフトローが根づくと、そこから、なかなか変えられないということがありますので、そういったものを変える場合に、どういう手段を取ればよいのかということです。これを考えておく、あるいはその手続を明確にしておく必要があります。

以上、極めて雑駁ではございましたが、ソフトローの活用可能性と、ソフトローを活用するに際して留意しなければならないと思われる事柄などについて、報告いたしました。

私が申し上げたことは、「どのような意味でのソフトローなのかを明確にすることが重要」ということ、それから、「活用できる可能性は、適用の対象である人たちがどういうネットワークを形成しているのかといった事情によって異なってくるので、具体的な状況の把握が必要」ということ、それらの点に尽きます。

どうもありがとうございました。コメントや御質問などがございましたら、ぜひよろしくお願いいたします。

○沖野座長 飯田先生、ありがとうございました。

ただいまの飯田先生からの御発表内容を踏まえて、質疑応答、意見交換をしていきたいと思います。御発言のある方は、会場では挙手あるいはオンラインの方はチャットでお知らせいただきたいと思います。どの点からでも結構ですが、いかがでしょうか、河島委員、お願いします。

○河島委員 河島と申します。

ソフトローの種別や、それが機能する条件について分かりやすく整理していただきまして、ありがとうございました。

2点質問があります。

1点目としましては、海外あるいは日本のほかの法制度と比較して、ソフトローとハードローとの関係について、日本の消費者法制度は、どのような特徴があるのかをお教えいただければ幸いであります。消費者法が御専門ではないということでありますので、もし、何かあればということでお願いします。

2点目の質問としましては、スライド4、5でソフトローの遵守は「ネットワーク効果」や「社会的圧力」があることが重要であると書かれてあります。それと重なりますが、スライド7では「調整問題型」の状況であることなどが条件になっていると書かれてあります。逆にそういう状況でないとソフトローは効力を発揮しにくいと説明されました。

そうなると、デジタル社会となって、オンライン上だけで様々な取引や交渉が行われている中で、事業者が次々と名前を変えてアカウントも変えることが非常に簡単になり、しかも海外の事業者の参入が簡単になっている状況は、ますますソフトローが遵守されず効果が発揮されにくい状況が生まれているのではないでしょうか。変化が激しいのでソフトローが必要だけれども、遵守の場面では、非常にエンフォースメントをかけにくいとも思うのですが、その辺りいかがでしょうか。よろしくお願いいたします。

○飯田教授 御質問ありがとうございます。

2点御質問をいただきましたが、2点目のほうから回答をさせていただきたいと思います。

例えばオンライン上で行動の規制をする場合に、ソフトローの効果が発揮されにくいのではないかということでしたが、私も実はそのように考えております。先ほどの分類で言いますと、補完型の場合であれば特に問題はないかなと思いますが、拘束力や義務を緩めているタイプのソフトローの場合は、匿名性が高い状況ではソフトローはなかなか使いづらいのではないか、というのが私自身の現在の印象です。オンライン上など、そのほか流動性が高い状況でソフトローがうまく活用できた事例というのがあるのか、私自身も分からないところはあるのですが、大体そのように考えております。

それから、1点目ですけれども、消費者法制度で海外と日本でどのように異なるのかにつきましては、私自身もはっきりと分かっておりません。ただ、消費者法以外の法分野では、規制の対象になっている人たちの間のネットワークが割と強く、特に業界という意識が強いので、ソフトローを制定した場合に効果が発揮されやすい、ということが日本の特徴として挙げられる場合があります。

具体的な法令名を挙げるとすると自動車リサイクル法ですかね、これはもともと使用済み自動車リサイクルイニシアティブというものがソフトローとして存在しまして、関係する業界が法の定める以上の成果を出そうとして頑張った、ということがあります。業界という意識が強いことを示す例です。

これは日本の特徴として挙げられるかと思います。消費者法の扱う領域で同じように業界という意識があるのかどうか、消費者法の範囲は広いものですから、いろいろな場所で事情は異なるかもしれませんが、社会構造上の特徴としてはこの点を挙げることができるのではないかと思います。

十分なお答えになっているか分かりませんけれども、差し当たり以上が回答ということになります。ありがとうございます。

○河島委員 とてもよく分かりました。ありがとうございます。

○沖野座長 ありがとうございました。

室岡委員からお手が挙がっておりますので、室岡委員お願いします。

○室岡委員 ありがとうございます。

私からは1点、質問がございます。現在、全体の議論の中で政策のグラデーションや努力義務などが議論されていますが、その際、御指摘いただいた手続の透明性や適正性の面で考えておくべきことは多いと思います。これらはおそらくスライド中の補完型に属されることが多いと思いますが、その際に具体的に気をつけておくべき手続の透明性や適正性の面などが、もし思いつくものがありましたら御教示いただければ幸いです。

○飯田教授 どうもありがとうございます。

今、ちょうどスライドが出ているかと思いますけれども、手続の透明性と書いてあります。ルールの中身を決めていく上で、どういう手続でルールが形成されるのかを指しています。ここで合意などがちゃんととられているのか、ルールの内容が分かりやすい形で示されているのか、こういったことかと思います。いつの間にか決まっていることがないようにしたほうがよいということですかね。これに対して、適正性については、ルールのエンフォースメントの段階で妥当な手続を踏んでいるのか、こういったことを指しています。抽象的に申し上げますと、そういうことになるかと思います。

消費者法の文脈で具体的にどういう手続の透明性の確保手段、あるいは適正性の確保手段があるのかということは、私自身にはすぐに思いつくものはありません。抽象的な回答になってしまいますが、そのようなことです。

○室岡委員 ありがとうございました。

○飯田教授 ありがとうございます。

○沖野座長 ありがとうございました。

そのほかにいかがでしょうか。

小塚委員、お願いします。

○小塚委員 学習院大学の小塚です。

私も河島委員と同じような印象を持ちまして、今日御整理いただいたようなことであるとすれば、私も基本的に異論があるわけではないですが、消費者法にソフトローを活用していくというのは、なかなかハードルが高いかなと感じました。

その関係で、こういうことが可能だとお考えになりますかというのをお聞きしたいと思うのですが、御指摘いただいた補完型のソフトローとして、以前にソフトローの勉強を少ししたときに、例として挙がったのが、例えば会計基準ですね。ハードローとしての会社法では、公正妥当な会計基準によるとしか書いていなくて、その中身というのは、ユーザーである発行会社と、その投資家の代表が集まって、民の場で決めている。しかし、そのようにして具体化されたものは、公正妥当な会計基準という形でハードローの規範の内容を形成するものとして取り込まれていると、こういうことがあって、これであれば、会計の基準の場合には、会計士という専門職が関与するということもありますけれども、実現も含めてソフトローが機能するのだと思います。

それで、それと同じようなことが消費者法で考えられるか、この専門調査会の一つの背景になった規制当局の動機として、法律をつくろうとすると、どんどん細かい規定になり過ぎる、その結果として抜け道を防ぐ人は容易に抜け道ができ、他方で、真面目な事業者は対応コストが非常に高くなるという問題意識があったと思いますが、そうすると、ソフトローで、そういう細かい規範は決めていきます。これは事業者も、恐らく消費者代表もそこに加わらないといけないと思うのですが、関与するので、事業者としてこれならできるというものが決められる。

他方で、法令には抽象的、一般的な規定が置かれていて、それは、いざとなればエンフォースするぞというのは、消費者庁なり、別にそれは、ほかの官庁でもいいのですけれども、そこが持っている。

こういうことが、日本の実定法として可能であろうか、つまり、ハードローに抽象的、一般的な規定があるという状態でエンフォースするというのは、会社法はいろいろな事情があって、たまたま会計基準についてできていますけれども、消費者法の分野でできるだろうか、あるいはできるとすれば、どういう条件があればできるでしょうかという辺りを、先生のお考えを伺えればと思います。よろしくお願いします。

○飯田教授 どうもありがとうございます。

今のお話、恐らくそれは可能なのではないかなと思います。消費者法で具体的にどういうことが考えられるのかということについては、私も持ち合わせている材料がないのですけれども、今挙げていただいた会計基準と同じような話、内容形成を民のほうに委ねて、細かいことはそちらに任せるということは、それは十分あり得ることかと思います。

補完型の場合にはそこは十分に可能かと思いますが、先ほど室岡委員からも御質問がありましたけれども、その手続の透明性、適正性、あとはスライドの下のところ、先ほど回答のときに申し上げるのを忘れていたのですけれども、ルールを変更する場合にどうすればいいのかということも重要です。細かい内容を委ねていますので、それを変更するときに、どういう手続を踏めばいいのかいうことは、ちゃんと明確にしておく必要があるかなと思います。

可能なのかなとは思うのですが、この辺りは、具体例についてすぐに思いつくものがないので、少し中途半端な回答になってしまいますけれども、可能だとは思います。

○小塚委員 前向きな御回答で助かりました。ありがとうございます。

○沖野座長 ありがとうございます。

では、石井委員からお手が挙がっておりますので、石井委員、お願いします。

○石井委員 ありがとうございます。

中央大学国際情報学部の石井です。大変勉強になりました。ありがとうございます。

私は、個人情報やプライバシーを専門としている者ですが、1点ソフトローとハードローの関係について、御質問をさせていただきたいことがあります。

個人情報保護制度には、十分性という制度がありまして、これは、EUのGDPRに基づく仕組みですが、EUから個人データの移転を受けるときには、原則として、欧州委員会から、日本の制度が十分な保護レベルにあるということを認定してもらうと、それによって、適法な国際的なデータ移転が可能になるという仕組みです。日本はEUから十分性認定を受けていまして、そのときに、日本の個人情報保護制度が、EU側から評価されたわけですが、当然GDPRと個人情報保護法にはいろいろな違いがあるということで、十分な保護のレベルを対EUとの関係で担保するために、個人情報保護委員会が補完的ルールというものをつくっています。

