第10回 消費者法分野におけるルール形成の在り方等検討ワーキング・グループ 議事録

日時

2018年10月3日(水)10:00~11:20

場所

消費者委員会会議室

出席者

【委員】
鹿野座長、高委員長、樋口委員
【説明者】
京都大学大学院法学研究科准教授 西内康人氏
【事務局】
二之宮事務局長、福島審議官、坂田参事官

議事次第

  1. 開会
  2. 有識者ヒアリング
    京都大学大学院法学研究科准教授 西内康人 氏
  3. 閉会

配布資料 (資料は全てPDF形式となります。)

≪1.開会≫

○坂田参事官 本日は、皆様、お忙しいところをお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。

ただいまから「消費者法分野におけるルール形成の在り方等検討ワーキング・グループ」第10回会合を開催いたします。

本日は所用により、池本座長代理、山本委員が御欠席との御連絡をいただいております。

議事に入ります前に、配付資料の確認をさせていただきます。

議事次第に配付資料を記載しておりますが、本日は資料1のみとなっております。

不足の資料がございましたら、事務局へお申し付けいただきますよう、よろしくお願いいたします。

それでは、鹿野座長に以後の議事進行をお願いいたします。


≪2.有識者ヒアリング≫

○鹿野座長 それでは、本日の議題に入らせていただきます。

本日は、消費者法分野におけるルール形成の在り方の重要な論点のうち、「行動経済学の視点を踏まえたルール形成」に関する検討を行いたいと思います。

検討に当たり、御意見を伺うため、参考人として、京都大学大学院法学研究科准教授の西内康人様にお越しいただいております。

西内准教授の御専門分野は、民事法であります。特に、心理学を経済学へ取り込んだ行動経済学の視点から、広くはいわゆる「法と経済学」の視点から御研究を進めておられるところです。

また、西内准教授は、消費者庁の「若者の消費者被害の心理的要因からの分析に係る検討会」の委員もお務めになっており、本分野に造詣の深い方でいらっしゃると認識しております。

行動経済学の視点を踏まえたルール形成の検討については、前回の第9回会合においても委員から御指摘をいただいており、当ワーキング・グループとしても関心の高いテーマとなっております。前回だけではなくて、そもそもこのワーキングの第1回会合の際に、山本敬三教授から御報告をいただきましたが、そこにおいても、今後に向けて一つ行動経済学の視点を踏まえた検討の必要性ということも指摘され、具体的に西内准教授のお名前も挙げられたところであります。

そこで、消費者被害の防止及び救済のためのルール作りにおいて、被害実態を分析し、救済が必要となる理由やその類型についての枠組みを検討するに当たって、行動経済学の視点がどういう形で活用できるのかということについて、本日、改めて西内准教授から貴重なお話をいただけると思っております。

それでは、20から30分程度でまずお話をいただきますようお願いいたします。

○京都大学大学院法学研究科西内准教授 御紹介いただきました京都大学大学院法学研究科の西内と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします。

それでは、報告に移らせていただきます。報告資料としてお配りいただいている資料1を御覧ください。4ページつづりになっておりまして、内容としては「1.はじめに」「2.法学と行動経済学との伝統的関わり」「3.民法における伝統的類型」、2ページ目に移りまして「4.消費者契約法による拡張」、次のページですが「5.消費者契約法4条の拡張」という現在的な状況に関しての分析。最後のページで「6.今後の課題」ということで、救済拡大に向けた課題を行動経済学との関係でどのように分析するかということについて若干のまとめを行っているという話になっております。

それでは、中身に入らせていただきます。まず「1.はじめに」です。行動経済学が法学上の制度設計や概念の明確化に関係し得るのか。また、関係し得るとして、どのような形でそれが生じるかを分析することは、エビデンスベーストでの政策形成にとって必要なことだと考えられます。

そこで、本報告の検討の主題は、相手方の関与する意思表示の瑕疵という、消費者契約法4条で中心的に扱われているような瑕疵というものと、行動経済学との関連性を分析することにいたします。

その際、以下のような限定を行うことにいたします。

考察の限定という中黒がついているところですが、まず、相手方が関与しないという意味では、錯誤型の意思表示の瑕疵は除くことにいたします。

また、議論を拡散させることを防ぐために、法律上規定されていない学理レベルのものとして議論されているものは除くことにいたします。例えば、民事学説上は沈黙による詐欺なども有力に議論されてはおりますが、法律上、明文規定としてそれが入っているわけではございませんので、そういったものについての分析は一応、除くことにいたします。

さらに、意思表示の瑕疵と関係するものと考えられているか定まっていないと考えられるものとして、いわゆる過量販売とされるものを除いて分析を行うことといたします。

これらの結果、本報告での考察の対象は、相手方が情報につき関与して利害得失を誤認させるような詐欺型とも呼び得るような類型及び相手方が利害得失自体に関与するという強迫型の類型を分析することといたします。

ここまでは考察の限定というところです。

次に、前提というところに移らせていただきます。3と4で用いる概念の説明です。

本報告では、2つの概念を用いることにいたします。まず第1に(ア)として記載されている情報費用とでも呼ぶべきものでして、情報の取得や処理にかかる費用に関する格差を問題とすることにいたします。

もう一つ、第2点に(イ)として、情報バイアスとでも呼ぶべきもので、情報の取得や処理にかかる心理的なバイアスにおける格差というものを問題とすることといたします。

行動経済学というものが、伝統的な経済学との違いとして示されている点は、特に(イ)の点でして、ただし、行動経済学も経済学の一種ですので、伝統的な経済学でも問題としてきた(ア)の点も問題とするという形で考察を進めていくことにいたします。

その次に「2.法学と行動経済学との伝統的関わり」ということで、法学と心理学の伝統的な関わりを概観することにしたいと思います。

ここでは、本論に入る前に、このような問題を分析する視点として、法学における行動経済学の関わりの状況について述べることにいたします。この関わりとしては、一方では人間の意思決定が心理学的に見て状況や環境の影響を受けるという古典的な研究は存在してきたところです。この点は、大学の学部レベルであれば、例えば刑法における自由意思の決定論や非決定論という形で、人間に自由意思というものは果たして存在するのだろうかということが19世紀、20世紀の初め辺りに既に論じられていたところではあります。

しかしながら、刑法もそうですし、民法ではなおさらということはありますが、法学では自由意思の存在というものを措定して議論しております。

ここで、自由意思の存在が措定されているという理由は、大きく分けて3つあるように思われます。

まず、第1に(a)ということで、自己決定による自己責任原則というものが存在しているように思われます。自由意思の存在を措定しない限り、自分で責任を持って行動する近代の行動原則というものが成り立たないわけでして、そのような人格の尊重に照らして、自由意思が始めから措定されないような世界を想定することは大抵不可能であろうと思われます。

