第7回 消費者法制度のパラダイムシフトに関する専門調査会 議事録
日時
2024年6月25日(火)13:00~15:06
場所
消費者委員会会議室・テレビ会議
出席者
- (委員)
- 【会議室】
沖野座長、大屋委員、河島委員、小塚委員、二之宮委員、野村委員 - 【テレビ会議】
石井委員、加毛委員、室岡委員 - (オブザーバー)
- 【テレビ会議】
鹿野委員長 - (参考人)
- 【会議室】
玉手慎太郎 学習院大学法学部教授 - 【テレビ会議】
池田弘乃 山形大学人文学部教授 - (消費者庁)
- 【会議室】
黒木消費者法制総括官、古川消費者制度課長、原田消費者制度課企画官、消費者制度課担当者 - (事務局)
- 小林事務局長、後藤審議官、友行参事官
議事次第
- 開会
- 議事
①消費者の脆弱性に関連した団体ヒアリングの結果報告
②有識者ヒアリング (玉手慎太郎 学習院大学法学部教授)
③有識者ヒアリング (池田弘乃 山形大学人文学部教授) - 閉会
配布資料 (資料は全てPDF形式となります。)
- 議事次第(PDF形式:166KB)
- 【資料1】 消費者の脆弱性に関連した団体ヒアリングの結果について(PDF形式:442KB)
- 【資料2】 玉手教授提出資料(PDF形式:341KB)
- 【資料3】 池田教授提出資料(PDF形式:764KB)
《1. 開会》
○友行参事官 定刻になりましたので、消費者委員会第7回「消費者法制度のパラダイムシフトに関する専門調査会」を開催いたします。
本日は、沖野座長、大屋委員、河島委員、小塚委員、二之宮委員、野村委員には会議室で、石井委員、加毛委員、室岡委員はテレビ会議システムにて御出席いただいております。
なお、大屋委員は少し遅れての御参加となります。
所用により、山本座長代理は本日御欠席との御連絡をいただいております。
消費者委員会からは、オブザーバーとして、鹿野委員長にはテレビ会議システムにて御出席いただいております。
また、本日、学習院大学法学部教授の玉手慎太郎様と山形大学人文学部教授の池田弘乃様に御発表をお願いしております。玉手先生には会議室で、池田先生にはテレビ会議システムにて御出席いただいております。
配付資料は、議事次第に記載のとおりでございます。
一般傍聴者にはオンラインにて傍聴いただき、報道関係者のみ会議室で傍聴いただいております。
議事録については、後日公開いたします。
それでは、ここからは沖野座長に議事進行をよろしくお願いいたします。
《2.①消費者の脆弱性に関連した団体ヒアリングの結果報告》
○沖野座長 ありがとうございます。本日もどうかよろしくお願いいたします。
本日の議事に入らせていただきますが、議事として3項目ございまして、これらにつきまして御説明をいただき、また御報告をいただいて、それらを全てまとめた形で最後に質疑応答の時間を取らせていただきたいと思います。
そこで、まず最初の項目ですけれども、本専門調査会の前半の検討テーマの1つに、消費者法制度における脆弱性概念の捉え方があります。また、デジタル取引の特徴を分析・具体化するに当たっても、消費者の脆弱性との関係を踏まえることが重要と考えられます。
このたび、より現場の実態を踏まえる観点から、当事者やその支援者の問題意識等を把握するため、消費者庁におかれまして関係団体にヒアリングを実施し、その結果をまとめた資料を作成していただいておりますので、これにつきまして、まず消費者庁から御報告をお願いします。
○原田企画官 沖野座長、ありがとうございます。
消費者庁消費者制度課企画官の原田です。
消費者の脆弱性に関連した団体ヒアリングの結果について御説明します。資料1を御覧ください。1ページ目では、ヒアリングの趣旨・実施方法等について記載しております。本専門調査会の検討テーマとして、消費者法制度における脆弱性概念の捉え方や、デジタル取引と消費者の脆弱性の関係等が挙げられております。これに関連しまして、当事者やその支援者の問題意識等を把握するために、高齢者、若者、生活困窮者、医療サービス利用者、障害者及びその家族等を支援する活動を行う団体等のうち、協力を得られた延べ8団体に対しまして、典型的な消費者被害やその発生原因などにつきまして、消費者庁職員によるヒアリングを行いました。