この補完的ルールというのは、EUから十分性認定を得るために、そして維持するために、追加的なルールといいますか、解釈を含めてですが、そういったものを定めるような内容になっています。立てつけとしては、法律そのものではないのですが、位置づけとしては、個人の権利利益を高い水準で保護するための一つのルールであって、個人情報保護法よりも厳格な規律、EUとの関係では、プラスのルールを設けていて、それが執行可能なものあるとされています。問題があれば、裁判所から救済を得ることができるというようなものになっているのですが、どこまでがソフトローとしてカバーできる範囲で、どういう性質を持つものは、ソフトローではカバーすることが難しく、ハードローのほうに入れる必要があるのか、その辺の切り分けについてお聞きしたいと思います。文書の性質によって、ソフトローではカバーし切れない面が出てくる段階というのは、どの辺りに見いだせばいいのか、少し質問が抽象的かもしれませんが、もしよろしければ、お考えをお聞かせいただければと思います。よろしくお願いします。

○飯田教授 どうもありがとうございます。

非常に難しい御質問だと思います。ハードローとソフトローで、どこからソフトローでは対応できなくなるのかですけれども、今のお話は個人情報保護の文脈で、恐らく消費者法にも関係するということなのですが、どういう切り分けができるのかについて、どういう場合にソフトローではカバーできなくなるのか、すぐにはお答えをすることができません。規定が非常に複雑な場合や流動性が高い場合はソフトローのほうが一般にはよいかと思いますが、ハードローをどういう手続で、どのくらいのコストをかけてつくるのかにも依存してくるので、いろいろなパターンがありえます。ソフトローをつくるコスト、ハードローをつくるコスト、あとはルールを変更するコスト、これらを総合的に考慮して決めることになるかと思います。すみません、差し当たり、この場でお答えできることは、それぐらいかなと思います。非常に不十分な回答になってしまいますけれども。

○石井委員 とんでもないです。ありがとうございます。

もう少しだけお聞きしてもよろしいですか。

○飯田教授 もちろん、よろしくお願いします。

○石井委員 例えば、一つの観点としては、執行を十分に行う必要がある場合には、ソフトローではなくて、ハードローのほうで対応したほうがいいのではないかという観点があるかと思いました。

他方で、十分性認定との関係で個人情報保護委員会が出した補完的ルールは、かなりぎりぎりを攻めている面もあるような気がしております。EUとの話し合いの中で、ある種の交渉を行うわけですが、EUから指摘を受けた事項について、ハードローとして、個人情報保護法をすぐに改正して対応するというのは、手続的にも、時間的にもなかなか難しい面があるかと。

そうなると、補完的ルールのような形で、十分性認定を受けるという方法もあり得るかということだと思いまして、その辺のさじ加減といいますか、何か見通し的なものをお聞きできればなと思った次第です。

○飯田教授 ありがとうございます。

これは、具体的にどういう形でルールの形成とエンフォースメントをされるのかを考慮する必要があるのかなと思います。すみません、一般的な形でお答えするのは、なかなか難しいのかなという気がいたしました。

こちらもすぐにお答えをすることができずに、申し訳ございません。

○石井委員 ありがとうございます。

○飯田教授 むしろ、勉強させていただきました。ありがとうございます。

○沖野座長 ありがとうございました。

 

また、この場でなく、後ほど補完していただくということも、こちらの方法としてはございますので、そういったことも御検討いただければと思います。

○飯田教授 分かりました。

○沖野座長 そのほかに、いかがでしょうか、二之宮委員、お願いします。

○二之宮委員 二之宮です。御説明ありがとうございました。

河島委員と小塚委員の御質問、御意見とも関連するところなのですけれども、消費者法でどのようにソフトローを組み込んでいくのかを考える際に、小塚委員が言われたとおり、消費者契約法の改正の経緯で、やはり事業者側の考えとして、対象を広げるとコストがかかるから要件を明確にしたい、限定したいというところと、消費者側の権利擁護、被害救済の幅を広げたいというところから対象を広げたい、要件を緩めたいというところの激しい対立があって行き詰まってきたというところがあると思います。しかし、よく考えると、これは、あまりかみ合っていない部分もあり、遵法意識、規範意識の高い事業者は、法を守るからコストがかかるのであって、そうではない事業者、そもそも規範意識が乏しい事業者に対してハードローを一生懸命つくっても、そもそも遵法意識がない、乏しいということになると、法があろうとなかろうとなり、そういうところの違いがある。このような激しい対立の中で努力義務というのが組み込まれてきた、それだけが理由ではないのでしょうけれども、そういう部分があると思います。

資料の5ページで記載されている、結局のところ対象者、規範の名宛人をどう捉えるのかというところを一つ考えると、その遵法意識が高いところに対しては、ハードローが必ずしも、そこまで必要なのかというと、そうではなくて、遵法意識が乏しい、低いところを名宛人とすると、やはりハードローしか使えないということになってくる。

もう一つは、河島委員が言われたように、デジタル社会でのネット取引では名宛人が分散してしまっていて誰というのを捉えにくいということを考えると、独禁法の特別法である景表法の中に公正競争規約というのが消費者法にソフトローを組み込む際の参考になるのではないかと思います。事業者団体が自主ルールについて消費者庁と公正取引委員会の認証を受けた公正競争規約をつくれば、それを守っていれば独禁法違反とはならない、自分たちでちゃんとやろうという意識があるところは、自分たちの自主的なルールをつくって認証を受ければハードロー違反を回避できる、回避できるというか直接的には問題にならないが、そのような規約をつくらない、あるいは名宛人となる事業者が事業者団体をつくらずばらばらになっているため規約をつくれないという場合や事業者団体に加盟していないところにはハードローが適用されるというのは一つの仕組みとして、消費者法にも組み込めるのではないかなと思います。ここは小塚委員と同じような形の質問になるのですけれども、先生の御意見はいかがでしょうか。あるいは、これは石井委員の御意見もぜひお聞きしたいなと思うところです。

それと、もう一つは、エンフォースメントの実効性というところを考えると、インセンティブというよりも、むしろ圧力になるのかも分かりません。先生の資料に書かれている手続の透明性と適正性という点を考えると、行政が認証の手続に入るというのも一つでしょうが、消費者法の場合は、事業者に対する提訴権限を持ち行政の代替機能を持つ適格消費者団体が存在します。ハードローに関しては適格消費者団体の差止め請求権の行使により直接機能しますし、認証を受けたソフトローの制定、改廃、運用というところにも適格消費者団体がチェックを入れていくということになえれば一種の圧力、インセンティブになるのではないかと思います。

この辺を組み合わせることができれば、規範意識の高い事業者と、ない事業者に対してグラデーションを設けた一つの仕組みというのができるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

○飯田教授 どうもありがとうございます。

今の御質問、どちらも、先ほどの事業者間のネットワークの形成と関連することになるかと思います。匿名性が高いと、先ほどの代替型と準備型の場合、こういうソフトローを活用することがなかなか難しいという話をしましたが、これはネットワークが形成されていれば、そして圧力をうまくつくり出すことができれば、ソフトローが活用可能だということでもあります。

先ほど挙げていただいた例、景表法の例もそうですし、適格消費者団体もそうだと思いますが、これらは、ネットワーク形成を通じて匿名性の程度が低くなっているという例になっています。

今回はある規範を中心にして、それがソフトローかハードローかという観点からしたお話をできませんでしたが、別の手段によってネットワーク形成ができるのであれば、ソフトローを有効に活用できる場面が増えていく可能性はあるのではないかと思います。大まかには、そういう感じの回答になろうかと思います。

最初に規制のコストの話が挙げられていましたので、今の話と直接関連はしないかもしれませんが、付け加えておきます。ソフトローとハードローを比べた場合、規制のコストは一般にソフトローのほうが低いと言われているのですけれども、どちらが安価に済むのか、コストがかからないということは、実はよく分からない部分がありまして、事業者団体に任せているほうが安価に済むという場合ばかりではないかなと思います。コストがいろいろなところに分散されて見えにくくなっているだけ、ということもあるかと思います。一般にはソフトローのメリットとしてコストが安いということは挙げられるのですが、この点につきましては、今回の報告では強調はしませんでした。実際には、その辺りも考えながら、ハードローとソフトローをどのように活用していくかということを考えていくことになろうかと思います。

ということで、回答としては、今のような仕組み、特に事業者間あるいは公的な機関との関係、この関係をどのように構築していくのかということも、広い意味で法政策に含まれるかと思いますので、それも併せて活用していくと、ソフトローを応用していく領域というのが広がっていくのではないかと思います。

以上です。

○沖野座長 ありがとうございます。

二之宮委員の御質問の中で、石井委員からも御意見をお伺いしたいというお話がありました。これは、景表法とか、独禁法関係の公正競争規約型の規律についてどうお考えになりますかということでよろしいですか。