次に、第2の(b)ということで、経済取引への影響を考えたのだろうということが考えられます。つまり、契約自由が効率性にとって持つ意味が重視された結果として、多少の心理的な状況の影響を受けたとしても、それが経済的に見て許され得る取引であるならば、こういった自由意思を措定して、取引の安全を守る。このような考え方が存在しているように思われます。

最後に、第3の(c)として、専門家の進展ということも心理学や行動経済学を法学の中に侵入させることに対しては消極的な考え方として述べることができようかと思います。つまり、裁判官を中心として法というものは運用されていくわけですが、裁判官は心理学や経済学の専門家ではございませんので、これらにとっての理解可能性が重要でして、法学の概念に心理学や経済学の概念が言わば翻訳されるような形で、裁判官にとっても理解されるような概念として規定されない限りは、法学の中で直接に心理学や経済学の概念を使っていくことは難しいように思われます。

そして、これら(a)(b)(c)に照らして、意思表示の瑕疵を認める落としどころとして、一般人を基準とした社会通念上の不当性判断を法学では行っているように思われます。これを次の3で見ていくことにいたします。

以上を前提として、民法における詐欺の意味を次に分析することにいたします。

1ページ目の下から2ページ目の上の辺りになります。これを前提として、詐欺の意味を分析しますと、すなわち、基本的には「1.はじめに」で見た(ア)の情報費用の点に注目して、相手方、一方当事者の利害得失を誤認させるために他方当事者が無駄な費用をかけて偽の情報提供をすることを問題としたものであると考えられると思われます。

そのような無駄な費用をかけて偽の情報提供をすることは社会的にも無駄ですので、(b)の観点、経済的にも無駄な取引であろうという観点を満たしますし、まして(a)の自己決定の観点からしても、取消しの対象となることについて何ら不都合はないだろうと考えられると思われます。

このように考えられるわけですが、ただし、(イ)の情報バイアスの観点も少し混じっているように思われます。すなわち、相手方が述べたことを素直に信頼してしまうという部分です。経済学の伝統的な議論では、相手方が述べたことを基本的には疑ってかかるという人間のモデルが想定されています。しかしながら、我々の社会では、そのような人間は通常はそんなにはいないわけでして、相手方が述べたことをそのまま信用してしまうこともしばしば存在しているところです。この点は、伝統的な経済学のモデルとは違うわけですが、そういった人間をも取り込むような形で伝統的な詐欺は認められておりますので、その意味では、伝統的な経済学よりは行動経済学に近いような形で伝統的な詐欺も認められていると見ることができます。

しかしながら、この信頼保護というものを安易に認め過ぎることによって、2で上述したような(a)や(b)の原則、自己決定や経済的な効率性の原則を崩すことは認められるべきではないように思われます。

そこで、このような弊害を防ぎつつ、(c)専門家の進展による裁判官への理解可能性という問題を解決するために、一般人や社会通念を基準とした、レジュメに記載のような様々な縛りをかけているというのが法学の現状であろうと思われます。

次に、民法における脅迫の意義を分析することにいたします。2ページ目の真ん中の辺りになります。この点では、(ア)や(イ)における情報処理、情報費用の観点や情報バイアスの観点での情報処理というものは正確に行えることを前提とした上で、この点では詐欺とは異なるわけですが、このようなことを前提とした上で、脅迫者側の無駄な費用投下により被脅迫者、脅迫される側の利害得失を変化させるのが脅迫型の特徴であろうと考えられます。

例えば、被脅迫者にとって40の価値しかないものを、50で買わせるために、買わないと20の害悪を与えるという、数字で表すとこのような形になるわけですが、こういう害悪を与えるという形で脅迫するような場面がこれに当たります。

そして、20の害悪を与えるという強迫にも、脅迫者側の一定の費用が費やされておりますので、この費用の無駄さが先に見た(b)経済的な効率性の観点に反していると考えられるところです。

また、脅迫という問題は、自己決定の観点にも反しますので、(a)の観点からしても取り消し得るべきものだろうと考えられることになります。

ただ、この場合も、脅迫を安易に認め過ぎることによって、(a)や(b)の原則を掘り崩す可能性も考えられます。

そこで、詐欺と同様に、一般人や社会通念を基準としたようなレジュメ記載のような縛りをかけている。このように考えられると思われます。

以上をまとめると、一方の種々の概念を通じた縛りをかけており、特に社会通念や一般人による縛りをかけているということが伝統的な詐欺や強迫を考える上では重要であるように思われます。

これは、2で上述したような(a)から(c)の原則、自己決定と経済的な効率性と裁判官にとっての理解可能性。このような問題に照らして、法学関係者でも合理的な歯止めをかけつつ、自己決定や効率性に関しての害を防ぐ。そのようなものをするための道具概念を用いていると考えることができます。

そして、他方で、このように見た場合には、特に経済学の観点から詐欺や強迫を分析する場合ですが、(a)の自己決定という法学で一般に重視される概念だけではなく、(b)と関係する費用投下の無駄さという効率性にとっての無駄さというものが規制根拠になっており、それによって、規制というものを合理的に範囲決定しているという観点が重要であると思われます。

ここまでが3でして、次に4に移らせていただきます。「4.消費者契約法による拡張」です。とりわけ、ここで見ていくのは消費者契約法4条とこうした民法の概念との関係です。平成30年の改正前を主眼に置いておりますが、消費者契約法4条の規律は民法上の詐欺、脅迫の規律を拡大したものだと基本的には評価されております。例えば、4条1項や4条2項の詐欺の拡張類型に関しては、3で見た(ア)の情報費用や(イ)の情報バイアスのうちでも信頼にかかるバイアスに注目したものであり、かつ民法よりも消費者側に有利にそれらの問題を解決したものであると評価されていると思われます。

また、4条3項の脅迫に関しても同様で、脅迫というものを3で見た場合よりもやや認めやすくしている。このような理解が一般的であろうと考えられます。

その意味では、民法上の詐欺や強迫というものよりも、(イ)の情報バイアスの観点を大幅に拡張しているわけでもなく、それら民法上の詐欺や強迫の類型のうち、問題となりやすかったものについて、それらを認定しなくても規制できるようにしている。そのようなものが消費者契約法の伝統的な4条1項から3項の類型であろうと考えることができます。

