私にとっての野口英世アフリカ賞、その重要性、励み、私の活動への貢献 原文・英語 日本語訳・野口英世アフリカ賞担当室
第1回野口英世アフリカ賞医療活動部門受賞者
ミリアム・ウェレ著
野口英世アフリカ賞の重要性
野口英世アフリカ賞の重要性は、織物に織り込まれる糸のように、この賞に織り込まれています。特に重要な点は次の通りです。
野口英世博士が獲得した専門家としての高い地位は非常に素晴らしいものであり、これを実証するのが1909年に京都大学から授与された医学博士と、生涯で受けた10を超える栄誉です。旭日小綬章をはじめ、アジア、ヨーロッパ、南北アメリカの各大学から授与された多くの名誉学位があります。幾度かノーベル医学賞の候補にもなりました。51歳という若さで亡くなっていなければ、ノーベル賞を受賞していたに違いありません。
その偉大な業績により、野口英世博士に対して、その死後も栄誉が与えられました。旭日中綬章があるほか、生まれ育った福島県、東京、さらにロックフェラー大学に記念碑が建てられています。野口博士の肖像は日本の1000円札にも描かれています。
この優れた専門的功績と高い評価は、博士が幼い頃に左手に重い火傷を負ったことや、貧しい家庭の出身で、高等学校から先の教育については家族以外の人々の情けに頼ったことを考え合わせるとさらに感動的です。従ってこの賞の受賞者には、これに応える大きな責務があると思います。
この賞が博士にちなんで野口英世アフリカ賞と名づけられたことの重要性は、私にとって深い意味があります。野口英世博士は、アフリカへ来る前にアジア、ヨーロッパ、南北アメリカで研究し、こうした地域の国々の多くで栄誉を与えられました。それゆえ、この賞は博士の故国や、あるいは博士が研究し、栄誉を受けたその他の場所にちなむ名前でも良かったはずです。野口英世博士がアフリカに滞在したのは短期間であり、この地で命を落としたにもかかわらず、アフリカ賞と名づけられました。
アフリカが開発に関する数々の難題に奮闘していた時に、この賞がアフリカ賞と名付けられたことに、私は精神的、人道的な深いメッセージを感じています。日本がアフリカに与えたこの栄誉と、1993年にアフリカ各国の元首が一堂に会して、アフリカ開発会議(TICAD)でアフリカの開発について話し合うことを実現させた最初の先進国が日本だったという事実には、深いつながりがあります。アフリカの人々がこの善意と友好のしるしを受け入れ、感謝し、そして可能な限りこれに報いることができるよう、私は祈っています。
野口英世アフリカ賞医療活動部門は、他に類をみない点が素晴らしいです。これは、2007年の候補者選考の指針に述べられるように、「人々の保健と福祉に貢献している」学者と、「疾病対策および公衆衛生の改善を目的として行われる、現場レベルの医療/公衆衛生」が注目されている点にあります。
この賞は、研究室から出ない研究者や、分子・分子下レベルの研究を重視してきた既存の各賞では考慮されなかったと思われる人々が選考されることを可能としています。このアプローチによって野口英世アフリカ賞は、社会から取り残された人々に医療サービスを受けさせることを含めて、万人の健康管理の促進に取り組むことの重要性を高めています。
野口英世アフリカ賞医療活動部門は、すべての人々の医療サービスを受ける権利を促進し、医療サービスを利用出来るようにするための歴史の上で、非常に重要な貢献となる場を作り上げました。
受賞の重要性は、受賞者が他の人々から与えられる栄誉からも分かります。
野口英世アフリカ賞医療活動部門については、この賞の第1回受賞者となって以来、与えられてきた栄誉によってその重要性を感じてきました。例えば、ケニアのモイ大学、日本の御茶ノ水大学、米国シカゴのドポール大学から授与された名誉博士号や、国家元首をはじめとして、2008年から2011年にHIV/AIDSの活動を活発に行っていた著名人たちから成るCHAMPIONS FOR HIV-FREE GENERATIONへの参加要請です。