2ページ目では、それぞれの団体が支援する対象ごとに典型的な消費者被害を一覧表にしております。投資詐欺、スマートフォンを利用したキャッシュレス決済等による多重債務、ロマンス詐欺につきましては、どの団体でも比較的よく見られるようです。また、高齢者につきまして、訪問販売によるリフォーム工事や点検商法、還付金詐欺、いわゆるサブスクリプション被害の報告が多くありました。若者につきましては、オンラインゲームへの高額課金、ホストクラブ等の被害が見られ、未成年では通常入手できない酒・たばこを対面やオンラインで高額販売するという手口もあるとのことです。医療サービス利用者につきましては、美容医療やオンライン診療による被害のほか、本来不要であるような衣服等を入院セットと称して強制的に購入させる事例もあるとのことでした。
3ページ目では、消費者被害発生の原因となっている脆弱性につきまして、ヒアリングを行った団体の一つから示唆いただいた分類を参考にしまして、個人特性と環境要因に分けて記載しております。個人特性としましては、誘惑への弱さや障害、判断能力不足、認知能力の衰え、知識・情報の不足、様々な不安といったものが挙げられていました。環境要因としましては、孤独、虐待、社会経験やコミュニケーション支援の欠如といったものが挙げられていました。
4ページ目では、第三者の介入を必要とすると思われる事例につきまして、高額・不合理な取引金額、健康への悪影響という2点に関するものが多く寄せられました。一方、第三者による介入の難しさにつきましても、明らかな詐欺といったものでもなければ難しく、本人が信じ込んでいる場合の介入は非常に難しいという御意見をいただきました。デジタル化に関連した御意見として、スマートフォン上の取引が支援者の目から見えにくいこと、障害等によりデジタル上のお金に対する想像力が不足している場合があることも挙げていただきました。
5ページ目では、消費者の意思決定・消費行動をサポートする技術・サービスにつきまして、AIによるアラートシステムや詐欺メール等への対応、スマートフォンでの決済額の上限設定、相談対応アプリ、検索内容に連動して消費者被害に関する注意喚起を掲示するといったアイデアを挙げていただきました。
6ページ目はヒアリングに御協力いただいた団体の一覧です。皆様、お忙しい中御協力いただき、大変貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございました。
私からの説明は以上になります。
○沖野座長 ありがとうございました。
今、御説明のあった内容につきましての御質問や御意見につきましては、後ほど質疑応答・意見交換の際に併せて頂戴したいと存じますので、次の議題の有識者ヒアリングに入りたいと思います。
《2.②有識者ヒアリング (玉手慎太郎 学習院大学法学部教授)
③有識者ヒアリング (池田弘乃 山形大学人文学部教授) 》
○沖野座長 本専門調査会の前半の検討テーマには、消費者法制度における脆弱性概念の捉え方や客観的価値実現の位置づけがあります。これらのテーマにつきましては、これまでヒアリングや意見交換を重ねてきたところですが、そこでの議論を踏まえますと、消費者法制度のパラダイムシフトとして、既存の枠組みにとらわれることなく消費者の脆弱性を正面から捉え、消費者の脆弱性への対策を基軸とすることが考えられますが、なぜそうすることが必要なのかについて、また、客観的価値実現と人の意思決定の在り方との関係などを検討していく上では、そもそも個人の意思決定とはどういったものなのかといった点、あるいは消費者の脆弱性に配慮した社会の在り方をどのように考えていくか、あるいは考えていくべきなのかといった点について議論を深める必要があると考えられます。
そこで、本日は、政治哲学・倫理学が御専門である玉手慎太郎先生に「対等性・脆弱性・相互依存性-政治哲学から消費者の脆弱性を考える-」というテーマで、また、法哲学が御専門である池田弘乃先生に「『ケアの倫理』と消費者としての人」というテーマで、それぞれ御発表をいただきます。それぞれ15分程度でお願いしておりまして、その後に一括して質疑応答・意見交換をさせていただければと思います。
それではまず、玉手先生、よろしくお願いいたします。
○玉手教授 ただいま御紹介をいただきました学習院大学の玉手です。