ただし、2ページ目の一番下になりますが、消費者契約法4条と行動経済学は何ら関わらないというわけではございません。とりわけ消費者契約法4条1項と2項を眺めた場合、(イ)の情報バイアスの取込みは、消費者側の信頼、簡単に相手方を信頼してしまうようなことに限定されているわけではないように思われます。

次の2つが重要な場面として挙げられようかと思います。3ページ目ですが、第一に、第二にと書かれているところです。

第一に、断定的判断の提供で、プロスペクト理論のうちでも確率加重関数と楽観主義が関わっていると考えることができるかと思います。確率加重関数というものがどういうものかということなのですが、100%と99%の差、あるいはゼロパーセントと1%の差、つまり不確実である状態と確実である状態との変化の1%の差は、不確実な状態の間で50%から49%に変化する場合とか、50%から51%に変化する場合よりもはるかに大きく評価されてしまうという問題です。

つまり、確実である場合について、伝統的な経済学よりも、非常に大きな価値を置いてしまう。絶対にもうかるという絶対という部分に非常に大きな価値を置いてしまうというバイアスです。

もう一つ、楽観主義というものですが、楽観主義は100%確実なことなどあるわけがない。投資案件などは特にそうですけれども、100%確実にもうかると言われても、そういうものは通常、存在しないわけですが、自分に有利に、自分だからこそそういった有利な投資案件を引き当てたのだと楽観的に考えてしまうというバイアスが関係しているように思われます。

第二に、不利益事実の不告知(4条2項)でも情報バイアスというものが関わっている可能性があるように思われます。というのは、問題としているのは、利益の告知が行われた場合の不利益の不告知であるのですが、これはプロスペクト理論の上でも損失回避傾向というものと考えられるからです。

損失回避傾向とは、利益と損失を比較した場合に、損失と利益とが数値的には同じであったとしても、損失のほうを過大評価してしまう傾向のことを指しております。

以上が、情報バイアスが関わっているのではないかというものとして、しかも消費者契約法によって民法では余り注目されていなかったバイアスに焦点が当てられているのではないかという場面になります。

その上で、ではこのような行動経済学との関わりにより社会通念や一般人という概念による縛りが克服されたのかということが次に問題となろうかと思います。

しかし、規制類型は、行動経済学による分析ではなく、一般人であるところの消費者の被害が多かった類型を抜き出して、それを立法事実として規制しただけだと見受けられます。また、誤解の通常性は一部維持されているという意味では、法学は依然として行動経済学と連携するものだというよりは、一般人の感覚になお訴えているものだと言えるかと思われます。

また、こうした保護が(a)の自己決定の侵害のみと関係しているかも問題となるところです。しかしながら、(b)として述べた経済的な効率性の観点とも整合するように思われます。

例えば、4条3項の困惑惹起行為のために、事業者の費用投下が行われているわけですが、換金行為などを行うということですが、そういうことを行う場合の事業者の費用は極めて無駄なものであろうと考えられることができます。

また、4条1項1号類型の誤認惹起や2号の断定的判断の提供も同様に、バイアスにつけ込むための費用投下と見ることができまして、これも社会的に見ると無駄だと考えられます。

さらに、4条2項の消極的誤認惹起と言われる類型では、事業者側に積極的に情報提供させるという情報を、事業者側が契約上、当然に情報収集するものだと見ることで、情報収集にかかる事業者側のインセンティブへの悪影響を最小化していると見ることができようかと思われます。

以上が4でして、次に3ページの真ん中辺りの5に入らせていただきます。平成30年に行われた消費者契約法の改正状況について次に見ていくことにいたします。

まず、内容を概観すると、消費者契約法の拡張として、一例としてですが、レジュメの①や②のような行動を対象とする条項が設けられることになっております。以上は、消費者委員会の消費者契約法専門委員会の調査報告書などで記載されている内容を抜き出しただけですが、これに基づくというか、これを基礎としたような条項が設けられるという形になっております。

ここで私が行うべきなのは、こうした内容の行動経済学的な意味の分析となります。まず、これらは基本的に、4条3項の脅迫型に新たな類型を加えるものだろうと考えることができます。つまり、1で見たような(ア)や(イ)、情報費用や情報バイアスを問題としているものだというよりは、無駄な費用投下によって相手方の利害得失を変化させるという類型が想定されているように思われます。例えば、①の類型では、脅迫に係る害悪の告知を拡張したものと見ることが可能です。また、内容の②も、どうせ関係が無駄になることを認識して、事業者側が関係形成のために費用投下しているという類型です。

また脅迫の例に戻りますが、消費者が40の価値しか見出していない商品を50で買わせるために、消費者にとって20の価値を持つという事業者の関係を意図的に生み出す。このようなものが基本的に想定されているように思われます。

そして、20の価値を持つという関係は、そのまま存続すれば、経済的に見ても価値がある関係だと言えるかと思われますが、商品購入後には事業者側から終了させられることが典型的には想定されているような関係でございますので、消費者側には差し引き10の損失だけが残る。40の価値しかないものを50で買わされたという状況だけが残ることになります。

そして、この関係形成のために費やされた事業者の費用も社会的に見れば損失ですので、10プラスアルファという損失が社会的には残ることになりそうに思われます。

このように見た場合、基本的には脅迫型というものを拡張しているのだろうと考えることができようかと思われます。

ただ、これに尽きるわけではありませんで、(イ)の観点からの行動経済学的な影響を見てとることもできようかと思います。

例えば①の類型ですが、後悔回避傾向やプロスペクト理論の損失回避傾向を利用している可能性があるように思われます。後悔回避傾向というものは、後になって後悔を避けるために、様々な判断にゆがみが出るということでして、これまで述べていないことですが、これもプロスペクト理論の説明の道具の一つだと考えられておりまして、プロスペクト理論と密接に関係するようなバイアスの一つです。

また、②の類型は、ある種の楽観主義を利用しているという可能性も見てとることができます。例えば、商品の購入により維持される関係の危うさという容易に思いつきそうな部分から目を背けているように思われます。デート商法などが特に典型的ですが、これを購入してくれないと関係が破綻すると言われても、通常であればそのような関係は非常にもろいものであると想定しそうなものではあるのですけれども、そういった不利益な事実、不利益な可能性から目をそらして、自分に有利な関係性の解釈を行っているという意味では、ある種の楽観主義を利用しているように思われます。

さらに、ここの②でも、後悔回避傾向が利用されている可能性があります。

このように見ると、行動経済学を一層取り入れていると見るという評価も可能ではあるわけですが、行動経済学との繋がりによって、社会通念や一般人という概念による縛りを克服されたのかということはなお問題とすることが可能です。