また、2011年には、ケニアの公衆衛生大臣により地域医療善大使に任命されました。さらに、国連の「女性と子どもの健康の実現に向けたグローバル戦略」のための独立した専門家による審査グループ(iERG)7名の内の1人に選ばれました。私が野口英世アフリカ賞にふさわしいことを確認できたと感じています。
野口英世アフリカ賞受賞者として受けたインスピレーション
重要性に関して書いてきたそれぞれの点は、私にとってインスピレーションを生み出す確固とした基盤となっています。その他にも励みとなったことは、次のような点です。
私が大変感謝したのは、受賞者に情報を伝えたプロセスです。東京の内閣府にある野口英世アフリカ賞担当室の塚田環室長が自ら説明に来られ、ロンドンのグリーンウッド博士、次いでナイロビの私を訪ねてくださったことは非常に励みになりました。さらにありがたく思ったことは、その後に予定される日程に受賞者の配偶者が不可欠な参加者とみなされたことです。この気配りは感動的でした。
また、授賞式前後の行事に関する綿密な計画と、私たちへの通知も見事でした。横浜では野口英世アフリカ賞の担当者である、前田恵理さんにお会いしました。授賞式に先立ち、天皇皇后両陛下にご紹介いただいたことも、感激の至りでした。横浜市長主催の素晴らしい式典もありました。私たちは、船が横浜に着く前に外海で伝染病を診断するなど、若き日の野口博士が研究において優秀であった事を物語っている場所を見る機会に恵まれました。その他にも様々な式典を通して説明を受け、また、第1回野口英世アフリカ賞の記念切手の贈呈を受けました。
横浜市にあるパンパシフィック横浜ベイホテルのクイーンズグランドボールルームで行われた受賞式の素晴らしかったこと!
最大のインスピレーションは、天皇皇后両陛下のご臨席を賜ったことです。また、TICAD IV(第4回アフリカ開発会議)出席のために来日していた、40人を超えるアフリカの国家元首たちが臨席していたことも感動的でした。クイーンズグランドボールルームは、国連、二国間機関、官民両セクターの国際的な著名人たちで満ちあふれていました。その中には、私が国連に勤務していたときから尊敬していた、当時JICA(国際協力機構)理事長だった緒方貞子氏がおられました。日本の総理大臣である福田康夫首相、野口英世アフリカ賞委員会座長の黒川清教授、野口英世アフリカ賞のアフリカ委員会議長マレガプル・マゴバ教授に紹介されたことは大変な名誉でした。
また、私の謝辞で言及した各機関の同僚たちも自費で来日し、授賞式に立ち会えたことも大きな喜びでした。アフリカ医療研究基金(AMREF)やケニア国家エイズ対策委員会の同僚たち、そしてウジマ財団の事務局長です。偶然ですが、この3機関は、大陸レベルの組織、国家組織、小さな草の根的非政府組織を代表していました!
授賞式の各イベントは最高の経験でした!福田首相から賞を受け取る瞬間は、クイーンズグランドボールルームの大観衆からの大喝采でしびれるような感覚でした。グリーンウッド博士が演説を終えて万雷の拍手を受け、私の番が来ると、同様に割れんばかりの拍手を受けました。私は、ウジマ財団の若者の一人、Waneneがデザインし、私たちが日本に持ってきたTシャツを掲げました。Tシャツの正面にはHIDEYO NOGUCHI, AFRICA LOVES YOUと書かれています。背中側にはJAPAN, AFRICA THANKS YOU!の言葉があります。私が腰を下したとき、天皇陛下がお手を伸ばし、Tシャツに触れられました。これに勇気を得た私は、陛下にTシャツを贈り物としてお渡ししました。陛下は大変嬉しそうにそれをご覧になりました。こうしたことの全てが、どれほど感動的だったことでしょう!
TICAD IV(第4回アフリカ開発会議)に参加した、アフリカの首脳たち
野口英世アフリカ賞委員会座長 黒川清教授
授賞したメダルを披露する、ブライアン・グリーンウッド博士
福島に来ました!