石井委員、いかがですか。

○石井委員 どういうお答えをすればいいのか。

○沖野座長 では、まず、二之宮委員から改めて御質問を確認していただければと思います。

○二之宮委員 すみません、突然振って申し訳ございませんでした。

ハードローは、補完型の一つだと思うのですけれども、景表法の公正競争規約は、ある意味ハードローがあって、その中で認証を受けた規約というのを適用していれば、独禁法の適用は免れるという仕組みになっています。

この形を、結局行為規範ですから、消費者法の中にも行為規範をいろいろ打ち立てていって、業界があるところは、自分たちのやり方というもので認証を受けた規約、公正規約をつくれば、それで法の適用は免れると。業界がないところ、あるいはそもそも自主ルールなどをつくる意識が乏しいところに対しては、ハードローが直接適用される。

そのときに、ハードローが適用されるときには、適格消費者団体の差止請求の対象にもなるし、規約をつくるときには、その制定過程、改廃とか運用とかにも適格団体のチェックを受けるというところで圧力として作用すれば、消費者法の中にも同じような仕組みが取り込めるのではないかということを、先ほど意見として述べたのですが、この点について、石井委員の御意見をお聞かせいただければと、すみません、先ほど勝手に申し上げました。

○石井委員 ありがとうございます。

私の専門というわけではありませんが、今の御説明を前提にしますと、十分に消費者法の中にも、そのような仕組みを入れることは可能だと思います。個人情報保護の分野でも、以前、公正競争規約のようなルールの可能性を検討するといいますか、議論の俎上に上ったことは、たしかあったかと思います。公正競争規約のような仕組みというのは、特に分野を問わず、ルールとして使うことができる条件がそろえば、それは可能なのではないかなと思います。御質問に対するお答えとしては、そのような形でよろしいでしょうか。

○沖野座長 ありがとうございました。

委員間では、様々なヒアリングを経てさらにまとめるときにも、また改めて御検討いただく機会はあるかと思います。

二之宮委員から、さらに追加の点、あるいは特に御報告に関してといいますか、飯田先生にさらにあれば、お願いしたいと思いますが、いかがでしょうか。

よろしいですか。

石井委員、お願いします。

○石井委員 認証の仕組みというと、例えばプライバシーの分野ですと、プライバシーマーク制度のようなものが昔からあります。これは法律に基づく仕組みではないのですが、個人情報保護法の意識を高める上では、かなり大きな役割を果たしてきているところでもありますし、そういう仕組みについても、先ほどのEUの十分性認定のプロセスでも、当然インプットとしては入っていたという認識ではあります。

認定や認証の仕組みで、法律上の義務を一定程度免れるという仕組みを入れることと、それをつくるときに、適格消費者団体のような組織が介入することで、手続面で適正性を担保することは、使い方によっては有効な仕組みになってくると思いました。

すみません、雑駁ですが、以上になります。

○沖野座長 ありがとうございました。

そのほか、よろしいでしょうか。

加毛委員、お願いします。

○加毛委員 飯田先生、本日はソフトローに関する包括的で詳細な御報告をありがとうございました。

御報告全体を通じて、ソフトローと呼ばれるものに、多様なものが含まれていることがよくわかりました。ソフトローに限らないことですが、ある概念やキーワードが一人歩きする場合、問題に対する解像度が落ちてしまう危険性があります。ソフトローについても、それが使われる文脈に応じて、その内容を適切に認識して検討しなければいけないということを、御報告を通じてよく理解することができました。

そのことを申し上げた上で、三つ御質問があります。第1に、御報告におけるソフトローという概念の外延にかかわるのですが、ソフトローもローであり、また、ルールという言葉も出てきたところですが、ご報告では、ソフトローについて、それを策定する主体が存在することが前提とされていたのでしょうか。補完型、準備型、代替型という3つの類型が挙げられましたけれども、準備型と補完型は、立法を前提とするものとされていますので、多くの場合、策定主体として監督官庁を想定できようかと思います。代替型については、監督官庁が事業者団体等に働きかけてルールをつくらせるケースもあるでしょうし、事業者団体が自発的に業界として望ましいルールを策定するケースもあろうかと思います。

他方、ソフトローというときに、明確な策定主体のない取引慣行のようなものも想定されるのではないかと思います。例えば、当初、個社がそれぞれのインセンティブに従って行動をしていたところが、だんだんと集積するような形で、業界の慣行が形成されることが考えられます。このような取引慣行が、本日の飯田先生の御報告の対象に含まれるのかどうかについて、確認させていただきたいと思います。

以上の点に関わりますが、第2に、6ページでは、ソフトローのデメリットとして「基本的に制御は難しい」とされ、8ページでは、ソフトローの変更や除去についても検討すべきことが指摘されていますが、これが、どのようなタイプのソフトローを念頭に置いているのかについて、教えていただきたいと思います。

例えば、補完型として具体例として挙げられた、通達やガイドラインについては、監督官庁が所管しているので、制御が難しいとはいえないように思いますし、変更や除去についても一定の手続が整備されているのではないかと思います。事業者団体が策定したルールについても、制御が難しいと言うべきであるのか、私にはよく分かりません。

他方、先ほど申し上げた、明確な策定主体が存在せずに形成された取引慣行のようなものもソフトローに含まれるのだとすると、確かに制御が難しい場合もあるように思われます。第1の御質問と併せて、御報告の内容について、もう少し御説明いただければと思います。

3点目の御質問は、先ほど室岡委員から御指摘があったところにかかわりますが、8ページの下から二つ目の矢じりにおいて、補完型のソフトローに関して手続の透明性や適正性が、変更の局面を含めて検討を要するとされるところ、ここでいう透明性や適正性の確保の仕方について、お尋ねしたく思います。とりわけ、策定主体の存在するソフトローを念頭に置いた場合に、ルールが適用される規制対象者との対話が、手続面において重視されるべきなのかについて、お考えがあれば、お教えいただきたいと思います。

この点は、消費者問題を考える際に、重要なポイントの一つであると思っております。それぞれの業界を所管する監督官庁は、規制対象の業界とコミュニケーションを取りながら、業務を行うところがあるため、当該業界を規制する一方で、当該業界の利益を擁護する立場に立つ場合もあるように思います。これに対して、消費者庁は、特定の業界を所管するわけではないので、そのような消費者庁が策定するソフトローについて、手続面での透明性や適正性をどのように確保すべきかのかについて、関心を持っています。そこで、規制対象者との対話が手続面において、どのように考慮されるべきかについて、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思う次第です。

よろしくお願いいたします。

○飯田教授 加毛委員、どうもありがとうございました。

3点御質問をいただきましたけれども、1点目と2点目は関連するかなと思います。

まず、1点目のソフトローの外延についてです。策定主体の存在が前提となっているのかどうかですけれども、明確な策定主体が存在しないものも、一応対象とはしておりました。ソフトローには、社会規範に近い、ただのローカルルールのようなもの、慣行的なルールも含まれる場合が通常で、こちらも対象にしております。

非常に鋭い御指摘で、このような策定主体のないものが先ほどの表のどこに含まれるのかというと、結局このハードローを代替するソフトロー、つまり③に含まれるのではないかと思います。「代替型」とまとめて申し上げましたが、これにはいろいろなものが中に含まれまして、私的に規範をつくることを正面からハードローで規定しているという場合もありますし、ハードローとは無関係にソフトローが確立しているという場合もあります。さらにその中には、公的機関の規制を避けるために私的な秩序形成がなされる、という場合もありますし、いろいろなものが含まれるかと思います。特に明確な策定主体がないという場合も、この中に含まれるものだと考えておりました。

それに対して、準備型の場合は、策定主体が存在するということになるかと思います。あとの補完型もそうです。

次に2点目の御質問なのですけれども、制御が難しいということを、一般的なソフトローのデメリットとして挙げておきましたが、ここで想定されていたのが、代替型のソフトローです。補完型の話はここでは想定しておりませんで、何かややこしくて申し訳ないのですけれども、補完型は少し事情が異なって、補完型の場合は基本的に制御というのは可能だと思います。

ただし、スライド8ページに書いた変更・除去の点ですけれども、こちらは補完型も含む一般的な話になっています。通達や解釈の指針であれば、手続の透明性・適正性の点では問題はそれほど少ないかなと思いますが、慣行的になされているという場合は問題になるかもしれません。補完型の場合は、どこが細かいことを規定しているのか、策定主体が何かよく分からない、ということはあまりないかもしれませんが、この変更・除去については問題になるかと思います。

スライド6ページの「制御が難しい」というときにどういうものを想定していたのかですが、慣行的なものをここでは想定していました。はっきりした明確な策定自体がないものを想定していたということになります。ですので、この辺りで念頭に置いている例が混乱していて申し訳ございませんでした。

それで、3点目に移りますが、手続の透明性、適正性についてです。これは、被規制者との対話という話がありましたけれども、恐らく、今お話を伺っていまして、消費者保護法制度の場合は、対話というよりは、ルールの策定・変更・除去がどういう根拠・理由に基づいて行われたのかという説明が必要なのかなと思います。対話よりも、どういう根拠や理由があるのかと、これを示すのが重要なのかなと思います。

これでお答えになっているか分からない部分もありますけれども、私からの回答としては以上です。

○加毛委員 大変ありがとうございました。

御説明に基づいて、ソフトローという言葉で捉えられる対象を、より的確に理解できるようになったと思います。また、御説明から重要な示唆を頂戴しました。ありがとうございました。