では、スライドのほうを共有して、そちらを利用しながらお話をさせていただければなと思います。本日は、「対等性・脆弱性・相互依存性-政治哲学から消費者の脆弱性を考える-」というちょっと仰々しいテーマを挙げさせていただいたのですが、なるべくかみ砕いてお話をしていきたいかなというふうに思います。
初めにちょっとした自己紹介なのですが、私は学習院大学の法学部政治学科で哲学を教えているのですけれども、もともと学部、大学院は経済学部経済学研究科におりまして、経済学は難しいなと思いながら一生懸命勉強をしていました。その後に幸いなことにお仕事をいただけて、東京大学の医学部の医療倫理学の研究室に配属されまして、そこで倫理学のことも勉強して、今に至ります。というわけで、経済学をやった後に医学部で倫理学をやって、今は法学部の政治学科で哲学をやっていますので、一体自分でも何をやっているのか分からないところがあるのですけれども、これだけ迷子になりながら、最終的にこういう場でお話しできる機会をいただけるまでになれたのはうれしいかなというふうに今思っております。これから15分ほどよろしくお願いします。
さて、私の専門の話から、脆弱性及び意思決定ということについて、今日は2つのポイントに集中してお話を進めていきたいかなと思います。1つ目には、正義と幸福というものの関係をどう考えるかということ。もう一つには、より本丸で、意思決定の脆弱性と相互依存性をどう考えるかということについて順番にお話をしていきたいと思います。
まずは背景の部分というか、政治哲学でそもそも正義とか幸福ってどうなのでしょうねということです。今回準備させていただいたスライドはちょっと情報量が多いのですけれども、これはしゃべることを一通り書いてしまっただけですので、別にみっちり全て理解していただきたいということではありませんので、気楽に眺めていただければと思います。
では、本題に入ります。
正義というものは、社会には正義が必要だとか、不正はよくないとか、いろいろな正義が語られているわけですけれども、正義は必ずしも人を幸福にすることを目的とするものではない、ということが前提にあります。現代の政治哲学の基礎をつくったジョン・ロールズというアメリカの哲学者がいるのですけれども、社会正義とは何ぞということをこの人がおよそ定式化したと言っていいのではないかと思うのですけれども、次のように言っています。正義の原理の役割というのは、「社会の基礎的諸制度における権利と義務との割り当て方を規定するとともに、社会的な協働がもたらす便益と負担の適切な分配を定める」ことにあると。非常に仰々しくて分かりづらいわけですけれども、かみ砕いて言ってしまえば、一部の人だけが便益を得て、別の一部の人が負担を押しつけられる、そういったことがないように権利と義務というものをうまくルール化しましょうということがここで書いてあるわけです。一部の人たちが便益を得て、一部の人が負担を得てはいけないと、便益と負担との適切な分配を定めるというのはそういうことを意味しているのだろうと言えるわけです。
そうすると、なぜ正義が必要なのかといえば、これは究極的には、人々は対等な存在であって、そのことが尊重されなければならないからというふうに考えられるわけです。まず、人々は対等に扱われるべきだということが正義の背景の最もベースの部分にあるだろうということが言えると。言ってしまえば、ちょっと極端な言い方ですが、もし人々が対等に扱われなくていいなら、別に正義って不要ですよねと。力のある者が力のない者を支配しても別に何の問題もないでしょうということになってしまう。それは我々が家畜を飼う場合と別に変わらないのではないか。でも、我々は、人間社会はそのようなものであるべきだとは思っていない、ということがポイントになってくるわけです。
もちろんある種の功利主義、いわゆる最大多数の最大幸福が正義なのだという立場を取るのであれば、正義と幸福は一致します。こういう考え方もあるわけですけれども、正義が常にそうなるわけではない。あくまで正義と幸福が一致するというのは一つの特殊な、一定の魅力はあるわけですが、あくまで一つの考え方になるということです。
このことを踏まえて考えたとき、消費社会の複雑化という現実は当然あるわけであって、これによって一部の人が一方的に不利益を被っているということであれば、これは当然、それを防ぐルールを設定することは正義にかなうと言えそうだろうと思います。なぜかというと、社会の中で一部の人が一部の人を犠牲にしている、俗な言い方をすれば、食い物にしているような状況は正義にかなうものではないと言えるだろうからです。
