博士が教えてくれたこと・八子弥寿男 野口英世記念館 館長~ 博士と博士の友人たちが残した足跡 ~

野口英世記念館(福島県猪苗代町)の八子 弥寿男(やご やすお)館長が出張で東京にいらした機会にお話を伺いました。

八子館長は、野口博士の友人であった八子弥寿平氏のお孫さんにあたる方で野口英世記念館の第七代目館長です。

野口博士の興味深いエピソードや、魅力ある人柄、また野口博士の医学やアフリカに対する情熱やこころざし、東日本大震災後の福島県についてお話をお聞きしました。

八子館長だからこそ知っている、伝記を読んだだけでは分からない、特別なお話をして頂きました。

(インタビューは2012年1月26日都内で行いました。)

 


 

 

 八子館長
八子 弥寿男
野口英世記念館 館長


1937年 猪苗代にて生まれる
1986年 (財)野口英世記念会
      評議員
1986年 同理事
      野口英世記念館 副館長
2004年 野口英世記念館 館長

インタビュー中の八子館長
インタビュー中の八子館長

 

誰よりも博士のことが大好きだった
-八子弥寿平氏と野口博士の友情-

八子館長は野口博士の友人である八子弥寿平氏のお孫さんですが、八子館長がご家族の方から聞いた野口博士のお話の中で、一番印象深いエピソードを教えてください。

八子館長:沢山あるのでなかなかお答えしづらいのですが、例えばこの写真ですが、博士が会陽医院で手術を受けた後に、退院を迎えに行って会津若松で記念に撮影した写真です。博士にとって生まれて初めての写真で、これより前の物は発見されていません。博士の家のある三城潟から、会陽医院まで26キロほどの道のりを入院の時も退院の時も歩いて行きました。写真を見ると分かりますが、博士が気を遣い、じいさん(祖父)を座らせてあげたようです。

 友人である八子弥寿平氏(向かって左側)と
1884年、左手の手術後、友人である八子弥寿平氏(向かって左側)と。
この写真は野口博士にとって生まれて初めての写真となりました。
学業優秀であり、将来を期待されていた野口博士は16才の時、学校の仲間や恩師の援助により1歳の時火傷を患った左手の外科手術を受けました。
野口博士はこの手術に感動し、医師を目指すきっかけとなりました。
(写真提供:財団法人 野口英世記念会)

 

野口博士は八子家、恩師の小林栄先生(注:小学校の時に野口博士の才能を見出した恩師)、血脇守之助先生(注:高山歯科医学院(東京歯科大学の前身)の建学者。野口博士が医師の国家試験を受験する時から終生にわたり支援)をはじめ、多くの人々の支援を受け、1900年にはアメリカへ旅立ち、世界各地で活躍しました。なぜ野口博士はこれほど多くの人を魅了したのでしょうか?


 

再渡米する際、恩師達と佐渡丸の甲板にて撮影された写真
1915年、野口博士は日本へ15年ぶりに帰国しました。
再渡米する際、恩師達と佐渡丸の甲板にて撮影された写真です。
向かって左から、渡部鼎医師、野口博士、石塚三郎氏、血脇守之助先生、小林栄先生。
(写真提供:財団法人 野口英世記念会)

八子館長:とにかく博士はずばぬけて頭が良かったそうです。一度辞書を見たら、すぐに覚えてしまい、もう一度見返す必要も無く、すぐにマスターしてしまったそうです。

また大正4年に15年ぶりに日本へ帰国した際は、頼まれると揮毫をしていましたが、揮毫もその人に合ったものをスラスラと書き、約100にも及ぶ書を残しました。じいさんは、済生(さいせい・命を救う)、脱塵(だつじん・世の中の埃から脱する)、懐旧(かいきゅう・昔を懐かしむ)の三つの書をもらったそうですが、懐旧を除く二つはお寺に寄付しました。家族の者はせっかく書いてもらったのだから家においたらと言ったのですが、家ではみなさんに見てもらえない。みんなに見てもらうためにと八子家の菩提寺(西円寺)に寄付しました。今でも西円寺の本堂に飾られています。

じいさんは誰よりも、博士の事が大好きだったのです。どれほど博士が伸びるか見る事、自分が出来無い事をやってくれるかという事が楽しみで仕方なかったのです。色々な西洋の文明が入ってきた明治時代ですから、パイオニア的気風もあったんだと思います。

博士にとって、世界は小さかった。非常に頭が良くて、常に先が見えている。日本にいたら自分の所へ渡米の順番が回ってこない、と感じた博士は費用を工面し、渡米しました。本当に先を見通す力があったのだと思います。