○飯田教授 こちらこそ、ありがとうございます。

○沖野座長 ありがとうございました。

まだ、御指摘などもあるかと思いますけれども、時間の関係もございまして、ここで飯田先生の御報告に対する質疑応答というのは一旦、終わりとさせていただきたいと思います。

飯田先生におかれましては、大変貴重な御報告をいただきまして、ありがとうございます。

この後、後半に進みますけれども、関連する議論も出てこようかと思いますので、御出張中で接続もなかなか必ずしも万全ではないということなのですが、可能な範囲で、かつ差し支えなければ、引き続き御参加をいただければと思います。どうかよろしくお願いいたします。

○飯田教授 分かりました。どうもありがとうございます。参加させていただきます。

○沖野座長 それでは、お待たせいたしました。続きまして、後半ですけれども、本検討会の後半の具体的な検討テーマの中には「既存の枠組みにとらわれず、消費者取引を幅広く捉える規律の在り方」というものがございます。その中で、さらに具体的には、消費者の脆弱性を捉えた規律の在り方や、客観的価値実現との関係での規律の在り方等があります。これらは、既に前半で検討していただいたところですけれども、それらを踏まえた規律の在り方を考えるに当たっては、多様な脆弱性を有する消費者が安心して、安全に取引に関わることができる環境の整備のために、様々な主体がどのような役割を果たすことが期待されるのか、そのために消費者法制度に何が求められるのかといった点を検討することも重要と思われます。

そこで、本日は、利他という視点から、人間がより人間らしく生きることのできる社会を実現することに向けた御研究等に取り組まれている伊藤亜紗先生から「ケアから消費を考える」というテーマで、これも20分程度御発表いただきまして、質疑応答、意見交換をさせていただければと思います。

それでは、伊藤先生、よろしくお願いいたします。

○伊藤教授 御紹介どうもありがとうございます。東京科学大学の伊藤と申します。

今日は、このような場にお招きいただきまして、どうもありがとうございます。

私は、消費者法の専門家でないどころか、法律の専門家でもなく、かつ社会科学の専門家でもないので、皆さんにとって有益な話題提供ができるかは、甚だ不安なのですけれども、人文科学系の視点から、つまり具体的には、もう少しボトムアップ的な視点から事例等も踏まえつつ、今回のテーマに関係するかなと私が考えたことについて、お話をさせていただきます。よろしくお願いします。

それでは、めくっていただいて1ページ目は、余りに文脈が違うので、少し今日の話の文脈をお伝えしたほうがいいと思って、私自身のバックグラウンドを書き記したスライドです。

私は、アカデミックなバックランドとしては、美学、美しい学と書く学問を専門にしています。

これは、ざっくり言って哲学の一種のような学問なのですけれども、その中でも特に、人間の感性とか身体感覚のような、言葉にしにくいとても曖昧な部分というものを、言葉を使って分析するという、そういった学問になります。

その中で、私自身は、人間の身体、特に身体の多様性に関心を持って研究を進めてきました。

障害を持った方とか、病気の方とか、高齢の方、認知症の方、そういった様々な方が、その方なりの体の使い方を工夫なさっていたりとか、その体だからこそ、見える世界の姿、社会の姿というものがあって、それをフィールドワーク、具体的に当事者の方にお話を聞くという形で、私なりに再構成をすると、そういう形で研究を進めてまいりました。

そういう研究も、恐らく今日の消費者の脆弱性という観点から、もしかしたら関係するのかなと思っています。

一方で、大学では、東工大時代からですけれども、大学の中で研究組織をつくっていまして、それが未来の人類研究センターという組織です。

この組織の研究テーマが、利他ということで、利他学という新しい学問を立ち上げることをミッションにした、そういったセンターのセンター長を5年務めてきました。

利他というのは、特に日本では仏教的な伝統が非常に強い、宗教的な概念として捉えられがちです。

そういった文脈は、もちろん大事なのですけれども、私自身の関心としては、少しそういう心の問題というよりは、少し社会システムに寄せた問題として利他を捉えられないのかなと思って研究を進めてまいりました。

具体的には、時に利害関係が対立するような人たちが、どのように共存していくのか、そういう知恵みたいなもの、特にそれが、近代的な法律が成立する前の慣習のようなものも含めて、どうやってお互いにうまく利害関係を調整して、例えば共有資源などを、皆で上手に使ってきたのか、そういったことを調査するという形で、この利他学を進めてきています。

そういった主に二つの文脈が、今日の私からの話題提供には関係するかなと思います。よろしくお願いします。

スライドをめくっていただいて、今日は消費という活動とケアという活動を、あえて対立的に捉えてみることによって、それらが持っている特徴、またはそれらが重視している価値観という輪郭を際立たせられるのではないかと思って、あえて対立的にこの二つを論じてみたいと思います。

その際に、私が非常に参考になるなと思った本が、アネマリー・モルという文化人類学者、哲学者の『ケアのロジック』という本があります。

ここの本の中で「選択のロジック」という言葉と「ケアのロジック」という言葉が使われています。

これは、どういうことかというと、この本は、まず、非常に詳細なフィールドワークに基づく本です。どういったフィールドに関する著書かというと、オランダの糖尿病の患者たちがどのように糖尿病を抱えながら生活を営んでいるかということについてのフィールドワークに基づく本になります。

糖尿患者の生活というのを見ていくと、そこには二つのロジックが見えると。それが、この選択のロジックとケアのロジックだと、モルは言っているわけです。

それぞれどういうものかというと、まず、この選択のロジックというのは、大まかに言って消費ですね、つまり、患者を消費者として扱うようなロジック、例えば、何か具体的な治療法を選択するときに、どういう治療法を選択しますかということを問うような場面、そういった場面は、患者が選択の主体として、消費者として扱われている。そういう場面が一方である。

そういったときには、重視されているのが「患者=主体の自由な意志」ということで、必要な情報が与えられさえすれば、患者は自分の意思で最善の選択ができるという仮説に基づいて、その患者が扱われている。そういったロジックです。

そこで想定されているのが、これは表面上矛盾するのですけれども、能力がある、つまり最善の選択をする能力がある。そういう健康で自律した主体が想定されている患者なのですけれども、それは一つの自律した主体として扱われていて、客観的な自分にとってふさわしい判断ができるのだ、そういう主体として扱われているわけです。

そういう選択のロジックが前提にしている主体というのは、言うまでもないことですけれども、消費社会、それから同時に市民社会の前提にもなっているような、そういった主体なのだと、そのようにモルは整理するわけです。

一方で、その糖尿患者は、ケアのロジックの中でも生きていると。それはどういうことかというと、ケアというのは、消費者的な主体とは対極的な、かなり異なる人間像に基づいていて、非常に簡単に言ってしまうと、それは近代的な主体が想定している人間像の外部にあるような、そういう存在なのだと言うわけです。

そもそもケアというのは何なのかというと、一つの目的、単純に言うと、よく生きるということ、そのよく生きるという明確なゴールがあって、そのゴールのために様々な他者が関わっていくと、そういうことの関わり方の設計ということが、非常に重要になってくるわけです。

それは、もちろん患者の家族であったり、医療者であったり、看護師であったり、近所の住人とか、職場の上司とか、そういった様々な人たちが関わりながら、しかもその関わるネットワークが時間的に変化していくということを前提にしながら、その変化を踏まえつつ、かつ最善のケアをどうつくっていくか、そういうことが主眼に置かれているわけです。

そこで前提にされている人間像というのは、人は個人では生きていない、様々な人に支えられながら生きているのという相互依存的な人間像です。一応、主体という言葉は使われていますけれども、それは、厳密な主体という定義からは、恐らくは外れるような、そういった存在であろうと思います。

さらに、選択のロジックにおいては、消費をする、または投票するとか、そういう場面でもいいかもしれませんけれども、決定的な瞬間というのが想定されているものに対して、ケアのロジックにおいては、決定的な瞬間というのがなくて、ずっと続いていく。特に糖尿病の場合には、基本的には完治はしないで、ここで扱うのは、慢性型の糖尿ですので、基本的に死ぬまでずっと続いていく、そのケアの長いプロセスを生きていく、そういうことも同時に選定されていて、つまり時間的なスパンが異なっている、そのように整理できるかなと思います。

めくっていただいて、次のスライドは、先ほどの本の中で、モルが一つの象徴的な事例として挙げている糖尿病の患者向けの広告です。

これは、どういう広告かというと、真ん中に写真があって、その写真は、人がハイキングをしている、3人の方が山登りをしている、そういう写真が真ん中に使用されています。

その上部に、小さい時計の文字盤のところだけを取り出したような、小さい機器が紹介されていて、これが糖尿患者のための血糖値を測定できる、そういう機械なのだそうです。

ライフスキャンという製品らしいのですけれども、このライフスキャンというこの商品を使えば、糖尿病患者であったとしても、こうやってハイキングに行ったり、山登りが出てきますよと、そういうメッセージが透けて見える広告かなと思うのです。

これは広告ですので、当然選択のロジックにのっとって、患者が想定されているし、様々な時間的な設定とか、重視しようとしている価値というのも選択のロジックにのっとっているわけです。

ところが、これをケアのロジックから見ていくと、もう全然違う、ここに書かれていないけれども、患者が生きていくために必要なことというのが様々見えているわけです。

例えば、一見すると、この広告を見ると、このライフスキャンという製品がありさえすれば、糖尿患者もハイキングに行けるように見えるわけです。そういう自由を患者が手にするためのツールのように見えます。