しかしながら、ここでも行動経済学による分析ではなく、一般人である消費者の被害が多かった類型を抜き出しただけではないかという可能性が指摘できるところであって、より行動経済学の観点から被害救済のための類型を拡張したという形で、緊密な連携を図っていると評価することはなかなか難しいのではないかと考えられるところです。

また、こうした保護が(a)で見た自己決定の侵害のみと関係しているかも問題となるところですが、ここでも(b)の経済的な効率性とも整合するように、投下費用の無駄さであったり、社会経済に与える影響をなお重視する観点があらわれているように思われます。

つまり、4条3項の脅迫拡張類型を更に拡張するためであって、上述したように、積極的に事業者側が行動すること。それについて、費用投下を行い、その費用投下が無駄になること。このようなことを要求するものとなっているように思われます。

以上がざっくりとした形ですが、行動経済学と民法や消費者契約法とのつながりを分析したという形になります。

その上で、「6.今後の課題」に移らせていただきます。最後に、以上の分析を前提に、救済拡大に向けた課題をまとめることにいたします。

まず、救済拡大に向けた課題として、これまでの分析からすれば、一般人や社会通念という概念による縛りを克服して、上記(a)から(c)までの懸念、つまり自己決定や経済的な効率性の観点あるいは裁判官にとっての理解可能性という観点というものの懸念を払拭できるような限界概念を提出できるかどうかが重要であるように思われます。

現状は、行動経済学が行っている指摘としては、脆弱性がある消費者が社会に一定程度存在するという指摘にとどまっており、それをどこまで救済するのかということについては、行動経済学でもそうですし、法学の観点からも、なかなかコンセンサスを見出すことは難しいように思われます。

例えば、民法改正で暴利行為の規定化が一方では目指されたという経緯があるわけですが、他方でこれを断念せざるを得なかったという事情がございます。こういった問題は、(a)から(c)までの疑念を払拭できるような限界概念、つまり暴利行為に当たるのは一体どのような場合であるのかということについて、伝統的な判例が示したような窮迫に対するつけ込みなどの一定程度の概念を超えるような、より精緻化された概念が提出できていなかったことと無関係ではないように思われます。

そうした疑念を払拭して、限界概念を形成する鍵となるのはバイアスへのつけ込みと、その費用投下の無駄さという点に求められるように思われます。これまで見てきた詐欺型、脅迫型というものは全て基本的にはバイアスにつけ込むということに注目して類型を拡張しつつ、なおかつ事業者側の無駄な費用投下を問題としている点で共通していると見ることができます。

そのような概念というものを提出できるようにするために、行動経済学と法学が密接に連携をとって、概念を提出していく。このような作業が今後、必要になってくると考えることができようかと思われます。

報告は以上となります。

御清聴ありがとうございました。

○鹿野座長 ありがとうございました。

ただいまの御説明を踏まえて、御質問、御意見をいただきたいのですが、私自身、出発点のところで教えていただきたいことがあるのですけれども、よろしいでしょうか。

一つのキーワードとして、費用投下が無駄であると。無駄な費用をかけたというワードが出てくるわけですが、この費用投下が無駄かどうかはどのような基準によって決まるのでしょうか。無駄な費用投下だったらこれが法的にも否定されるという方向につながるようにも思えたのですが、逆に、あるルールを作ると、それは無駄だと評価されていると言えるようにも思われるわけです。今日は消費者契約法4条に則してお話をいただいたのですけれども、現在の4条だけではなくて、今後のルール形成の在り方を考えた場合に、必ずしも現在は、例えば4条の対象に直接的にはなっていないような不当勧誘行為もありえます。

それについて、これは無駄な投下費用だということで、法的にもそれを一定の効果につなげていくということも考えられると思うのですが、そのときに、これは無駄な投下費用だというのはどういう点で判断していけばよいのでしょうか。

例えば、ある商品について、魅力的な広告をするということは、おそらく無駄とは言えないとは思うのですが、単なる魅力的なという範疇を超えて、事実に反して、実際より優良であるとか、他のものより有利な条件で取引ができるという形で広告をすると、それは許容限度を超えていて、おそらくは無駄な投下費用だというような評価が下るのではないかと思うのです。その無駄ということについて、教えていただければと思います。

○京都大学大学院法学研究科西内准教授 御質問ありがとうございます。

無駄かどうかという点については、基本的には伝統的な経済学における広告の意義を前提としておりまして、伝統的な経済学において、なぜ広告が行われるのかということを考える場合、制度化理由としては大きく2つぐらいが主張されているように思われます。

第1に、広告の基本的なというか極めて理解しやすい機能として、情報提供を行う。事業者側だけが持っている情報について、相手方、消費者側が何も知らないという状況だと、本当にいい商品であったとしても、それを信用してもらうことができず、高く買ってもらうことができない。そうであるからこそ、自分が持っている情報について、それを提供し、かつ情報の信頼性についても一定程度、信頼が置けるような担保措置を行う。そういった意味での情報提供がどうかということが一つあるという形になります。

第2点。こちらが少しややこしいところで、こちらがやや争いがあるところではあるのですが、広告を行うことによって、更に商品の価値を高めるという意味の広告も存在すると考えられております。例えば、一定の商品のCMに芸能人を起用する。あるいは広告という形ではなかったとしてもタイアップモデルを作るとかそういったことであるのですが、スポーツ製品などによく見られることですね。有名な野球選手が使っている野球のバットと同じようなものを作るとか、グローブについても同じようなものを作るとか、あるいはバスケットシューズなどもそうですけれども、そういったものにおいて、広告の意味として捉えられているのは、その商品を持つことによって、体験等々を共有して、その商品の価値を高める。そういうものが考えられております。

ただ、これが広告としてどの程度、有意義なのか。そして、価値というものは永続的に継続するものではなくて、時間とともに消えていくものではないかと見ると、やや無駄なものではないかと考える余地もあるのですが、ただ、現代の経済生活の中では、このようなタイプの広告に関しては、一定程度の有用性を有するという形で考えられているようには思われます。

この2つに基本的には当てはまらないようなタイプの広告、情報提供などを想定するとですが、こういったものに関しては、基本的には余り有用性はないのではないかと考えることができると思われるわけでして、そういったものについて考えていくというのが中心になろうかとは思われるところです。

しかも、伝統的に情報提供のモデルだと考えられていたものの中にも、行動経済学に照らしてみた場合には、一定程度、心理的なバイアスにつけ込んでいるものではないのかというところで疑われているものが出てくる可能性はあり得ますので、そういった意味で、無駄かどうかということを判断する基準の上でも、行動経済学を用いていくことは考えられるのではないかと思われます。