他方で、個人が自分の判断で行動した先に損をすること、ある種の自業自得というか、幸福を実現し損ねることについて、それ自体は必ずしも正義に反することではないと考えられると思われます。というのも、人々を対等な個人として尊重するというのは、自由を尊重すること、言ってしまえば、一方的に保護すべき対象とは見なさないことを意味するわけであって、要は日本語で言うと一人前ですよねと言うということは、その人の自由を認めることになりますので、失敗する自由を含意することになります。一切失敗しないように保護するというのは、対等な存在とはみなさないことになってしまうから問題があるわけでね。
このことをごく素朴に言ったのが、イマヌエル・カントです。皆さんも耳にしたことがある哲学者だと思うのですが、カントは『啓蒙とは何か』という有名な本の中でこのように言っています。「啓蒙とは何か。それは人間が、自ら招いた未成年の状態から抜け出ることだ」と。「未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである」。これは自分で考えられないということですね。「人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ」というふうに、非常に鼓舞するような言い方をしているわけですが、誰かに指示を仰がないと決められないみたいな状態ではなく、ちゃんと自分の頭で考えて決めるということ、理性を使って生きていくことが、啓蒙によって実現すべき目標なのだと考えるわけです。
ところが、そうはいっても、他人の指示がないと選択が難し過ぎるというのが現代社会なわけであって、この啓蒙の個人の自律という理想と社会の複雑性というのは一体どうバランスするのかというのが、ここでの問題になってくるのではないかと思います。
社会はカントの時代よりもはるかに複雑になっていますので、現代では、個人の幸福の増進のために介入することが全部誤りというわけではもちろんありません。要は、個人の幸福について介入するのは自律の侵害だから全部駄目ですよと言われているわけではなくて、正義は別に正義以上のことをなすことができますし、実際にしています。ただ、その場合には、やはり個人の自律の尊重というのは無視され得ないだろうということがあるわけですね。それゆえ、人々の幸福のために強制的に介入するというパターナリズムであっても、近年では特に手段パターナリズムと目的パターナリズムの区別というものがありまして、これは結構重要な考え方なのではないかなと思うので、紹介したいと思います。
ここで手段パターナリズムというのは、当人が自ら設定した目的をうまく達成できない場合に、達成するための手段を強制するというような場合があると。要は、私が今日のお昼にラーメンを食べたいと思ったときに、おいしいラーメン屋さんがどこにあるか分からないとか、ラーメン屋さんへの行き方が分からないというときに、ある程度教えてもらうのは別に普通のことですね。この道を使いなさいと言ってもらうとか、手を引っ張って、こっちに来ればいいから、みたいにやってもらうこと自体は、ありがたいのではないかなと思うわけですけれども、これに対して目的パターナリズムというのは逆で、そもそもおまえはラーメンじゃなくてサラダ定食を食べるべきだみたいなことをやる場合が目的パターナリズムなわけです。つまり、本人の目的設定ではなくて、その当人の目的設定というものは幸福につながっていないとして、目指すところ自体を強制してしまう場合があると。この場合には、個人の自律の尊重の側面からはかなり問題含みなのではないか、プロブレマティックなのではないかということが一般には言えると思います。これはバランスなわけですけれども、この辺りの区別はしたいと。
そうすると、例えば考えてみたい問いとして、デジタル化やAIや高齢化に伴う問題、先ほどの御報告にあったようないろいろな問題があるわけですけれども、これはどちらのパターナリズムが必要なのだろうかなと。そこで、いわゆる消費者問題を抱えている人たちが、目的はちゃんと自分で決定できているのだけれども、手段にトラブルを抱えているのか、それとも彼らはそもそも目的設定自体が間違っているのか、これを考えてみることができます。ただし、目的設定自体が間違っているという言い方は非常に介入的で、先ほどありましたが、本人が強くそれをやりたいと思ったときに強制するのは難しいというヒアリングの結果が出たと思うのですけれども、そういうことが出てくるだろうと。そこで、いや、あなたの考えていることは愚かなのだというふうに一体どの立場から言えるのかというのは難しい問題になってくるだろうと思います。