博士の魅力は大きく言うと、才能と、人を引き付ける正直さですね。正直さは悪い意味でも良い意味でも。恩師に無心するなど、普通の人は出来ませんでした。博士の肖像が1000円札になり、取材を受けるまでは(注※)、私は八子家と博士とのつながりをあまり口外しませんでした。それはじいさんの教えによるものです。「博士に尽くしたことは、必ずしも博士にとって名誉な事ではない。あまり口外しないように。」とのじいさんの教えを父も私も守ってきました。それゆえに今まであまりお話をしてこなかったのですが、血脇先生も小林先生もみんな競って「俺が一番支援してるぞ!」と博士の事を支援していたのです。私も1000円札の取材でお話をする機会が増え、親も話していないことをあまり調子に乗って話してはダメだよと姉から注意されたことがあります。ある一部の伝記には、博士の口のうまいのに乗せられて支援していたとの誤解があるようですが、そんな事はないです。

八子家にとって博士は身内のようなもので、「博士」と言えば、野口英世博士の事で、わざわざ野口博士と名前で呼ぶことはありません。野口家のある三城潟から高等小学校のある猪苗代町まで片道6kmほどですが、冬の猛吹雪の時など、時々我が家に博士は泊まられたそうです。昔我が家で女中をしていた方から直接聞いた話ですが、常々なんとか博士の左手を一度見てみたいと思っていたそうです。博士が泊まった時、配膳のため部屋に行った時をねらっていたのですが、いつも弥寿平じいさんがそこに置いとけと言って部屋の戸を開けてくれなかったそうで、ついぞ火傷した手を生で見ることができなかったそうです。

博士の恩師である、血脇先生は博士のヤンチャを許していました。他の弟子が同じことをしたら怒る事でも許していました。それだけ伸びる人間だという事を見抜いていた。生意気盛りを過ぎれば、人格者になる人物だと見抜いていたんですね。実際、アメリカへ行った後の博士は、残された手紙を見ていると分かるのですが、年々人格が磨かれていきました。渡米2~3年後からジェントルマンになったことがわかる。ロックフェラー研究所のフレキスナー博士やデンマーク国立血清研究所のマッセン博士などの人格者に出会えたという事も博士の幸運だったと思います。血脇先生も、小林先生も、早くからそれを見抜いていたのだと思います。じいさんはただただ、博士の事が好きだっただけだと思いますが!

※ 野口博士の肖像は2004年より1000円札に使用されています。科学者が日本の紙幣の顔になる事は初めての事です。

 

命を惜しんでないのですね

当初の予定では3か月間であった、アフリカでの研究を6か月へ延長し、ガーナにて黄熱病の研究中に、自らも命を落としてしまうほど、アフリカでの研究に打ち込んだ野口博士ですが、それほどまでに強く、野口博士をアフリカにひきつけたものとは何だったのでしょうか?

アフリカにて研究中の野口博士とマハフィー博士
アフリカにて研究中の野口博士とマハフィー博士。
当時のアフリカにおける感染症の研究は大変危険であり、研究中に感染症により
命を落としてしまう研究者も多数いました。
野口博士がアフリカへ渡る際、周りの人々は身を案じ反対しましたが
当時世界で猛威をふるっていた黄熱病の原因を解明すべく、1927年博士はアフリカへ旅立ちました。
(写真提供:財団法人 野口英世記念会)

八子館長:理由は沢山ありますが、まずは同僚ストークス(注:ロックフェラー研究所の同僚、アフリカで研究中に黄熱病に感染し命を落とした)の死、そして博士は現場主義でした。この時代、まわりの研究者は「標本だけ持ち帰って研究すればいいじゃないか?」という状況だったのですが、博士は現地に赴いて研究し解明したかったのです。そして手紙から分かるのですが、命を惜しんでないのですね。常に命がけで研究に取り組んでいました。残念でならない事は、博士の時代に電子顕微鏡が無かったことです。何らかの濾過性の菌がいる事は博士も突き止めていたのですが、それが何なのかは当時の道具ではいくら見てもウィルスが見られない。電子顕微鏡は博士の死後10数年後に開発されています。

 

今だからこそ、野口博士から学べること

11年3月の東日本大震災により、野口博士の故郷である福島県も大きな被害を受けました。猪苗代町の野口英世記念館は無事でしたが、今現在、記念館や福島県を取り巻く現状や、今だからこそやらなければならないと感じられている事についてお聞かせください。