○鹿野座長 ありがとうございました。

御質問、御意見はいかがでしょうか。

高委員長、お願いいたします。

○高委員長 私はこういうお話を聞いたのは初めてでして、いろいろと基本的なことをお聞きしたいのですけれども、御自身がこういう研究をなさっているのは、例えば新しい法律あるいは法律改正を行う際、これまでだと立法事実に基づいて改正をするという流れがあるのですけれども、別のアプローチがあるということで、今回、行動経済学の手法を提案されていると解釈してよろしいでしょうか。

○京都大学大学院法学研究科西内准教授 私は2012年から14年までミシガン大学に留学していたのですが、2012年という時代は、ちょうど2009年に金融危機が生じたという時代でして、アメリカにおいても、金融危機というものが一体なぜもたらされたのかを経済学的に分析した上で、そういったものを政策ベースでも生かしていくべきではないかという議論がかなり有力に主張されている時代でした。しかも、ヨーロッパに目を転じても、行動経済学を使おうかなという形での研究がEUで進められているというか、そういう時代を見た場合に、我が国においても立法事実を、伝統的に被害類型を集めてくるというだけで、説得的に、しかも世界の潮流から見た場合にグローバルスタンダードに則した形で消費者保護等々を考えていくことができるのかという問題意識がありました。

その当時、行動経済学という分野自体は、商法では盛んなのですが、民法や消費者法の分野では、我が国では余り行われるようにはなっておりませんでしたので、そういった研究を行うことで、今後の政策形成などに関して一助となるのではないかという形で研究を進めてきたところにはなります。

○高委員長 もうちょっと議論のためによろしいですか。

金融恐慌が起こったとき、そういう材料でなぜこれが起こったのかという研究がされたということになると、例えば、日本では、ジャパンライフの問題がありますね。ジャパンライフを真ん中に据えて、いろいろなステークホルダーを周りに置いて、何でこのようなことになったのかを、整理していくと、被害者は高額な出資をしても、配当をもらっている限り、それが特に問題だとは声を上げない。仮に問題に気付いたとしても、自分の投資分さえ回収すれば、それで終わりと考える被害者やその親族も多かったと思います。

日弁連としても、早目に警告を出せばよろしかったと思うのですけれども、自分のクライアントの利益を第一に考えて行動するため、問題はなかなか表に出てこない。行政としても、早期に調査をすればよかったという声はありますが、問題がある程度表面化しなければ、動くこともできなかった。そもそも、倒産商法と言われるような事業ですから、マスコミもほとんど報道しなかった。調査や報道があったことを、倒産の口実に使われるという可能性もあったわけです。

消費者団体も、早目に情報が上がってくれば警告を発することができたのでしょうけれども、ここでも情報は上がってこなかった。正にいろいろなステークホルダーの限界を理解した上でのビジネスモデルを作って、ジャパンライフは事業を行ってきたと思います。仮に経済行動学のアプローチを用いて、西内准教授がこういう事案について、分析した場合、こことここが問題だから、法律としてはこういう部分を作り直すべきだとか、法改正について意見を出せるものでしょうか。

我々の議論は、西内准教授が御指摘したとおりに、これは預託法の問題だろうとか、このスキームは金商法の集団投資スキームに似ているから、そちらで扱えばいいのではないかとか、要は既にある法律の枠組みの中で考えているだけです。これと類似した事件は過去にも多数あり、被害が続いているわけですが、新たな視点はないものかと悩んでいるところです。

ですから、今日、お答えいただく必要はないのですけれども、今後こういうものもテーマにしていただけると、具体性があってありがたいと感じた次第です。

○京都大学大学院法学研究科西内准教授 単なる思いつきみたいなところではあるのですが、お話を伺っていて、最初に被害を受けているはずの消費者が被害を訴えないというところが気にかかるところではありまして、現状、私は余り行政手続などに詳しいわけではないのですが、基本的には被害というものを訴える人がいないと、様々な手続が取りづらいという形でスキームが組まれているというところはあるだろうと思うのです。

ただ、そういった被害に遭う方を見てみると、特にマルチ被害などはそうだと思うのですけれども、先ほどの絶対にもうかるなどというもうけ話はあるわけがないのに、そういうものに引っかかってしまうという人間と重なってくる部分があると思いまして、ある種の楽観主義に陥りやすい人だろうと。そういう人がターゲットにされていると思うのです。そういう人に、こういうやり方は間違っていますよ、だから被害を訴えたほうがいいですよと訴えて、被害として名乗り出てもらおうとしても、なかなかそれを被害として抽出していくというか、被害者が自分自身の被害だと認識していくことは難しいと思うのです。そういう意味では、事後的な民事的な救済というよりは、より事前的に何かしら積極的に動けるような枠組みが、そういったものについてはあったほうがよいのだろうなと感じるところは大きいです。

その他にも、自分自身で費用投下してしまうと、今まで行った費用投下について無視して、将来の利害だけを見て行動できないといういわゆるサンクコストファラシー、埋没費用の誤りなどというものも関係しますし、そういった意味で、一旦投資してしまった人に自ら被害を訴えていただいて、その数が大きくなったからこそ規制すべきだという形で考えている。そういったモデルが仮に行政手続で存在するのだとすれば、そういったものを取ったままだと、今回のような被害は今後も生じてくるのではないかと考えられるところは感想として思うところではあります。

それでどうするかというところはあり得るわけですけれども、やはり民事的な事後的な救済というところをうまく使うというよりは、民事的な救済の中でも情報提供モデル、事前的なモデルを重視したり、あるいは行政的、警察的な介入をより容易に行える類型はないのかという形で、先ほどのマルチ商法にしろジャパンライフにしろ、人間のバイアスにつけ込んでいるのではないかという形の類型で詐欺に当たりやすいものを抽出して、早めに刑事的、行政的に立件できるという類型化というか、こういうものであれば大丈夫だという形で、言わば公正取引委員会が行っているようなガイドライン、法律の内容を具体化するような形で、こういった場合については規制される可能性が高いですよというものを事前に示して、そういったものにのっとっていれば、行政手続であっても警察手続であっても、基本的には内部的には大丈夫という形のものを作っていくというのが一つ考えられることではないかと思うところです。

○高委員長 ありがとうございます。

○鹿野座長 他にいかがでしょうか。

樋口委員、お願いします。

○樋口委員 私も初めてこういう分野のお話を聞かせていただいたので、まだ十分理解できていないのですが、2点ほど御質問したいと思います。最初に無駄な費用投下のことについて座長からお話がありましたけれども、無駄というのは効率的でないという意味かと、とりあえず素人的には理解したのですが、情報提供等の在り方が効率的でないとしても、実際の市場の中では、様々な形のものが存在していますから、このレジュメの中でも効率性という言葉を使っておられるのですが、そういう観点から見れば無駄ということになるかと思うのですけれども、それ以外の価値基準で見た場合には、必ずしも無駄とは言えないものもあると思います。