ところが、実際にケアの視点で考えていくと、そんな簡単な話では当然ないわけです。例えば、糖尿患者というのは、出血をしやすいという特徴を持っていますので、例えば、実際に山に行くとなったら、どういう靴下を履いていったらいいのかということが非常に大きな問題になってくるだろうと、先ほどの本では書かれています。つまり、長時間歩いても足から出血が起こらないような、そういう靴下は何なのか。さらに、当然山に行くということで、山に行くために必要なエネルギーを確保するための食事ということと、それが糖尿を悪化させないということと、両方の条件を満たすような食事をどういうタイミングで、何を取ったらいいのか、そういうことの計画も非常に綿密に練っていく必要がある。

さらに、登山中に何かもし急な体調の変化というのがあったときに、どのようにサポートしていくのか、そういう体制も整えていく必要があると思います。

そのようにケアのロジック的に考えていくと、糖尿患者が山に行くということは、相当繊細にケアのネットワークというのを準備していかないとできないことであるはずなのに、消費の視点で語られると、その目的と手段というのが非常に単純化されてしまう。こういうツールがあったら、こんなことができますよと見えてしまうわけです。

そこにどうしてもコンフリクトが生じる。患者も、何かこの広告を通じて、まがいものと言ったらよくないかもしれませんが、何か希望を持ってしまうし、糖尿患者でない人も、糖尿はそんなに簡単なのだと思い込んでしまう、そういうことのきっかけに、消費のための広告がなってしまっている、そのようにモルは論じています。

同じようなことは、本当に様々な例が考えられると思うのですけれども、例えば、私が最近ネットで見た例を一つ挙げますと、ベビーカーが一瞬で畳めるという広告があったのです。

その広告を見ると、広告というか、CMの動画なのですけれども、最初は赤ちゃんがベビーカーに乗っかっていると。ところが行く先に、段差が見えた瞬間に赤ちゃんがぱっとお母さんに抱っこされて、お母さんがボタンを1個ぴっと押すと、ベビーカーが畳まれて、それを軽々とお母さんが持ち上げて、その段差を越えていくという、そういうCMだったのです。

それが非常に炎上していまして、というのは、実際に赤ん坊を連れて外出したことのある人からすると、そんな簡単な話ではないよというのは、分かるわけですね。多くの場合、ベビーカーというのは、赤ん坊だけではなくて様々な保育に必要な道具というのが載っていて、それをさらに持って畳まなくてはいけないとなると、相当大変なことになる。

そのCMでは、一瞬で、その赤ん坊を抱っこするということになっているのですけれども、赤ん坊の機嫌がよければ、それは一瞬かもしれないけれども、実際にはそんな簡単にはいかないとか、非常に状況を単純化して描写してしまうということが、どうしても選択のロジックでは起こりやすい。

そのことが、病気または保育ということに対して間違った理解を人々に与えてしまって、それがひいては社会的な分断みたいなものにもつながったりする。そういったことを考えていく必要があるのではないかというのが、ケアのロジックから見たときの選択のロジックの抱えている問題点なのではないか、そのように先ほどの本では論じられています。

その二つのロジックについて、簡単に表にまとめてみました。ここに書いてあることは、先ほどのモルが本の中で主張していることをまとめたというものです。

ざっと見ていきますと、選択のロジックでは、健康で自律的な主体というのが前提とされているのに対して、ケアのロジックでは、人は相互依存的な存在なのだということが前提になっています。

選択のロジックでは、自律と平等がよいことであって、よくないのは抑圧であるとなっている。一方で、ケアのロジックでは、気配り、どんどん人に介入していくこと、それから具体的に解決していくことということがよいこととされている。よくないことは、むしろ放置することであると考えられているわけです。

選択のロジックにおいても、目的は、その製品を買うということである。それに対してケアのロジックの場合には、一生続いていく、よき生という結果をどのようにつくっていくかということが目的になっている。

さらに、選択のロジックの場合、その選択する、しない、買う、買わないということの決断は、非常にプライベートなものとして、ほかの人が介入し難いものとして想定されている。それに対して、ケアのロジックというのは、様々な人が関わりながら、有限の資源の中で最善の方法は何だろうかと、みんなで合意形成をしていく、そういう決断の仕方になっていきます。

焦点に当たっているものは、選択のロジックの場合には、買う選択をするという、その主体の意思が発動する瞬間ですね。それに対してケアのロジックの場合には、ずっと続く過程、プロセスというものに焦点が当たっている。

それから、社会というものの捉え方も選択のロジックの場合には、やはり個というものが先にあって、その総和として集団が想定されています。

それに対して、ケアのロジックの場合には、集団が先で、その集団の中に個が入っている、ちょうど逆向きの想定になっているかなと思います。

それから、生命観としても、選択のロジックの場合には、病気または障害、高齢というものは、例外状態として想定されている。それに対してケアのロジックというのは、そういう不完全な状態というものを最初から前提にした生命観というものが想定されている。

最後に、時間感覚が違うという話も先ほどしたとおりです。選択のロジックというのは、最初に中立な事実があって、つまり選択の材料があって、それに基づいて主体が選択をして、あとはそれを実行するという形になります。

ところがケアのロジックの場合には、例えば、何らかの新しいツールというのを導入したら、それに附随して、どういうケアが必要なのだという問いがまた発生するし、実際、そのツールを使ったら想定外のこと、または副作用なことも起こるだろうという前提に立っています。だから時間が、そんな直線的には流れなくて、曲がりくねっているのだと、そのように先ほどの本では整理されています。

この本は、非常にケアのロジックのほうに主眼があるので、選択のロジックのほうは、どちらかというと単純化された語り方がされているというのは事実だとは思うのですけれども、選択のロジックというものが持っている問題点があるとしたら、こういうことではないかということを、先ほどのモルの本も踏まえつつ、私なりに少し、これまでの利他に関する研究なども踏まえつつ、少し拡張した形で御紹介するのが、その次のスライドになります。

大きな問題点を二つ挙げてみました。

1点目は「自律の名を借りた規範追従:ポストヒューマン的状況」と書きました。

ここで規範というのは、先ほど皆さんが議論されていた意味での規範とは少し違っていて、社会的な空気みたいな、何となくこうするのがいいのだみたいな、そういう意味での規範です。

どういうことかというと、哲学的な分野では、近代的な主体というのが、相当厳しい、リアリティに合っていないということは、もうさんざん言われてきていることです。

そういう議論の中の一つの側面として、選択の能力というのを、本当に人間は十全に持ち得るのだろうかという議論があります。

というのは、その選択をする前と実際に選択をした後、例えば、自分が子供を持つのか、出産をするのかという選択をする前と、実際に子供を持った後というのは、全然人間としてのパースペクティブが変わってしまうわけです。

そうすると、選択した後どうなるのかということを選択する前に、完全に理解するということは、人間には不可能だろうと。

そう考えると、認識論的な意味において、客観的な選択というのはできないのではないか、そういう議論があったりします。

そうすると、結局人間というのは、何か世間的にいいとされているものを選択せざるを得ないのではないか、つまり選択のロジックが重視している自律性というのは、当然、非常に重要なのですけれども、本当に自律的に選択をしているかというと、そんなことはなくて、何となく空気に流されて選択しているのが実情なのではないか。

特にネット以降は、様々なお勧めとか、口コミとかがあったりするので、そういうものが実質的な判断材料になってしまっていて、さらにそういうものは簡単に操作することができますので、なかなか自律的な選択ということを言うのは、難しくなってきているのではないかと思います。

一方で、建前としては自律性ということが、現状でも言われていますので、何か自分の選択について責任を取らされてしまう、自己責任的な局面に陥りやすいということが、それに附随して起こる問題かなと思います。

それから、先ほども少し申し上げたのですけれども、選択に限らず、私たちの日々の行動というのが、SNSやAIの普及によって、どんどん侵食されている、よくも悪くも侵食されているということの中で、悪意を持って侵食する、具体的には、こういうものを選択するとよいのだという規範を、個人的に操作することが簡単になっているというのが現状かなと思います。

恐らく、自律的な主体というよりは、機械と人間の複合体みたいなものとして、人間を想定するほうが現状に合っているのではないかと、私自身は考えています。

自動運転車の問題とか、そういったこととか、著作権の問題とか、そういうことを考えても、どんどんそういう側面が増えているのではないかと思います。

そういう不完全な人間というものを想定した場合に、むしろ高齢者とか、知的障害者というのが、ある種、最も人間らしい存在になってくるかもしれない。

ところが、現状では、そういった人たちは例外的な存在として位置づけられているということが、問題として挙げ得るかなと思います。

一方で、当然自律性とか、平等とか、人間らしさというものも重要であることは間違いないので、いかに人間が不完全な状態であるということを大事にしつつ、何か人間らしさということ、つまり劣っているといった場合に、どうしてもその優劣の順序順位づけということが発生してしまうので、そうではないような社会というものをつくれるのかということも考えなければいけないと思っています。

点2目のここに書いた問題は、選択の私性、プライベート性ということと、公共的な価値が衝突するような場面というのが、やはりたくさん起こっているのではないかと思います。

つまり、選択の主体の自律性ということが強調され過ぎてしまうと、周りの介入というのができなくなって、その選択が公共的な利益を脅かしていたとしても、それに対して介入ができない。