授賞式の翌日は、東京の国連大学へ講演に参りました。グリーンウッド博士は「マラリアの撲滅は可能か?」という問題を扱いました。私は「アフリカの保健を変化させる機会」について講演しました。
その後、新幹線で野口英世博士が生まれた福島へ向かいました。ケニアにいた時に、福島で一番見たいものを尋ねられ、私と同じような福島のおばあちゃんたちに会いたい、と私は答えていました。駅に到着すると、そこにはおばあちゃんたちがいて、ケニアと英国の国旗を振ってくれていたのです!私は胸が熱くなりました。
その晩、福島県知事主催の晩餐会にはそのおばあちゃんたちも来ていました。プログラムには、アフリカから来た私たちと、長い間アフリカに住んでいたグリーンウッド博士夫妻のために、歌い、踊る時間が設けられていました。一緒に踊ろうと私がおばあちゃんたちを誘うと、おばあちゃんたちは応じてくれたのです!福島知事やほかにも大勢の役所の人たちが加わりました。福島での一日を終えるのに、アフリカのビートに合せて踊るなんて!福島県知事も住民も、それほどに温かく、喜んで私たちを受け入れてくれたのです。
2008年に行われた、第1回野口英世アフリカ賞授賞式の様子
野口博士の故郷である福島でお会いしたいと願っていた、福島のおばあちゃんたちに会いました。
グリーンウッド博士と私は、福島県の親善大使に任命されました。
関係者との記念写真
野口博士の記念碑を訪れ、献花しました。
福島での行事の一つは、野口英世記念館の訪問でした。私たちは、野口英世博士が子どもの頃に住んでいた家を見学しました。そこには幼い野口博士が落ちて左手に火傷を負う原因となった囲炉裏がありました。野口青年が家を出て東京へ向かう時に、生家の柱に刻んだ決意も見ました。その他にも記念館では、野口博士の衣服や、顕微鏡を見ました。
野口博士がこの単純な顕微鏡で、あれほど多くのことをどうやって成し遂げたのか、と圧倒されて佇んでいると、傍らに誰かがいるように感じました。一緒に記念館に来ていた一人だろうと思ったのですが、目を向けると、私の隣には誰もいませんでした。そして、野口博士ご本人の気配を感じ、微笑みを浮かべたその顔をはっきりと見たのです。記念館を見学する間中、野口博士は私のそばにいました。
福島の野口英世記念碑も訪れました。そこでは学童たちが博士を称える詩を朗唱し、歌いました。記念碑の下にはたくさんの花束が供えられていました。グリーンウッド博士と私も野口博士に敬意を表して、野口英世記念碑の下に花を供えました。
私たちは会津大学でも講演を行いました。私の講演のテーマは「公衆トイレから診療所まで」というものでした。福島県庁の職員の中には、私の仕事について読んでいて、水が原因である感染症や、汚染された土壌から感染する、せん虫を減らす戦略として、私が先頭に立ってきた公衆トイレの建設と使用に関するキャンペーンのことをご存知の人たちがいました。そのため彼らは、私がまだケニアにいるうちに、内閣府を通じて、このキャンペーンについて話すよう依頼してきてくれたので、お話をさせて頂きました!