それから、広告の中で、広告自体がそもそも娯楽の手段であったり、広告の本来の目的というのは必ずしも明確なわけではないので、多様な目的、内容を含んでいると思いますので、それを社会がどう評価するかとなったときに、効率性ということで見ること以外もあるのではないかということを感じたのです。

というのは、そこからスタートした場合に、効率性の観点で全体のルールが組み上がった場合には、非効率なものあるいは社会的に見て一定の価値判断のもとに、非効率と評価されたものが排除されてしまうのではないか。実際の市場で、もう少し自由にいろいろなものが行われていて、経済学ではそこには立ち入っていないのではないか。立ち入る立場もありますけれども、余り立ち入っていないのではないかというのが一つです。

2つ目は、西内准教授のお話はまだ十分には理解できていませんが、興味深いことをいろいろとサジェスチョンもいただいたと思うのですけれども、よく我々は俗に聞かされているのは、ナッジのようなやり方があって、そういうものをうまく活用していくと、行政の効率性も高められるし、法律でいろいろ判断する前の段階での市場でのある種の規範性を持たせることができるのではないかという議論があるように思います。ただ、そのときによく出てくるのは、リバタリアン・パターナリズムではないのですけれども、ナッジは一体どこまでやったらいいのかという問題があるのかなという気がするのです。

例えば、抽象的な議論ではなく言うと、振り込め詐欺では、皆さんが一生懸命止めるわけですけれども、実際には高齢の方等が思い込んでしまっていて、自分のその時点での自由意志だと思いますけれども、どうしても振り込むということで、銀行の方や警察の方がとめても振り込め詐欺を根絶することができないという現実があると思います。

そういう中で、どこまでルールというものが個人を規制し得るのかなというところに、個人的にはまだ疑問が残っていまして、そういう観点から見た場合に、その先は委員長のお話にも関係するのですが、今後、どういうルールをどういう形で作っていったらいいのかということの中で行動経済学をどう位置付けていくのか。どの役割を与えていくのかというところを今の時点でサジェスチョンいただけるものがあればと思います。多分、西内准教授の御説明の中に入っていたと思うのですけれども、まだ十分理解できていないので、今後の課題とか、そういうところについても、もう一回、分かりやすく教えていただけたらありがたいと思います。

○京都大学大学院法学研究科西内准教授 どうも御質問ありがとうございます。

第1点目に関しては、2つ考えておく必要性がありまして、まず第1に、効率性そのものを何かしら価値基準の中に入れるのかどうかということがあろうかと思います。

効率性を消費者行政や消費者保護に関して何かしら考慮すべきかどうかということに関しては、争いはあり得るところだろうとは思われるわけですが、他方で、各国の行政当局を眺めた場合、伝統的な経済学という形での規制を行ってきた、先ほど名前を出した公取のような競争当局と消費者保護の当局がタッグを組むという形であったり、あるいは連携したり、同じ部局であったりという形で、緊密に連携しながら、行政活動を行っているという国もないわけではないという形で存在しています。

その際に重視されているのは、効率性というものが仮に達成されないとすると、長い目で見た場合には、消費者全体の経済的な利益が侵害されてしまうのではないかというところが一つの観点としては存在するところでして、しかも競争法の解釈としても、むき出しの効率性だけを保護対象としている。あるいはそれを保護対象としているものだというよりは、国によっては、むしろ消費者構成というものを増大させるかどうかという観点から、競争法というものを解釈している国がございます。

そういった観点からすると、経済的な利益、とりわけ消費者にとっての経済的利益につながり得るということを重視して、効率性というものを見ていくという事柄も一定程度は制度化できるのではないかというのが私の立場となります。

第2に、効率性というものを価値基準として入れるとしても、もう一つ問題としなければならないのは、最適でなければならないのかということを問題としなければならないわけでして、一番よいものを取らなければならないかということはあり得るのです。つまり、10もうかる、20もうかる、30もうかるみたいな形のものが選択肢として存在する場合に、30もうかるというものだけを選択しなければならないのかというと、必ずしもそうではないという見方もあり得るわけでして、少なくとも損はしていないという形で、10もうかるとか20もうかるという次善の策であってもよいという可能性は出てくるとは思うのです。

そういった意味では、ある程度は自由度を残しておくことはできようかと考えられるわけでして、しかも現状、法学や行政を行っていく上で、経済学あるいは効率性だけを価値基準とすることは通常はやらないとなりますので、様々な価値も考慮しつつ、経済学的にも少なくとも不利益は出ない形で基準を設定していくほうが穏当ではないかと考えられますので、私としてはこういう立場を取りたいと考えているところであります。

決して、最適というものまで目指すのかと言われると、そういうわけではありません。最適というところまで目指そうということとは立場が分かれ得るのかなというところになってくるところですね。

次に、行動経済学がどう生きてくるのかですけれども、これはなかなか難しい問題でして、ここでの報告内容は、別に比較法的に誰かがやっているというわけではありませんで、消費者契約法の規律自体、我が国特有みたいなところがありますので、私の独創だというところが非常に色濃く出ております。

諸外国で行動経済学がどう使われているかと申しますと、一番多いのは情報提供の在り方を改善するために使うということが多く用いられておりまして、どうやったら消費者にとって理解しやすくなるか。あるいはどういう広告であれば消費者にとってバイアスの提供が少なくできるだろうか。このような観点から様々な調査を行い、広告あるいは表示に関しての規制としてそういうものを用いていくということが一番多く用いられている例ではないかと考えられるところです。

あとは、民事的なところとはなかなか関係しづらいところなのですが、一種のデフォルトルールを作ってしまって、それによって人々の行動を誘導していくという形でも用いられることは多くあるところでして、典型的には年金、とりわけ確定拠出型、一定の掛金をかけて、投資内容自体は自分で決めるというタイプの年金等々に関して、余り積極的な投資行動をしても、多くの消費者にとって有利である投資を導くのはなかなか難しいという問題がありますので、中長期的に見ればインデックスファンド、日経株価などと連動したような投資商品であったほうが有利なのです。なので、そういった商品をデフォルトというか、変更はできるのだけれども別段の意思表示をしなければそういった投資をするという形で設定しておいて、そのような投資を促す。ひいては、先に問題として上がったようなジャパンライフなどのように、怪しげな投資に回すというお金を少なくしてしまって、セーフティーネットを作る。そういう形で利用されるという形は多いかと思います。