具体的には、公衆衛生であったり、防災であったり、環境保護のような公共性の高い事案に関わるような消費活動というものをどのように考えていくのかということが論点になり得るかなと思います。

例えば、利他の問題として必ず出てくるのが、川の上流の人と下流の人が、どのように川という資源を共有で使うのかという問題があります。

これは、昔ながらの問題でありつつ現代の問題でもあって、現在、日本中の山が荒れていて管理されていないという問題があると思います。

上流の山がうまく管理されないとか、下流で洪水が起こったりするわけですけれども、でも山の管理というのは、上流の人に任されてしまっていて、下流の人の消費活動の中に、その上流の川や山をケアするということが組み込まれていないわけですね。上流の状況というのは無関係に下流の人が消費しているという状況が、やはり川全体の保全ということを考えた場合に、様々な問題を起こしているように思います。

その次のアンチコモンズの悲劇というのも、先ほどお話しした川の話に関連するのですけれども、一般にコモンズの悲劇というのは有名だと思うのですけれども、最近、アンチコモンズの悲劇ということも、よく話題になっているかなと思います。

これは、選択の私性という問題と密接に関係している知的所有権の問題とリンクすることかなと思うのですけれども、私的所有が非常に強固に、かつ細分化されているような状況、例えば、山の所有者がたくさんいて、短冊状に土地が分割されているというときに、その山全体をどうやって守っていくのかという介入ができなくなってしまう、その私的所有が強固過ぎるときに起こる悲劇をアンチコモンズの悲劇と言ったりするのですけれども、こういったことも選択の私性と公共性がぶつかる場面として、様々な問題の原因となっているのではないかと思っています。

最後、問題ばかり指摘するのもよくないかなと思って、具体的な事例を挙げてみました。

どういう事例かというと、個人的な選択に関わるように見える事例、具体的には、個人がその人が持っている賃貸住宅を建て替えるという場面を、自分1人の選択の問題にしないで、地域共同体を巻き込みながら、みんなでそのケア的な視点でやっていくという、そういうプロジェクトの事例を御紹介したいと思います。

この事例のタイトルが「三年鳴かず飛ばずプロジェクト」と言うのですけれども、東京の世田谷にある敷地です。駅からかなり離れていて、世田谷ですけれども、畑があったりするような、そういう場所です。

ここの土地の所有者さん、仮にAさんと呼びますけれども、このAさんが持っていた土地に計画道路が通ることになってしまって、その土地が分断されるということになりました。

この分断を契機に、そこに立っていた賃貸住宅、1棟ではないのですけれども、一戸建てのものと、アパートタイプのもの、あと畑をもう一回整理するという、そういう事業を行うことになりました。

これを行うに当たって、普通に選択のロジック的に考えれば、Aさんが自分のお金を使って、自分で様々な条件を整理して、どういう建替えをするのか、選択をするということになると思うのですけれども、Aさんはそうはししないで、建替えのプロジェクト自体を地域に開いて、みんなでやっていくように進めていきました。

具体的には、もともとこのAさんが持っていた土地が、非常に公共性が高かったということがあったようです。

従来から、例えば、新年のお餅つきとかを、その方のおうちの土地でやっていったりとか、そういったことがあったので、そういう発想になるのは自然だったと。

実際どういう建物を建てたらいいのかということを、様々な機会を捉えて地域の人と一緒にワークショップをするような形で考えていく、そういう会を継続的につくっていきました。

時には、たき火をしたりとか、そこでピザを焼いたりとか、そういう楽しめるような会にして地域の人に集まっていただいて、どのように設計していくのか。さらにそのように何回も会議を進めていく中で、賃貸住宅に入居する人も探していく、そういう仕組みをつくってきました。

現在、全ての棟が今建っていて、もう最終段階まで進んでいっているのですけれども、こういったことが可能になった一つの背景としては、世田谷区において「住みびらき」という伝統というか、戦後以降、非常に盛んに行われている伝統があって、そのノウハウが、行政の方も含めて、かなり蓄積されているということがあります。

「住みびらき」というのは何かというと、最近では、多くの場合、自分が高齢化したりとか、病気になったりとか問題を将来的に抱えていくことを想定して、自宅の1階を半分公共的な場所にするという考え方です。

例えば、一軒家の方の1階のリビングに、週に何回かは、そこに誰でも入れるようにして、そこを喫茶店のような形にする。そうすることで、その地域とのネットワークというのをつくっていって顔見知りになって、自分に何かあったときに、自然と助け合えるような状況というのをつくっていく。

これは、直接的に消費活動、選択の瞬間というのを想定したものではないのですけれども、当然高齢になっていくと選択が自分でできなくなるということも想定されるので、そういったことも含めて、自分が自律的な存在でなくなったときにどうするかということを先回りしてネットワークをつくっていく、そういうケア的な発想かなと思います。

世田谷区だけではなくて「住みびらき」の考え方というのは、少しずつ全国に広まりつつあって、住宅会社なども、そういうことを前提にした、いろいろな物件を開発したりとか、こういうケアと消費の中間のような、そういった事例というのも幾つか見えてきているのかなと思います。

というわけで、まとまりがないですけれども、私からの話はここまでにしたいと思います。どうもありがとうございました。

○沖野座長 伊藤先生、ありがとうございました。

それでは、伊藤先生の御発表内容を踏まえまして、質疑応答、意見交換をしていきたいと思います。

先ほどと同様、御発言のある方は挙手、また、オンラインの方はチャットでお知らせいただきたいと思います。どういう観点からでも結構ですが、二之宮委員、お願いします。

○二之宮委員 二之宮です。御説明ありがとうございました。

この専門調査会の中間整理でもケアのところは取り上げておりまして、このように一定程度整理をしました。消費者法制度のもとで、結果としての幸福を保護するための介入の可能性について検討する必要があるとしつつ、個人の自由、自律の尊重との関係で、慎重な判断を必要とする、民主的な選択により価値を決定することが重要だと一つ整理しております。

また、もう一点、ケアの倫理のアプローチからは、一方的にケアを強めると自主性の否定になり、自主性だけを重んじるとケアの足りない不十分な結果が生じることになるから、法益の重要性だとか、回復の不能性等に基づいて、自己決定の環境をコーディネートする法制度が必要になると整理しております。

前半部分はこういう形で整理して、後半部分では、もう少しこれを具体的にどう考えるかというところを、今、検討しておるところです。

本日の先生のお話をお聞きして、資料の5ページにあります、ケアのロジックに記載されている目的としての、よき生という結果というのは、中間整理における結果としての幸福を保護するということだと思います。

このよき生とか、悪として記載されている放置というのは、先ほどの中間整理と同じように相対的なものですので、個人の自由、自律の尊重との関係で慎重な判断が必要となる、民主的な選択による価値の決定が重要だというところに結びつくのだと思います。

今日の御説明をお聞きして、プロセス、行為というものが重要であるということが記載されておりまして、そこで一つ焦点と当てるときに、このプロセスの選択自体について、民主的な選択によることが重要になってくるのではないかと、中間整理を踏まえると、ここまでは私の中では一つ結びついたところなのですが、そうすると、例えば、消費者の脆弱性について、配慮義務というものを行為規範として一つ設けた場合に、契約する前の勧誘を受けているとき、あるいは契約行為そのものである契約締結行為、あるいは契約した後の離脱、やめたいとかという各段階において、関係者の主体と関与の要素や程度、例えば、事業者、行政、消費者団体、家族等の複数の主体がどういう関係性を持って、どのような関与をしたのかという必要なプロセス、その要素を制度としてある程度明確にしておく必要があるのではないかと思いました。

この専門調査会の中間整理でもケアのところは取り上げておりまして、このように一定程度整理をしました。消費者法制度のもとで、結果としての幸福を保護するための介入の可能性について検討する必要があるとしつつ、個人の自由、自律の尊重との関係で、慎重な判断を必要とする、民主的な選択により価値を決定することが重要だと一つ整理しております。

こうすることによって、法益の重要性や、回復不能性が強いという場合は、その結果だけで法が介入するとともに、プロセスの実践の内容だとか、程度と、結果としての法益侵害性によって、その法が介入する強弱をつけられるのではないかということを一つ考えました。

ここまでは感想なのですが、ここで一つ質問させていただきたいのは、この関係者の要素の中に、今の時代を考えると、今後、AIというものが入ってくるのか、入り得るのかと、ここをどう考えたらいいのか。先ほど言った事業者、行政、消費者団体、家族等というのは、ある意味、都市部では可能でしょうけれども、地方のほうへ行くと、この人材を確保することが難しくなってきています。、また、取引自体が、ネット社会、デジタル時代になってくると、そもそもそのようなネット上での取引の中ではAIといういう関係者というものを想定できるのか。

資料の6ページでは、SNSだとかAIだとかというのは、規範を主体的につくってしまうという意味では、むしろ、ケアのロジックからすると、否定的な要素になるのでしょうけれども、同じような相談して、模索していく主体としてAIというのは入り得るのかというところについて、先生の御意見を教えてください。

○伊藤教授 感想と質問、どうもありがとうございます。

法的な意味で回答することは、ちょっと難しいのですけれども、先ほどの6ページの①のところで書きました、ポストヒューマンと言った場合には、そこに当然AIとか、AIに限らず様々なロボットも含めた、何か人間がそれと一体になって、行動のエージェントとしてつくっていくような、そういう人間像というのが想定されているわけです。