福島を訪問中私たちは、室内に湯気を立てる、ふとんで寝る、酒を飲む、茶道を体験するなど、伝統的な日本文化を体験しました。福島での楽しい思い出は、消えずに残っています。この経験全体がなんというインスピレーションであったことか!それゆえに、2011年に福島が地震、津波、原子力発電所事故の被災地の一つとなった時、私は少なくとも福島に戻り、生き残ったけれど苦しんでいる人たちと、亡くなった人たちや、いまだに行方不明・身元不明となっている人たちの魂のために祈るべきだと感じました。私のマイレージサービスを利用し、また、室長である堀内俊彦氏をはじめとした内閣府野口英世アフリカ賞担当室のみなさんの援助と、私の同僚であり友人である、坂東あけみさんのおかげで、2011年10月に福島を尋ねることができました。
私たちは野口英世記念館を訪れ、前回と同じ職員たちに迎えられました。私は津波となって押し寄せた海へ行き、海で亡くなった人たちの追悼に、祈りを込めて海へ花束を投げ入れました。病院、学校、そして家を失った人々の仮設住宅を訪問しました。どこへ行っても、私は心の中で祈っていました。福島の勇気ある人々は、苦しみながらも微笑んでいました。私はいくらか安らかな気持ちでケニアに帰国しました。
帰国をする前に、東京にある主な事務所に立ち寄りました。NPO HANDS、内閣府大臣政務官 園田康博氏、厚生労働省審議官 麦谷眞里博士、政策研究大学院大学教授 黒川清博士、東海大学教授 武見敬三博士にお会いしました。武見教授には私が「KIZUNA」の精神で印刷し、持参したTシャツを渡しました。
東日本大震災の後、野口英世アフリカ賞担当室の堀内俊彦室長と大阪大学の板東あけみさんと福島県を訪れました。
野口英世記念館の八子館長と
相馬市立中村第一小学校の生徒の皆さんに、アフリカの文化について講義しました
公立相馬総合病院の熊 佳伸院長と
野口英世アフリカ賞を受賞して、ケニアに帰国した時は、歌と踊りの歓迎を受け、そのままナイロビの一流ホテルでの朝食会となりました。朝食会には日本大使、政府関係者、私の謝辞に挙げた組織の同僚たち、そして私の家族が出席しました。歌と踊りは一日中続きました。これもまた、感動的でした!
伝統的なダンスや歌による大歓迎を受けました
私の夫である、ハンフリー・ウェレと
私の活動に対するこの賞の貢献
賞金に加え、この賞によって世界的に知られるようになったことで、私が重視する専門領域における機会がさらに大きく開かれました。そのうち、3点について述べたいと思います。
母子健康手帳が母子保健サービスを改善してくれる機会は、私にとってこの賞が広げてくれた重要な領域の一つです。私は一生を通じて母子保健サービスに携わってきましたが、それは、アフリカのほとんどの国で、保健サービスの75%は母子を対象とするものでありながら、多くの母子にはいまだに手が届かないままだからです。これは、天の配剤と私には思えるような形で一つのことが別のことにつながることを示しているため、詳しく述べたいと思います。
2008年5月の授賞式後の6月、私はケニア国家エイズ対策委員会議長として国連エイズ特別総会のためニューヨークに来ていました。国連本部で大勢の人々の中にいた時、2人の日本人女性が満面の笑みを浮かべて私に近付いてきました。2人は、第1回授賞式のときに日本のテレビで私を見たと言い、日本代表団の一員としてニューヨークに来ていること、結核症に取り組んでいることを話してくれました。翌日2人は、日本の国連大使に私がニューヨークにいると伝えたことを告げ、大使に会わないかと尋ねました。私はその翌日、大使との面会の予約を入れました。面談中、HIV/AIDSが母子に与える影響が話題に上りました。大使は、日本で生まれ、今ではインドネシアをはじめとするアジア諸国で使われている母子手帳を、アフリカでは使っているか、と私に尋ねました。
私はその名前の手帳のことを知りませんでした。ケニアに帰国すると、大使の事務所職員がインターネット上でその情報を送ってくれていました。その後2009年に招請を受けて日本の長崎大学で講義をしました。その後、アフリカにおける保健に関する大阪大学のシンポジウムに出席したのですが、母子手帳がテーマとして取り上げられていました。それからまもなく、大阪大学の中村安秀教授のおかげで、母子健康手帳と呼ばれる母親のための手帳に関する多くの情報を得ました。
大阪大学 中村安秀教授