八子館長とウェレ博士
2011年10月5日、震災後の野口英世記念館を訪れた第1回野口英世アフリカ賞受賞者(医療活動部門)ミリアム・ウェレ博士と八子館長。
ウェレ博士は、京都にてSTSフォーラムへ参加したのち、第1回授賞式の際の思い出の地でもある福島県を訪れ、福島の皆さんを励ましました。

八子館長:地震よりも原発事故の影響が大きいです。特に観光が壊滅状態になっています。来館者数も激減しています。私たちは一人でも多くの方に野口英世記念館へ来て頂き、博士について知ってもらいたい、それが我々の務めです。博士は常に逆境の中で頑張ってきた。私たちも博士にならい、この逆境に負けてはいけないと思っています。野口英世記念館は原発から85キロほど離れており、放射線量は事故の当初から0.15マイクロシーベルト/時くらいで、それ以上は上がっていません。福島県というだけで誤解されてしまい残念です。修学旅行については、先生方に納得して頂いても、父兄の方々の反対にあってしまうようです。事故直後はガソリン不足などで職員の出勤だけでも苦労しました。元へ戻るには時間が必要でしょう。

元々、野口英世記念館は人物記念館の中では日本有数の入館者数です。野口英世記念会の活動は、どこからの援助を受けることなく、入館料で賄っています。野口英世記念医学賞も野口英世記念会奨学金制度も全て入館料で賄っています。

野口英世記念館には、博士の生家があるのですが、そのままの場所に動かさずにある事が売りです。全く動かしていないのですね。

本当は展示スペースを今の倍欲しいと思っています。半分以上の資料が展示されていない状態で、代わる代わる展示をしています。特に手紙の量は膨大で、小林栄先生の「少しでも暇があったら近況を報告しなさい、私が窓口になってみんなに読んでもらうから。」という命令で沢山手紙が残っています。そのおかげで今でも博士がどうしていたか分かる。私は初めての場所で博士の事をお話しする時、博士の手紙を使います。博士のたどった道筋などは伝記を読めば分かりますが、博士の手紙を読めばどのような考えを持っていたか、人となりが分かる。大人にも子供にもとても教育的な内容です。

ウェレ博士から、福島県の皆さんへの直筆メッセージ
ウェレ博士から、福島県の皆さんへの直筆メッセージです。
「私たちは皆様が復興に取り組まれるにあたり、KIZUNAの元に共にいます。」
という博士からの想いが込められています。

 

一番お気に入りの手紙を教えてください。

八子館長:私のお気に入りの手紙は、これもかなり選びづらいのですが、
「小生日頃の心がけはまず人となること。学問は第二と存じ候」
です。誰よりも頭が良かった博士が、学問よりも人として立派になる事が大事だと言っている。我々が言うとキザですが、本当に頭が良かった博士が言うから重みがある。

博士が頑張れた理由は、手が不自由だったこと、親を安心させたかったこと、人のお世話になった恩に報いたかったことだと思います。博士の場合は、全てが満たされずに、甘えて人の世話になった事が良かったのかもしれない。博士の頭の中には常に故郷の事があり、異国の地にあって、国を愛していたことが手紙にも残っています。

石塚三郎さん(注:高山歯科医学院(東京歯科大学の前身)で博士と共に過ごす、歯学者)、星一さん(注:博士の支援者、星薬科大学創立者)、堀市郎さん(注:写真家・画家、NYで博士と同じアパートに住み、博士を支援)を始め、親しくかかわった人は生涯友達でした。博士の気性に惚れこみ、魅せられる。通り一遍の関係では無くなる。

ウッドローン墓地は特別な墓地で、日本人で埋葬されているのは博士と科学者の高峰譲吉さんのみです。それほどロックフェラー研究所は博士を厚遇してくれていたわけです。博士の死後、妻のメリー夫人には恩給が支給され、亡くなるまでロックフェラー財団が面倒をみて、メリー夫人もそこから博士の実家へ送金されていたようです。それほどロックフェラー財団では博士を非常に重要視していた。そういう場所でお世話になった事は、博士にとって運命だったと思います。日本の研究所ではそこまで面倒を見られない。私が平成九年に、じいさんも父も行けなかったニューヨークのウッドローン墓地へ初めて行った時は、足が震えました。是非もう一度行きたいのですが、なかなか実現できません。

お話をうかがっている内に、本物の博士に会いたくなってきてしまいました。

 

八子館長:本当にそうですね。博士が今の日本を見たら、どう思ったのだろうか?博士ならきっと何らかの指針を与えてくれたと思います。

 

八子館長からみなさまへ伝えたいことはありますか?