以上のことを含めて、このように考えてくると、結局、個人の尊重されるべき自律とは何だということになってくるわけでして、その点で改めて意思決定ということを考えてみたいということになります。
脆弱性という言葉を使うこと自体、もう一回考えてみてもいいのではないかというのが最初のスライドです。その決定は当人が自らの意思で決めたものだとは言えない、ちゃんと決められていないよねというロジックは結構強力で、実はいろいろな決定に適用できてしまうわけです。そもそも外部の影響を全く受けていない意思決定というのはあり得ないわけでして、であれば、あらゆる意思決定について外的影響を想定できる。ちょっと堅い言い方をしていますが、要するに、それは真の自己決定ではないと言えてしまうかもしれない。
私は先ほど申し上げたように、これまでのキャリアにおいて非常にふらふらとしていて、専門領域を絞られなかったわけです。ではなぜそうだったのか。私が自分で選んでそうなったのか、それともいろいろな人の周りのアドバイスに振り回されていたのか、偶然の出会いがあったのかといろいろなことを考えて、それは本当に私の意思決定なのですかと言われると、怪しいかもしれない、ということがどうしても出てきてしまう。なので、意思決定能力に脆弱性があるのだというのは、非常にうがった見方をすれば、個人の自由というものを否定する強力なロジックになってしまうということがあります。
また、これも非常に枠が広い話になりますが、現代の日本、というより近代社会全般においては、自ら意思決定して、その結果を自らがなしたことで引き受ける態度、一言で言うと、それは私がやったことです、その結果は私の責任ですみたいな態度ですね。これが前提になっているわけです。というか、これが前提でなければ刑罰とかはできなくなってしまいますので、自分で決めましたということを引き受けることが一応求められています。なので、意思決定が脆弱だから決められないのですよというと、これは個人の主体性を否定するようなロジックにもなってしまうわけですね。
例えば、ここで考えてみたい問いの2つ目、ちょっと意地悪ですが、消費契約に困難を抱えている人の選挙権は否定すべきなのだろうかどうか、これを考えてみることができます。つまり、その人が状況を考えて自分で自分のことを決められないというのであれば、当然政策のことなんか考えられないだろうから、選挙権を与えてしまうと、選挙の結果に対するノイズになってしまうから剝奪すべきだという議論ができるかというと、これは多分できないと思うのです。これはなぜできないかということを真剣に考えてみる必要がある。1つには、あなたは選挙権を行使する市民ではないのだという言い方をするのは、かなりその人の自由や主体性の否定になってしまうからできないわけですけれども、では、消費契約だったらいいのか、という話は1つ考えられるだろうと思われます。
このことを考えたときに、そのようなことを言っても、事実として、主に高齢者を今挙げていますけれども、高齢者はしばしば自身の利益に反する決定をしてしまう。これは若年者でも変わりませんが、脆弱性の問題を無視することができないように思われるわけですが、でも、そのような判断ミスというのは脆弱であることに本当に由来するのかということは、また1つ考えることができるだろうと思います。
例えばですけれども、先ほど社会的孤立といった話がヒアリングで出てきて、環境要因として挙げられていたと思うのですが、これは大きいような気がして、高齢者が一人で決めていて、誰にも相談できないからミスるのではないかと。実際、高齢者に限らず、一人で決めろと言われても大抵の人はうまく決められないということがありまして、私も普段、人生のいろいろな岐路でどうしようかなということを妻に相談したり、家族に相談したりということをしているわけです。