母子手帳を使って、母子について総合的に記録することがアフリカの家庭に役立つと思われる、様々のやり方が考えられました。母親は、自分用と一人一人の子ども用の何枚ものカードに煩わされることなく、妊娠・出産から子どもが5歳になるまでを扱う記録を、1つだけ持っていれば良いのです。 これは継続的なケアの提供を確実とする素晴らしい方法だと、私は考えました。妊婦の出産前のケア、分娩と新生児のケア、家族計画を含む産後のケア、5歳になるまでの保育と続く一連のケアです。それぞれの段階でどのようなケアをすべきか、母子手帳に詳しく説明されています。
各家庭では、この手帳を児童福祉カードと同じように管理し、どこへ行くにも持ち歩いて、その子どもの母子手帳に記録されるケアを受けられるようにしています。そのような総合的記録を持つことで、母子保健サービスの調整を促すことにもなると思われます。
大阪を発つ頃には、中村教授の率いるチームが、東アフリカ諸国のために母子手帳に関するワークショップを企画する際の援助を約束してくれました。そのワークショップは2010年3月に実施され、各国でどのように母子手帳の作成に取り組むかについての枠組みが策定されました。これを可能にした資金の一部は、私が受け取った賞金から出しました。その後ウガンダ が母子手帳を作成したため、ケニアとウガンダには国の母子手帳があります。
現在、ケニアが主催国となる第8回母子手帳国際会議を組織するプロセスが続いており、ほとんどのアフリカ諸国が招かれています。日本からは心強い代表団がこの会議に出席して、基調演説を行い、会議を進めます。これはアフリカにおける母子保健サービスを改善する一里塚であり、ミレニアム開発目標(MDGs)4と5の達成に向けた進展を加速させる良い機会だと信じています。こうした活動のすべてと世界保健人材連盟(GHWA)の一員であることにより、私は国連の「女性と子どもの健康の実現に向けたグローバル戦略」の独立した専門家による審査グループ(iERG)のメンバー7名の一人となりました。
ケニアの母子手帳
保健システム強化を背景とする地域保健医療促進への関与
2008年G8洞爺湖サミットの主な成果の一つは、保健システム強化の重視でした。
この会議で組織された武見ワーキンググループが、2008年11月に東京で専門家会議を開き、私もこれに招かれました。
2009年4月には、日本国際交流センターの指導の下、ナイロビのアフリカ医療研究基金(AMREF)でこの主題に関するアフリカセミナーが開かれました。この分野でさらに関与したのは、ケニアのニャンザ州における健康管理強化に関してケニア保健セクターが行ったプロジェクトでした。いくつかのセミナーで講演することを杉下智彦博士より要請され、また、意識改革プロジェクトの研究も見ることができました。
こうしたセミナーで私が焦点としたのは、強力なコミュニティレベルの保健サービスを備えることの重要さと、効果的なコミュニティレベルの保健サービスを確立することが、私の専門家としての仕事の主な重点となってきた理由の2点です。
この賞によって得た認知度により、公衆衛生省と私の仕事上の関係は強化されました。2010年度は、コミュニティ保健戦略の取組を審査する第1回コミュニティ保健サービス全国会議の企画において公衆衛生省の顧問を務めました。この会議は大成功を収め、ケニアの地域医療保健戦略を指導し、実施する意欲を医療従事者たちに起こさせました。
ケニアのナイロビで開催された、地域医療の会議で開会の挨拶を行った後、インタビューを受ける、べス・ムゴ公衆衛生大臣(ケニア)
2011年5月には、ケニア公衆衛生大臣により地域医療戦略親善大使に任命されました。それ以来、公衆衛生省と協力し、地域医療委員会のカリキュラムと指導者用マニュアルを作成してきました。
2012年4月には、エチオピアのアディスアベバで、世界公衆衛生連盟の世界公衆衛生学会の会期中、コミュニティレベルの保健サービスに関するエチオピア、ガーナ、ケニア、マラウイの発表を調整しました。
2012年6月にアディスアベバで開催された地域保健員に関する全アフリカ地域会議では、リソースパーソンでした。私は世界保健人材連盟(GHWA)の理事としてコミュニティレベルの保健サービスを扱うプログラムや提案の審査を依頼されました。私の専門家としての判断では、アフリカ諸国が地域医療戦略を採用することで、誰でも利用できる医療の普及が促進され、健康状態が改善されます。エチオピア、ガーナ、ケニア、マラウイ、ルワンダ、ザンビアなどの国々で、新たな証拠がこの傾向を示してします。.