八子館長

八子館長:より多くの人に博士の事を知ってもらいたい。特に子供達に博士の生き方を学んでほしい。そのためにも早く復興して、多くの方に来館してもらいたい。館内だけではなく、館外でも活動していきたい。月を追うごとに、来館者数は回復しています。今現在、平時の40~45%ですが、来期は7~8割を目指したい。

博士は研究以外では語学の才能がずば抜けています。博士自身は、天才はいない、天才は努力の賜だと言っていましたが、博士は天才です。あんなに才能がある人はいない。

渡米前に博士が書いた、八子家に残る、じいさんへの長文の手紙には「大言壮言だけど、東大出のエリートと私を一緒にしないでくれ。」と。じいさんは友達だったので、正直に書いてある。自分に自信があったんですね。その他にも漢詩が入っていて、“待て己 咲かで 散りなば 何が梅”や“積もれ雪 岩の清水の凍るまで” と書かれていました。きっと寒々とひもじい思いを表現しているのですが、こういう名文句がポンポンっと出てくる。

そして博士は、正直で飾らない人だった。 15年ぶりに帰国した際、猪苗代の翁島小学校の黒板に「目的・正直・忍耐」と書き、次の話に行くときに消してしまったのですが、残った跡をそのままの字で先生が書き写し、今では猪苗代の小学校の教育方針になっています。

帰国時は分刻みのスケジュールで引っ張りだこでした。色んな大学が博士を呼びました。きっと名文句も沢山言ったことでしょう。テープが無かったのが惜しいです。博士の声は残っていません。遺骨も黄熱病で亡くなったため、絶対棺を開封しないという約束の元、ニューヨークに埋葬されています。

帰国時に関西に母親を連れて旅行へ行き、大阪の料亭へ寄った際、その親孝行ぶりに、芸者さんが感激して泣いて、舞にならなかったそうです。

私は全てにおいて博士に勝てるものはありませんが、一つだけ勝っているものがあります。それは両親のそばで孝行できたことです。それだけは負けてないですね!優秀であることは何かしらの犠牲があるということですね。母シカさんも博士本人も本心ではたぶん親元にいたかったでしょう。

 

野口英世記念館について

 野口英世記念館

 野口英世博士 ロボット

(写真提供:財団法人 野口英世記念会)

世界で活躍した細菌学者野口英世博士の生涯や業績を、多くの遺品や手紙、写真で紹介しています。

野口博士の生家が当時の場所に、当時の姿のまま残され、博士が1歳半の時に火傷を負ってしまった囲炉裏や、上京の際に決意を刻んだ床柱をご覧いただけます。

野口博士の研究室では、たいへんリアルな野口博士ロボットが身振り手振りを交えながら来館者を歓迎し、みんなを元気にするメッセージを話してくれます。

北に磐梯山、南に猪苗代湖を有する自然豊かな野口博士生誕の地・野口英世記念館にぜひお越しください。ご来館をお待ちいたしております。

東京方面からのアクセス
お車の場合
東北自動車道~郡山JCT~磐越自動車道・猪苗代磐梯高原ICより国道49号線を約7分

電車の場合
東北新幹線~郡山駅乗り換え~JR磐越西線(下り)にて猪苗代駅下車、バス・タクシーで約10分


所在地
〒969-3284
福島県耶麻郡猪苗代町大字三ツ和字前田81

ホームページ

電話 0242-65-2319
FAX 0242-65-2500

開館時間 8:30~17:00(11月~3月は 9:00~16:15)
       ただし、入館受付は閉館15分前まで
観覧料金 おとな 500円  こども 200円

 

編集後記

伝記を読んだだけでは分からない、野口博士の人となり、魅力について、たくさんのお話を伺う事が出来ました。

一番知りたかった、なぜ博士には多くの支援者がいたのか?なぜこれほど多くの人をとりこにしたのか?という点についての答えが分かりました。

逆境に負けず、新しい事に挑戦し続けた野口博士の影には、多くの人々の愛情やそれぞれの人たちの思いが隠されていました。博士の才能に引かれ、その人となりに魅せられ、未来を託していた。

支援者たちの愛情に溢れるお話を聞き、是非本物の博士に会ってみたいと思いました。先人たちの知恵や愛情に触れ、感謝の気持ちが湧いてくるのを感じました。

本物の博士に会う事は出来ませんが、猪苗代の野口英世記念館へ行くと、博士のこころざし、博士を支えた人の想いに触れることが出来ます。今度の休みに行かれてみてはいかがでしょうか?