この場合、よく英語で区別されるのですが、一人きりでの、要は独立の、自ずから立つの方の自立と言ってもいいのですが、インディペンデントな決定と、オートノマス、自律的な決定というのはイコールではないと区別することができると思います。
近年の1つの概念、この後の池田先生のスライドにも出てくるもので説明いただけると思うのですが、自律的な決定のためには他者の存在が不可欠であるという考え方があります。これを関係的自律と呼びます。通常、自律というのは、私が決めるというふうに、1人の私が表に出てきてしまうのですけれども、そうではなくて、他者との関係性の中でこそ自分らしい決定ができるでしょうというような考え方があります。
この場合の相互依存性というものは、別に脆弱性と同じことではないだろうと。脆弱性というのは、要は悪い、弱い、理想的な状態にないということを含意してしまうわけですけれども、別にそうではないよね、だって、依存しないことが理想ではなければ、別に相互依存関係にあったからといって、それは本来発揮できる能力が足りないという話には別にならないでしょう、と言えます。
というわけで、医療現場の意思決定の話に少し携わったことがあるので、その辺の話も今日はちょっと情報提供的に紹介をさせていただければなと思うのですけれども、医療現場のインフォームド・コンセントをめぐる議論においては、自律的な意思決定のためには適格性と真正性の2つが必要であると言われることがあります。この場合、適格性というのは、十分な判断能力を有していることであって、これはもちろん十分な判断能力がなければインフォームド・コンセントは取れませんので大事ですね、という話になります。もう一つが真正性、これは訳すのが非常に難しくてオーセンティシティと片仮名で書いてしまう場合も少なくないわけですけれども、自らのアイデンティティーに基づいて、それこそが自分自身の選択だと納得できるような選択を下すことができることとふわりと理解していただいてよろしいかと思います。
もし自律的な意思決定というのが判断能力だけの問題ではない、つまり判断能力があっても自分一人で決められるようなものではなくて、やはり他人との関係性の上にあるよねということを考えるのであれば、適格性のみを問題にして、それをサポートするのは不十分であって、真正性についてもサポートすることが必要なのではないですか、という議論が医療現場でもされたりします。例えば終末期の患者さんに対して、家族との対話時間を十分に確保したりとか、医療従事者が予後の話だけではなくて価値観、どんなふうに人生の終わりを迎えたいかみたいなことも話し合ったりすることが大事なのではないかと言われたりするわけです。この場合に求められているのは、的確な判断能力、理解力や思考力だけではなくて、まさにそれが私の生き方だったんだというふうに納得できることであるわけです。すると、必要なのは必ずしも合理的な意思決定とは限らないのではないかということが言われたりするわけです。
ちょっと紹介なのですけれども、最近読んだ本でとても面白い本があって、『急に具合が悪くなる』という哲学者の方と人類学者の方の往復書簡の本なのですが、この中で哲学者の人が次のようなことを言ったりするわけです。そもそも決めるってできるのかという話があって、特に終末期の意思決定なんかはすごく難しいわけですね。難しい意思決定のときに、どうしても不確実性があるから、合理的に情報を全部評価して決めるなどというのは甚だ無理だろうということがあると。「結局、私たちは、選択場面に現れた偶然を出来上がった事柄のように選択することなどできません」。AかBかCかみたいに言うことはできないですよねということがある。「では、何が選べるのか」というと、「この先不確定に動く自分のどんな人生であれば引き受けられるのか、どんな自分なら許せるのか、それを問うことしかできません。その中で選ぶのです。だとしたら、選ぶときには自分という存在は確定していない。選ぶことで自分を見いだすのです。中略。これこれな人だから、あれこれを選ぶのではなく、あれこれを選ぶことで、自分がこれこれな人間であることが明らかになる。偶然を受け止める中でこそ自己と呼ぶに値する存在が可能になるのだと」。
非常に抽象的な話をしているわけですが、決めるということと自己の関係ってそんなにすっきり割れるものではないのではないかということがありまして、この話なんかを僕はかなり共感的に読んだところがあります。要するに、その人の価値観に沿った意思決定というふうに口で言うのは簡単だし、理論的に把握するのも簡単なのですけれども、実際にそんなに選択前に価値判断が既に形成されているようなものとして捉えていいのかということは、1つ考えられるのかなと思います。