そうなったときに、当然AIというものも入ってくるでしょうし、これは消費に限らず、全法律分野に関係するのではないかと思いますけれども、AIの支援を受けて人間が意思決定をしていくということを前提にした法律にするべきだろうと思っています。

○二之宮委員 ありがとうございました。

AIそのものをどう組み込むか、まず、そこの問題があると思いますし、今日のケアのロジック、選択のロジックを考えたときに、AIがばしっとした答えを出してしまうと、もうそれは全然違う話なのだろうとは思いますが、恐らく今日私の中で理解したのは、一緒に悩んで模索していくという過程そのものが納得の得られる自分の中の帰結というところに、どうやって一緒にたどり着くかというところだと思いますので、その対話の相手というものがいることが大前提としたうえで自分で考えるというのが選択のロジックでしょうから、高齢化がどんどん進んでいく、また地方での人材の有無を考えると、まず、そもそも誰と、というところが難しくなってくると思います。対話の相手がいることが重要ということを当然念頭には置きつつ、将来的にその在り方、AIもよりけりですから、一概には言えないのでしょうけれども、そこをどう考えたらいいのかなというのが、私の中の悩みでした。ただ、私も考えてみたいと思います。ありがとうございました。

○伊藤教授 ありがとうございます。

AI自体も本当に毎日のように進化しているので、その進化にどう対応していくのかという、また別の課題も、もう少しメタ的な課題もあるのかなと思うのですけれども、最近のAIなどは、AI自身が悩んでいるというか、どうしてそういう結論に至ったのか、それ自体を開示するような仕組みもできていたりするので、そうすると、より悩みの相手としての相性がよくなっていく、そういう方向性もあり得るのかなと。

さらにアプリの開発なども自然言語でどんどんできるようになっているので、そうすると、よりカスタマイズした何かツールというのは、つくりやすくなってくるでしょうし、AIそのものだけではなくて、AIがつくり出していくいろいろな可能性というのは、やはり相当大きいと思うので、そういう中でケアの担い手として、AIというのも当然入ってくるだろうなと思います。ありがとうございます。

○沖野座長 ありがとうございます。

では、室岡委員、お願いします。

○室岡委員 伊藤先生、今回は、大変貴重なお話をありがとうございました。

1点質問がございます。6ページのスライドで、平等や人間らしさをどう守っていくかという点がございますが、ここについて、もし具体的に何か御意見があれば、御教示いただければ幸いです。

というのも、本専門調査会でも、例えば軽度の認知症の方に関して、どのように消費者法制度を考えていくかという議論が過去にあり、極めて難しい問題であることを私自身痛感しましたが、ご報告いただいたケアという点につながるところもあるかと存じます。特に平等や人間らしさをどう守っていくかという点について、ぜひ御知見をお教えいただきましたら幸いです。

○伊藤教授 どうもありがとうございます。

私が事例として多く知っているのは、障害者のケアという場面になってくるので、少しそれを念頭に置いてコメントをさせていただきます。

まず、平等ということに関して言うと、例えば、私は専門ではないので、想像になりますけれども、こういう場合には法を適用する、こういう場合は法を適用しないという判断をする場面で、その人の自律性の度合い、能力の度合いみたいなものを判定することになっていくのかなと思います。

そうなったときに、やはり主体性の度合い、人間としての度合いみたいなものがはかられていくことになることが、やはりその障害者に対する差別であったり、人間として不完全みたいな見方を助長するのではないかということを危惧しています。

同時に、具体的なケアの場面を考えた場合、重度の身体障害がある方の、例えば身体介助みたいのを考えていくと、理念としては、どちらかというと選択のロジック的なものが立てられていて、つまり障害者本人に主体性があって、その障害者の考えというのを実際に実現していくのが介助者なのだという、そういう理念が、まず前提としてあります。

でも、実際には、どう頑張ってもケアのロジックになってしまうという形なのです。つまり、介助者の能力とか、そういったものによって、できる、できないというものが変わってくるし、そんなに障害当事者が考えていることを100パーセント実現するということを、逆に優先してしまうと、選択の分岐が無限に増えていくわけですね。例えば、入浴介助をするときにも、体のどこから洗いますかとか、そういったことを重視する方もいれば、重視しない方もいて、その選択の分岐がどこに発生するのかという問題があります。

そういったことを考えていくと、ある種の理想としての人間の自律性とか、自己決定というものを現実にその行為として落としていった場合に、それが不可能になってしまって、なし崩し的になっていく。それがケアの最終的な目的としてよく生きるという方向に向かっていればいいのですけれども、場合によっては、それは障害当事者の考え、本当は選択したいことというのを、周りの介助者が代弁してしまって、主体性が失われてくということも起こり得る状況だと思うのです。

そういったことを様々に考えていくと、法制度自体がある種、選択のロジックを理想として掲げつつ、そのケアのロジックにならざるを得ない場面というのが、どう救っていくのか、または二つのぶつかる場面というのを、どのように考えてくのかという問題なのかなと思います。

具体的にこうすればいいのではないかということは、法律としては、私から申し上げることはできないのですけれども、そういったある種の先行事例のようなことが、障害の介助の場面にはたくさんあるかなと思います。

すみません、お答えになったか分からないですけれども。

○室岡委員 貴重な御意見をありがとうございました。

○沖野座長 ありがとうございました。

そのほかの方から、いかがでしょうか。

加毛委員、お願いします。

○加毛委員 伊藤先生、本日は大変興味深い御報告をありがとうございました。御教示から多くを勉強させていただきました。

直前の室岡委員のお話にも関わるところがありますが、大別して二つのことをお尋ねしたいと思います。一つは、本日御紹介いただいた『ケアのロジック』という書籍の内容の確認と、それに対する伊藤先生の評価についてです。もう一つは、6ページでご説明いただいた伊藤先生御自身の分析内容についてです。

前者からですが、伊藤先生が『ケアのロジック』をどのように評価されているのかにつきまして、直前の室岡委員とのやり取りを通じて、その評価が必ずしも単純なものではないことがよく分かりました。私は『ケアのロジック』読んでおりませんが、御説明いただいたところから、「選択のロジック」と「ケアのロジック」という二項対立を提示することによって、ヨーロッパの社会の基盤をなしてきた「選択のロジック」の有する問題点を明らかにすることを目指した書籍であると理解しました。

そのことを前提として、問題となるのは、そのような『ケアのロジック』の主張を、日本人がどのように受け止めるべきかなのだと思います。

「ケアのロジック」の有用性を前提として、「選択のロジック」よりも「ケアのロジック」を重視すべきであると考えることは、やはり短絡的なのだろうと思います。『ケアのロジック』という書籍が登場した背後には、「選択のロジック」が確立したヨーロッパ社会において、そのアンチテーゼとして「ケアのロジック」を提示するという構造があるのではないかと思います。

これに対して、日本では、そもそもヨーロッパにおけるような意味での「選択のロジック」が確立しているといえるのかが問題となります。日本でも、個人の自律性が重要であるなどと言われますが、本当にそのような考え方が確立しているのかはよく分からないところがあります。仮にそのような疑問が妥当性を有するとすれば、テーゼが確立していないところで、アンチテーゼが適切に機能するかが問題となります。モダンに対するアンチテーゼとしてのポストモダンを語っているように見えて、実はプレモダンが滑り込んでしまうような危険性があるのではないかと思うわけです。伊藤先生の室岡委員に対するお答えの中にも、そのような危険性に対する問題意識が示されていたような気がいたしました。そこで、『ケアのロジック』が提示する二項対立に関する先生のお考えを伺いたいと思った次第です。

もう少し具体的な事項について申し上げますと、5ページの表の最初の項目である「主体」について、「健康で自律的な主体」と「相互依存的な主体」という二項対立が示されていますが、ここでいう「相互依存的な主体」が何を意味するのか、いかなる意味で「相互依存的」であるのかが気になります。一つの理解としては、対等な個人の存在を前提として、個人が互いに影響を与え合い、他人と一定の関係性を築いている主体を想定することが考えられます。これに対して、「相互依存」を従属関係として理解すると、親分・子分の関係、保護者・被保護者の関係などが「相互依存的な主体」に含まれるように思われます。この点は、「選択のロジック」のアンチテーゼとしての「ケアのロジック」が持つ意味にも関わるように思いますので、伊藤先生のお考えをお聞かせいただければ幸いです。

次に、6ページに示された伊藤先生の分析に関する質問ですが、二つのことをお尋ねしようと考えていたのですが、一つ目は、「平等や人間らしさ」が何を意味するのかということであり、室岡委員が御質問されたところです。「平等」というのは、自律した個人を平等に扱うという意味で「選択のロジック」との結びつきが比較的明確であると思うのですけれども、「人間らしさ」については、一見すると、「ケアのロジック」を想起させるように思われます。しかし、ここでは「平等」と「人間らしさ」が並記されており、「選択のロジック」における個人の自律に「人間らしさ」の根拠を求めるという発想が現れているものと理解しました。そのような理解が適切であるかについて、第1の質問の関係でも、お考えを伺いたいと考えていました。もっとも、この点については、既に室岡委員とのやり取りから明らかであるとも思いますので、コメントとして申し上げるにとどめたいと思います。