これに対して、強行法規です。民法90条であったり、消費者契約法8、9、10条のようなものであったり、あるいは行為規制のようなもの、本報告で取り上げたような消費者契約法4条のようなものを行動経済学などで分析するということ、あるいはそれを制度化しようとする試みに関して、私は余り見たことがありませんで、国内、国外含めてまだまだ検討課題として多く残っていると思われるところです。

○樋口委員 今のお話を伺っていて、各国の消費者政策の流れでいうと広告とか表示のところでフレーミングをどうするのかとか、デフォルトをどういう設定にするのかとか、そうした取組が一定の効果を上げているのではないかという気がしています。

そうすると、その段階での行動経済学の役割というのは、どちらかというとハードな法制度を作るというよりは、ソフトなルール作りが重要であると理解してよろしいのでしょうか。曖昧な表現で恐縮ですが。

○京都大学大学院法学研究科西内准教授 ソフトというかそういう法制のほうに用いられるほうが現状では多いのではないかというところがあるかと思います。

その辺は、現状の行動経済学での限界とも関わってはおりまして、行動経済学にしろ心理学にしろ、論文などで示されるものとしては、多いのは一定のバイアスを受ける人たちが世の中には一定程度いる。しかも統計的に有意な形でそれが存在することが示されるということは挙げられるのですが、では、具体的にどういう状況でバイアスの影響を受けやすいのかであったり、どういう人であったりするとバイアスの影響を受けやすいのかということ。つまり個人や行為類型の辺りを特定して、心理学的な影響を受けやすいということについての調査というものは、なかなか学術的には難しいところがあって、進んでいないところがありまして、そういったところからすると、我が国において消費者契約法で問題としているようなルールに関係するような調査、直接的な心理学であったり行動経済学であったりの調査というものは難しいというところがありまして、なかなか進んではいないところになります。

○鹿野座長 高委員長、お願いします。

○高委員長 せっかくですから。

恐らく行動経済学、私は倫理学が専門なのですけれども、その分野では行動倫理学が出てきていて、恐らく経済学の分野でこれが出てきたのは従来考えているような、効用を極大化するような、最適を選択するような経済モデルなど存在しない。むしろ、合理性は限定されていると。どのように限定されているのかということで、こういう研究が認知心理学などで出てきたのではないかと理解しております。

行動倫理学の分野であれば、一般の良識ある市民が何で不正に加担するかということなどを研究して、その成果に基づいて教育に生かすとか、そういうことをやっているのですけれども、西内准教授がこれを法学の分野で生かされるといったときに、もちろん今、大変面白いチャレンジをされていて、これから明確にされるのでしょうけれども、今日3ページのところで、消費者契約法の規定2つを例に挙げていただいたのですが、西内准教授がやろうとしているのは、こういう具体的な規定のレベルではなく、もうちょっと抽象化されたレベルでの提案かと理解いたしましたが、どうでしょうか。

この2つで言うと、不安を抱いていることを知りながらというのは、「心理的なバイアスを利用したつけ込み型」の行為類型ですね。2番目の緊密な関係を築くということは、西内准教授の言葉で言うと、「社会的に無駄なコストを割いて」、ある形を作った上で、「心理的なバイアスを使った」契約となるわけですね。ここまでの具体的な規定ではなくて、むしろ行動経済学的な立場に戻っていくと、より単純化した、西内准教授は「限界概念」などとおっしゃっていましたけれども、そういった視点でまとめる方がより汎用性が出てくるのではないか、という主張と理解してもよろしいでしょうか。

○京都大学大学院法学研究科西内准教授 それはなかなか難しいところなのです。

一方で、アメリカのロースクールなどのように、日本で実務家になる方の一定程度が経済学や心理学の授業をとって、素養ができた上で、法の世界の中でも抽象的な概念であったとしても、それを心理学や経済学の概念なども使いつつ、それを埋めていくという作業ができるような環境が醸成されれば、そういったやや一般的なことはでき得るのかなというところは考え得るところではあるのですけれども、他方で、現状の法学のシステムを見た場合には、条文が存在していて、それを趣旨にさかのぼったり、あるいは体系に照らして解釈することが中心になってくるわけでして、そういった論理操作を中心に組み立てられている法学あるいは法学を基礎として行われているところの法の実務を見た場合には、現状に照らしてみれば、ある程度、特定した書き方にならざるを得ないのではないかというところがあります。

その意味で、なかなか一般的な規定を作るということについて、最終的にはそういう方向が望ましいのかもしれないけれども、現状では難しく、その点は消費者契約法の8条、9条等に照らして、10条というものがどの程度、機能しているかというと、最高裁での10条の判例はそう多くはないわけですし、有名な学納金の事例も10条の適用は回避しつつ、8条、9条、あの具体的な条文を使って解釈するというところに落ち着きましたし、やはり現状の法律化というものを念頭に置いて、消費者の救済を考えていく場合には、より具体的な規定に落とし込む作業が必要なのではないかと思うところです。

○高委員長 最後ですけれども、先ほど行動倫理学の話をしたのですが、そうすると、こういう行動経済学などの成果というのは今、もし使えるとしたら、これは消費者教育といった分野で使えると、理解しておけばよろしいでしょうか。

○京都大学大学院法学研究科西内准教授 現状はそうならざるを得ないのだろうと思います。

徳島の検討会にも参加をさせていただいておりましたけれども、最終的に成果として確実に出せるものとしては、どういった人が被害に遭いやすいのかという自覚を促して、かつ、どういった場面で被害に遭いやすいのかということについての教育に用いるということが中心だったように思われますので、現状は、そういった意味では、行動経済学というよりは認知心理学であったり、社会心理学であったりという、心理学の観点をより強く用いて、教育等々に生かしていくというほうが中心的なところにならざるを得ないのではないかと考えてはおります。

○鹿野座長 私からもあと一つ質問させていただきたいと思います。現状の行動経済学の限界とか、特に法律専門家、裁判官の現在の日本の法曹養成システムの中での限界も挙げられたところです。そして、私自身も例えば消費者契約法10条がうまく機能しないという現状に対して、非常に残念に思っている者の一人ではあります。

ただ、西内准教授が先ほど最後のほうで挙げられた暴利行為の話ですが、確かに暴利行為について、法制審で随分議論をしたけれども、明文化には至らなかった。それには、抽象的には暴利行為が公序良俗違反の一類型であるということについては了解があると思うのですが、それをどのような形で明文化するかということについては、コンセンサスが得られず、結局は断念されたという経緯がございました。