伝統的な衣装を着た、マサイのヘルスワーカー
HIV/AIDSの予防・管理に対する地域密着型のアプローチの適用を含め、開発に対するコミュニティのアプローチの問題で広く私の関与を求める依頼があることに感謝し、これにこの賞が貢献していることに感謝します。病気の重荷で身動きのとれない人々は、アフリカが必要とする大規模な開発を実現することができません。それでも、アフリカの私たちにとって病気の負担を軽減し、人材育成と生活の質を向上させる方法は、農村部の貧困地域と都市部のスラム街の両方で多部門による地域密着型の医療へのアプローチによるものであることが、私にははっきりと分っています。農村部のコミュニティでも、都市部スラム街のコミュニティでも、協力によってケニアの地域医療戦略が成功を収めつつあることを喜ばしく思います。
健康増進を含めた若者のエンパワーメントに関する取組は、私の夫、ハンフリーズ・R・ウェレと私にとって、ほぼ全生涯にわたり、重大な関心事となってきました。これは、友人たちや親戚一同と協力して1995年10月にケニアでウジマ財団を登録したことで頂点に達しました。
1996年の初め、ウジマ財団が若者たちに提供するものに対する需要の大きさに、私たちは驚きました。給料や貯金でこの仕事を支援していた私たちは、ウジマ財団に専用の訓練センターがあれば、若者を訓練する場所を借りる費用を削減できることに気付きました。これが最大の出費だったからです。そこで私たちは、1997年に銀行の融資を受け、ウジマ訓練センター建設用地としてナイロビの近くに6エーカーの土地を購入しました。
2001年に行われた、ウジマ財団の若者たちの会議で挨拶をする、マレシ・キナロ執行役員
ウジマ財団の会員になる申し込みを行っているグループとマレシ・キナロ執行役員
エイズに関する集いに参加するウジマ財団の若者たち
職業訓練の証明書を持って記念撮影をしている、ウジマ財団の若者たち
外国人観光客に手作りのものを売っている、ウジマ財団の若者たち
ウジマ財団の行ったプログラムの中で、ダンスをしているウジマ財団の若者たち
UZIMA東日本大震災で被災された方々を勇気付けるため、歌とダンスを贈っているウジマ財団の若者たち
ウジマ財団が若者の生活における様々な領域で成功を収めていたことから、ウジマ財団の創設者であるママ・ミリアムとパパ・ウェレは、センター建設への協力依頼を篤志家たちに持ちかけました。その返事は、それについて話し合う前に、専門家が行った建築設計が必要だというものでした。建築家との話し合いの中で、これを実行するには大きな費用がかかると判りました。そのため、土地は10年以上、そのままに放置されていました。この土地はマサイの乾燥地域にあり、農耕は容易でないからです。
2008年に私が賞金を受け取ると、直ちにその一部を一人の建築家に設計を依頼する費用に充てました。彼は、建築工学技術者、水文工学技術者、建築積算士、そして建築家である本人からなるチームを組織しました。専門家による設計図は2009年に完成し、当時の見積原価は300万米ドルでした。折悪しく、2009年には世界が金融危機に見舞われていました。そのため、ウジマ訓練センターの設計図を要求した人たちのところへ持っていくと、資金援助はできないと言われました。そこで、建設についてはどうにもなりませんでした。
設計図は完成していたので、建設が実施されるときには用意された土地に水があるようにするため、また、コミュニティで水を利用できるようにするため、水利事業の提案を作成しました。女性たちが生活用水を汲みに何マイルも移動していたからです。この提案を在ケニア日本大使館が草の根無償資金協力で受け入れ、これによって道が開けました。配管と貯水タンクの資金は私が受け取った賞金でまかないました。そこから地域住民が生活用水を汲んだり、動物を連れてきて、設計に組み込まれた懸樋から水を飲ませたりするために敷地のはずれにキオスクを設置しており、この水はすでにこの土地付近のコミュニティに恩恵を与えています。さらに、ウジマ財団の執行役員がこの水を灌漑に利用する試みを行っているところで、この土地を野菜の生産地とし、野菜を売ってウジマ財団の資金源とできるか、確かめようとしています。