それに対して、ご質問を差し上げたいのが、6ページの②で挙げられている公共的な利益と「ケアのロジック」の関係についてです。公共的利益の尊重は、先生の従前の御研究対象である利他ともかかわるように思われるのですが、それと「ケアのロジック」がどのように結びつくのかについて、もう少し御説明いただけないだろうかと思います。公共性、利他、「ケアのロジック」は、必ずしも一直線には結びつかないように思われ、その点に関する先生のお考えを伺えればと思いました。

長くなりまして申し訳ありません。よろしくお願いいたします。

○伊藤教授 どうもありがとうございます。

1点目のモルの議論が前提にしているヨーロッパ的なモダン、近代的な主体を超える視点としてのケアのロジックというのが、本当に日本でも同じように成立するのかということですけれども、モルの議論は、やはり比較的強固な二項対立を打ち出す戦略を取っていると思います。

ところが、私自身は、選択のロジックも大事だと思っていて、もしかしたら、それは理念として大事だということなのかもしれないです。現実とは合っていないかもしれないけれども、それを掲げることの意味というのはあるのではないかと思っています。

それは、ある種、やはり能力というものを真面目に問い始めないほうがいいのではないかということで、真面目に能力を問うと、やはり、具体的な個人差ということが問題になってくるけれども、そのようにしてしまうと、やはり、すごく差別的な状況が生まれてしまう。だからこそ、みんな選択をする能力がありますという、ある種の理念を想定したほうが、平等であったり、虚構かもしれないけれども、人間らしさとは、こういうものだねというものの重しみたいのがあって、それが結果的に、そういう近代的な主体からは外れているような状況すらも支えるのではないかとは思っていて、それは、少し歯切れの悪い説明で申し訳ないのですけれども、そういった意味で、選択のロジック的な視点というのも重要だし、理念としての働きをするのではないかと思っています。

2点目の公共的な利益ということに関してですけれども、1点目の御質問をいただいたときに、相互依存的な主体とはどういうものかという観点からの御指摘があったと思います。それと恐らく関係しているのですけれども、ケアの議論の中で相互依存的な主体といった場合には、よく出てくる比喩がハンカチの比喩で、ハンカチの一部分をつまむと全部ついてくるみたいなことで、エンタングルメントという表現がよく出てくるのですけれども、切り離せないということがあるわけですね。

例えば、私自身が、最近関心を持って調査をしているのが、グローバルケアチェーンという問題で、例えば日本のケアに関わる労働者が足りないとなったときに、それが東南アジアから出稼ぎ、移民労働者として、それを補うケアワーカーが来る。そうすると、出身国でのケア労働者が足りなくなるので、また、農村からそれを補完するために人が来るみたいに、全部つながってしまっているわけです。

本当にケアを真面目に考えていくと、そのハンカチがどこまでも広くなってしまって、1か所を動かすと全部に影響が出ていく。そういう面倒くささみたいな意味で、相互依存的ということが、ケアの議論の中では言われるかなと思います。

だから、最初に個があってつながっているというよりは、もつれ合ってしまっている。もちろん、そこには、権力の勾配みたいなものも当然あるでしょうし、従属的な関係もあるけれども、それを解消すれば、問題がクリアになるかというと、そうでもないという非常に厄介な状況というのを前提にした相互依存的な関係かなと思います。

そう考えていくと、やはり全てのものをケアするということは、人間の能力として不可能になってくるので、ある程度そのハンカチのサイズを限定して人は生きているのだと思うのです。

その限定をどこまでにするのか、どこまでは逆にケアの責任を負うべきなのかという問題なのかなと思うのですけれども、現状、それが非常に小さいのではないかというのが私自身の問題意識で、だから利他ということを考えていくことによって、もう少しハンカチを大きめにして、例えば自分が下流で生活をしているときに、上流のことも考えるような仕組みというのをつくれないだろうかとか、そういうことを念頭に置いています。

その意味で、公共的な利益という言い方をしていて、それは厳密な公共性という言葉の意味とは、少しずれているかもしれないのですけれども、ある種ここまでですと限定している枠の外に、実は、自分とは全然違う人が抱えている問題を解決するために、何か自分ができることがあるかもしれない、そういう視点を持つという意味で、ここでは公共的な利益という言葉を使いました。

○加毛委員 ありがとうございました。

後者の点について、「ケアのロジック」と公共性の結びつき方についてのご説明は、私が予想していなかったものであり、大変勉強になりました。ありがとうございました。

○沖野座長 ありがとうございました。

そのほかには、いかがでしょうか。

小塚委員、お願いします。

○小塚委員 小塚です。

12時を回っているのですが、クイックにお聞きしたいと思います。

御指摘のようなケアのロジックというものを、それがどういうものかという問題もありますが、消費者法の場面に持ってくると、やはり企業、事業者というものをどう生活者あるいは消費者の生きる世界に巻き込んでいくかという話が出てくるのではないかと思います。

そういうことを考えたときに、やはり、今、非常に大きな問題というのが、デジタルプラットフォーム経済の中で、実際にそういうサービスを提供するのは、ほとんどがアメリカとか中国の事業者なのですね、もちろん日本のプラットフォーム事業者もいますけれども、そうであると。

加毛委員がおっしゃったことは、私はよく分かっているつもりなのですが、反面でマクロに見ると、ヨーロッパ社会と日本社会とは、ある程度似ているところもあると私は思っていて、それは非常に強固な建前としての選択ロジックの裏に、やはりヨーロッパという社会は、きちんとケアのロジックというものが確立していて、それが実態だけではなくて既に社会規範としても、かなり確立している。

だからこそ、EUとか、ヨーロッパ評議会とか、そういう制度化されたものだけではないかもしれませんが、ある種リベラルな考え方というものが制度化されているし、そういうものを、例えば国連に持ってきて、国連のグローバルコンパクトとか、SDGsとか、そういうことにも結びついていると思うのです。

ところが、アメリカとか中国というのは、やはりそういうところに巻き込むのは、一番手強い相手であると、しかもその中でもプラットフォーム企業というのは、やはりグローバルなマーケットを相手にしているというところがポイントで、一つの国だけというビジネスではない。

こういう企業に対して、このケアのロジックを及ぼしていくという、そのための戦略、どうやって巻き込んでいけると、先生は考えておられるか、その辺りをお聞きしたいと思いますが、いかがでしょう。

○伊藤教授 どうもありがとうございます。

具体的なアイデアは全然持ち合わせていなくて、答えられるほど、グローバルのプラットフォーマーのことを理解していないのですけれども、考えて後ほどお答えするという形でもよろしいでしょうか。ありがとうございます。

○小塚委員 ありがとうございます。

海外の議論など、もしあれば、ぜひ御教示ください。

○沖野座長 御無理のない範囲で補足をしていただけると、大変ありがたいとは思います。

○伊藤教授 AIに関しては、ニューヨーク大学が、AI Nowという組織かな、プロジェクトかなというのをやっていて、かなりAIの開発に関して、こういう論点に注目するべきだと、その中に製造責任とかも入ってきているので、私は、AIに関しては、その議論もよく参照しています。

なぜかというと、AI Nowに関わっている人は、巨大なデジタルプラットフォーマーとか、AIを開発しているような企業を辞めた人が、そこに行って、現場を見ている人が言っているのですね。ですので、ある種反面教師的な学びというのは、そこは非常にあるので、そこはよく参考にしています。改めてそこ見て、何かお返事できるようにします。

○沖野座長 ありがとうございます。よろしくお願いいたします。

そのほかの方からは、いかがでしょうか。

よろしいでしょうか。

飯田先生も、よろしいでしょうか。

○飯田教授 どうもありがとうございました。

私からはコメントだけなのですけれども、伊藤先生、御著書『「利他」とは何か』とか、そのほかの記事を読ませていただいたことがありまして、面白い研究をされている先生だと思っておりました。本日は、伊藤先生のお話を伺うことができて本当によかったです。

コメントだけなのですが、途中、時間の流れ方の話があったかと思います。これは、多分行動経済学とも関係すると思うのですけれども、時間の流れ方が人によって違うという点、これは震災の被害に遭われた方を対象とした調査をしたことがあるのですが、そのときにも非常に強く感じたところでした。法というのが、これに対してどう向き合うのかということですね、これは重要な問題だなと思いました。

あと、先ほどの二之宮委員との御質問とも関連するのかなと思いますが、ネットワークとか地域とかを持たない個人に対して、どのように法が今後向き合っていくのかと、これも大事な論点なのかなと思いました。

すみません、私からはコメントのみということです。よろしくお願いします。

○沖野座長 大変ありがとうございました。

伊藤先生から、さらに何かございますか。

○伊藤教授 大丈夫です。どうもありがとうございました。

行動経済学との関連は全く考えていなかったので、少し勉強したいと思います。

○沖野座長 ありがとうございました。

予定の時間を超過しておりますこともあり、それでは、この辺りで今回の議論を切り上げさせていただきたいと思います。

伊藤先生におかれましては、大変貴重な示唆に富む御報告、御知見を教えていただきまして本当にありがとうございました。

また、委員の皆様、また、飯田先生におかれましても、活発な御議論をありがとうございました。

それでは、事務局のほうから最後に事務連絡をお願いいたします。


《3.閉会》

○事務局 本日は長時間にわたり、ありがとうございました。

次回の会合につきましては、確定次第、御連絡させていただきます。

○沖野座長 それでは、本日は、これにて閉会とさせていただきます。

お忙しいところお集まりくださいまして、ありがとうございました。

(以上)