ただ、その議論の中でも出てきたのですが、この伝統的な、かなり厳格な定式の下での暴利行為だけではなくて、現在は裁判例を見ていくと、より緩やかな形で90条を適用しているものも増えているのではないかという指摘もありました。それを捉えて現代型暴利行為というように呼ぶこともありますが、そういう意味では、一般条項的なものについても、裁判官等の法律家の限界はあるのかもしれませんけれども、全く無意味ではなく、社会の変動によって発展し得る可能性は持てるのではないかと思います。楽観主義だと言われそうですけれども、そのようにも期待したいところであります。

そういう点で言うと、例えば4条のあり方はこれでよいのかという疑問があります。今回、西内准教授には、消費者契約法4条について御検討いただき、それから専門調査会の報告書についても触れられて、分析をされました。専門調査会の報告書に基づいて法案が作成され、今年の消費者契約法の改正につながったわけですけれども、そこでの4条の特に困惑類型の追加については、西内准教授もレジュメの4ページで御指摘のとおり、行動経済学による分析というわけでは必ずしもなくて、消費者被害が多かった典型的なトラブルを抜き出して、そこに規定したように見えます。具体的な類型だけが追加されたという形になっています。

それについて、今後、行動経済学の分析などを基に、より一般的な形で、共通する要素を抽出して、それでルール化につなげていくという可能性も行動経済学にはあるのでしょうか。

今日冒頭のところで、例えば状況の濫用などというものについては、今回の対象からは除外するということではあったのですが、専門調査会でもひとつ問題にしてきたのは、つけ込み型の不当勧誘類型をどうやってここで拾っていくのかということでした。これについては、その具体的な類型を幾つか挙げるということだけでは拾いきれないような問題があるのではないかと私自身は思っておりまして、その辺りのところにも行動経済学が何らかの形で役に立つのかということについて、何か御示唆があればお願いしたいと思います。

○京都大学大学院法学研究科西内准教授 徳島の検討会での報告書作成の段階で、やや意見の相違等々があったのですが、徳島の検討会で心理的な影響等を何かしら消費者被害というものとの枠組みを分析して、それを今後の法制につなげる何かしらの余地がないのかということも分析はしたのですが、意見の対立というか多分、私ぐらいが違った意見だったと思うのですけれども、前提として、心理的な影響を受ける観点は大体3つぐらいに分解されていたのです。一つが誤認、一つが困惑、もう一つ新たに加わったものとして、消費者契約法とかではない浅慮という、「浅い」と考慮の「慮」というものを加えて、そういうものもあり得るのではないかという形で分析したのです。

浅慮というのはどういうものかというと、クーリング・オフの状況などは典型ですけれども、考える余裕がなかったり、あるいは非常に疲弊していて、認知的にエネルギーを使いづらいというか、何かしら計算作業を行うにも苦痛であるとかそういった状況、深く考えることができないような状況一般を指して浅慮という形で定義して、そういった状況も関係し得るのではないかという形で分析はしたのです。

ただ、ここから先が、見解が分かれたところでして、浅慮のみで何かしら規制というものを入れていってもいいのではないかという意見もないわけではなかったのです。検討会それ自体では出なかったのですが、報告書をまとめる段階で、そういった報告書があり得てもよいのではないかというところは指摘されたところで、ただ、浅慮というものの正体は一体何なのかということを突き詰めて考えてみると、心理学にしても現状の行動経済学にしても、考えることができない状況だけで相手方が害されるのかというと、そういう状況は想定しづらいところがありまして、むしろ浅慮という状況、認知的な能力が使えない状況というのは、バイアスの影響を強めてしまうという状況として分析されているように思われます。

例えば、浅慮の一例として、取引経験が不足しているという事例などを挙げることができますけれども、そういった事例において、心理的なバイアスが強くなるのではないかということについて、一定のバイアスについてはそうではないかというタイプの研究結果はあり得るのです。ですので、典型的にはですけれども、よくあるのは誤認。これを強めるものとして、浅慮が存在する場合に、誤認を強めるという形で両方組み合わせた形で記載するという形であれば、あり得るのではないかというのが私の意見だという形で述べさせてはいただいたのです。

ただ、それを超えて、浅慮だけで何かしら規制ができるのかとなると、そういう観点が一体何と関係するのかというのは、心理学とか経済学を見る限りはその制度化が難しいわけでして、こういった意味で、浅慮というものが存在する場合に、現状の誤認類型などをやや抽象化して、より広い行為を含めるような条項を作るとか、そういうものとして生かしていくのであれば、あり得る方向なのではないかと考えるところではあります。

○鹿野座長 困惑についてお聞きしたつもりだったのですけれども、困惑を広げるということは。

○京都大学大学院法学研究科西内准教授 困惑も同じようなところですね。困惑に関しても、基本的には何かしら我慢できないような苦痛を与えたりとかしているのですが、我慢できないような苦痛を与えられるような場合などに関して、将来的に我慢できないような苦痛に負けて契約をしてしまうと将来的に大きな不利益がかかってくるのですけれども、そういう場面などで困惑に負けてしまうというのは、現代の困惑の重大性を重視しているようにも見えるのです。

その意味では、短絡的な見方が強まっていると見ることもできまして、困惑に関してもそういう意味では、考えることができないような状況に陥った場合には、近視眼が強まるというような研究結果があり得るとすれば、浅慮、認知エネルギーを使えないような状況を認定しつつ、困惑についてより抽象的にというか、より緩和した形で認定していくという方向性はあり得るのではないかと考えることはできようかと思います。

○鹿野座長 いかがでしょうか。よろしいでしょうか。

他に御質問がないようですので、以上で本日の議事は終わらせていただきたいと思います。本日は西内准教授に行動経済学の観点からの分析の将来的な展望あるいは現状の限界などに関して、貴重な御報告をいただき、質疑においても全般的な問題と具体的な問題の両面にわたってお答えをいただきました。

先ほどから樋口委員等からもありましたように、この行動経済学の視点が重要だということは、消費者法の分野でかなり最近、言われているところですけれども、このような形で御報告をいただく機会がございませんでしたので、本日は本当に貴重な御報告をいただいたと思っているところです。

改めて感謝を申し上げます。


≪3.閉会≫

○鹿野座長 最後に、事務局から事務連絡をお願いします。

○坂田参事官 本日も長時間にわたりまして御議論いただきまして、ありがとうございました。

次回の日程につきましては、改めて御案内をさせていただきたいと思います。

以上でございます。

○鹿野座長 それでは、本日はこれにて閉会とさせていただきます。

お忙しいところ、お集まりいただき、ありがとうございました。

西内准教授におかれましてはどうもありがとうございました。

(以上)