但し、私たちの願いが集中しているのはウジマ訓練センター建設を果たすことです。今では必要性がさらに高まり、調査の結果からもセンターを開設し初期の支援を受けた場合、これが自立可能となることを示しているからです。とりあえず建設工事が開始した時に利用できる水はあります。
建設を目指している、ウジマ訓練センターの模型。野口英世アフリカ賞の賞金の一部を使い、設計を依頼しました。
野口英世・日本館も建設する予定です。
若者支援で賞金が重要な貢献をしたもう一つの点は、高等学校は卒業できたものの、エイズ孤児、あるいはその他の理由で貧窮しているために自分ではなす術のない女子学生の授業料の支払いです。支援は、幼稚園教諭を目指す10名、看護師を目指す2名の授業料として与えられてきました。授業料は大学での指導についても支払われてきました。支援を受けた女子学生のほとんどは、売春以外に生計手段がありませんでした。授業料は男子のエイズ孤児2名にも支払われました。この2人は兄弟で、兄は出版業での仕事の発展性を高めるためコンピュータ設計コースに進み、弟は修了証書・卒業証書レベルでプロジェクト管理の指導を受けました。この他にも、高校教育の途中で残りの都合がつかなくなって立ち往生したときに卒業まで支援を受けた若者や、大学の授業料に支援を受けた若者がいました。給費生のほとんどは、ウジマ財団の若者の活動から選ばれてきました。
受賞を毎年祝うこと
野口英世アフリカ賞のユニークな特徴の一つは、これまでのところ、医学研究部門も、医療活動部門も、授賞の頻度が5年間隔であることです。ノーベル賞などのようなこれほどのレベルの賞は毎年授与され、カテゴリーも多数あることから、この賞は世間から「忘れられてしまう」と私は感じていました。5年間の間隔を考慮すると、この賞には毎年の記念祭の慣行化を伴う必要があると私には思えました。この計画はまだ慣行化されていないため、毎年、受賞記念として行事を実施する決心をしました。
受賞1周年記念は最も「華々しい」もので、これには賞金の一部を費やし、また、在ケニア日本大使館やJICA事務所長からの支援も受けました。「人類に貢献する野口博士の精神を広める」と題する、この1周年記念の報告書の出版には私が資金を提供しました。
日本政府は、2010年にガーナの首都アクラで野口英世アフリカ賞記念シンポジウムを主催しました。私はこれに参加したことを、私の受賞2周年を記念するものとみなしました。この行事には日本の皇太子殿下が臨席され、シンポジウムに対してお言葉を述べられました。シンポジウムの挨拶は、当時ガーナの副大統領だったマハマ現大統領と、賞委員会座長の黒川清教授が行いました。グリーンウッド博士も私も、このシンポジウムで講演しました。私が関わったのは、「元気なアフリカを目指して:サハラ以南のアフリカの健康な母子と共に」と題する講演を準備し、行ったことです。さらに、この機会を利用して、ガーナの観衆に紙芝居による「野口英世ものがたり」を見せようと決心しました。そのために、ガーナのアクラで紙芝居を演じたウジマ財団の若者二人の交通費と滞在期間中の関連費用を負担しました。
この期間中に重要だったのは、私が活動に従事しようとしていた国々の日本大使とコンタクトを取ることでした。そこで私は、エチオピアとセネガルの日本大使を表敬訪問しました。いずれの国に駐在する大使も、私がそれぞれの国の指導的市民と知り合い、賞について語るイベントを手配してくれました。また、この賞が私の仕事にもたらした貢献により、前述の第1回地域医療サービス全国会議の準備と成功にも貢献しました。JICAはこの会議の主要な後ろ盾の一つで、公衆衛生省を拠点とするJICA専門家だった木下牧子さんと共に仕事をする機会にも恵まれました。
3周年の2011年は、ケニア公衆衛生大臣に地域医療戦略親善大使に任命された年であり、初めはいかにして地域医療戦略の有効性を高め、ケニアばかりでなくアフリカ全土に広めるかに取り組むことに集中しました。
その成果の一つは、「効果的な地域医療:元気なアフリカに向けた次の大きな波」と題する論文を書いたことでした。この題名は、当時のケニアの JICA事務所長と相談して決めました。奇しくも、2001年をボランティア国際年としてから10年目を記念するシンポジウムのため、日本ボランティア協会より日本に招かれていました。訪日中に、JICA理事長を訪問し、JICA職員に挨拶をする機会に恵まれました。JICA理事長には、前述のような論文をTICAD Vで議題にできるのではないかと伝えました。これについて感想は頂いていませんが、2011年12月のアフリカ地域STI/HIV国際会議への参加を通してこの考えを訴えてきました。
こうした考えは、2012年の初めにアフリカで開催された世界公衆衛生連盟の世界公衆衛生学会でも伝えました。このアプローチを取り入れるアフリカ諸国の数が増えていくのを見ることは、大きな喜びとなってきました。現在、こうした国々には、エチオピア、ガーナ、ケニア、マラウイ、ルワンダ、ザンビアなどがあります。
2012年の野口英世アフリカ賞受賞4周年は、初めてアフリカで開催され、ケニアが主催国となるナイロビでの第8回母子手帳国際会議と重なります。この会議の出席者の中には、大阪大学の中村教授や、内閣府野口英世アフリカ賞担当室長の堀内俊彦氏がいらっしゃいます。賞委員会座長の黒川清教授が1日目に基調演説を行う予定です。演説の中で教授は、国際保健に関する日本の政策と、野口英世アフリカ賞の両方を扱うでしょう。また、会議2日目の晩に開かれる4周年の記念行事にも出席されることになっています。これは多くのアフリカ人に野口英世アフリカ賞について知ってもらう機会となるでしょう。
2013年には5年目の終わりに近づき、第2回受賞者たちが選考される中で、過去4年間、野口英世と人類に貢献する野口博士の精神についてメッセージを広めてきたことを大変嬉しく感じています。
野口英世博士をアフリカ全体に知らしめることが重要
野口博士の生涯を語る紙芝居を全アフリカのプロジェクトとすること。先ほど述べたように、野口英世博士の業績は素晴らしいものです。野口英世アフリカ賞と命名された賞が存在する今、アフリカの大多数の人々、特に若者たちに野口博士を知ってもらうために出来ることは全て行う必要があると思われます。そこで、私たちはナイロビのJICA事務所と協力し、その助けを得て、紙芝居による「野口英世ものがたり」を作りました。ウジマ財団の若者がこれを使って物語を演じる度に、アフリカの若者たちは刺激を受けます。博士は裕福な家庭の出身でなかったことが分かります。博士が障害に苦しんだことを知ります。そして、多くの若者が、博士の生涯で何らかの側面に共感できるのです。
野口博士の生涯は、アフリカの人々の意欲をかき立てる2つの根拠を示しています。一つは、困難を克服して成功を収めることです。これはほとんどの若者にとって大きなチャレンジです。もう一つは、仕事をもち、給料をもらっている人々にとってのチャレンジです。こうした人々は、まさに野口英世博士が支えられたように、自分よりも生活の苦しい人々を経済的に支える方法を考えなければなりません。そのため、どのようにしてこの紙芝居を全アフリカのプロジェクトとするかを考える必要があります。
アフリカの視点で野口英世博士の伝記を書き、高校生や大学生が読めるようにすることを行うべきだと私は思います。それは、人類に貢献する野口博士の精神を広める一つの方法です!
ご清聴ありがとうございます。
第1回野口英世アフリカ賞医療活動部門受賞者
ミリアム・ウェレ