最後に、今日お話ししたことをもう一回、箇条書きでまとめると次のようになります。
正義とは、人々を幸福にすることでは必ずしもなく、人々を対等な存在として尊重し、対等な存在として生きていけるような仕組みを整えることであると。対等な存在として尊重するとは、各人の自由を認めることであって、そうするとどうしても失敗する人が出てきてしまうのは避けられない。近年の問題は、特に消費の場面で、失敗する人というのが増大しているということにある。
しかし、ここはちょっとまだ試論的ですけれども、必ずしも人々が脆弱性を持つからではなくて、むしろ関係性をうまく構築できていないからかもしれない。考えてみれば、そもそも人間はたった一人で意思決定できる存在ではない。大事なのは、合理的な選択をなすことではなく、選択に納得できることかもしれない。支援するべきは合理的な選択ではなく、その人がその人らしく納得して生きていくことであると。なすべきは、脆弱性を根拠にして人の自由や主体性を否定することではないのではないか、ということをここでは考えているということです。
時間になってしまいましたが、スライドをもう一枚だけしゃべらせていただきたいのですけれども、座長、よろしいですか。
○沖野座長 お願いします。
○玉手教授 ここまでまとめてきたのですが、とはいえ、これはちょっと抽象的過ぎるので、もうちょっと具体的な話はないのかということが出てくると思います。なので、言えそうなことを2つほど絞り出してきたのですけれども、まず、消費者問題というのは、ルールづくりだけではなくて、地域社会の問題とか労働問題とかをトータルで考えて対応すべきものだ、というのが1つあるのかなと思います。生活の基盤であるはずの人間関係とかコミュニティーというものが衰弱しているのを消費者法制で何とかしようとしても、やはりちょっと厳しいのではないかということが1つあるかなと思います。
とはいえ、結局人間関係やコミュニティーという社会的な基盤を政策であれこれするということ自体が非常に難しいので、できることが結局これしかないという事実はあるのかもしれないということは私も思っているところです。
あと、言えそうなことの2つ目で、資料をいろいろ拝見したのですけれども、消費者団体って結構面白いんじゃないかなということは今考えています。問題提起回路として消費者団体が問題について提起していくということが言われていたのですけれども、消費をめぐる人々の意思決定をサポートする人的つながりみたいな、まさに生活協同組合的なものの機能は結構大きいのかなと思っていて、そんなふうに再定義できる可能性もあるかなみたいなことを無理やりひねり出してみたところではあります。
スライドの最後のところですが、少なくとも、現代では人々は脆弱性を有しているからルールによって守ってあげようというのが既定路線ではなくて、もっとこれ以外の考え方で消費者の保護について考えていくこともできるのではないかなということが、今回の私の報告の最終的な一つの結論ということになろうかと思います。
すみません。後半かなり早口になってしまったのですが、以上になります。ありがとうございました。
○沖野座長 玉手先生、ありがとうございました。
それでは、引き続き、池田先生からも御報告をいただきたいと思います。15分程度を目安ということで、どうかよろしくお願いいたします。
○池田教授 池田弘乃と申します。山形大学で教員をしております。専攻は法哲学なのですが、特にジェンダー、セクシャリティーに係る法制度を関心を持って研究しておりまして、フェミニズムの中でも、後でお話ししますが、フェミニズムの中から生まれてきた1つの発想としてのケアの倫理という考え方にすごく関心を持っていまして、そのことについて今日お話をさせていただきます。
こういう時間を与えていただいてありがとうございます。ただ、どこまでお役に立てるかどうかは全然自信がないのですが、お話しさせていただきます。「『ケアの倫理』と消費者としての人」というふうに書いたのですけれども、最初、ケアの倫理について簡単に振り返った後で、消費者法との関連みたいなことについて、どこまでいけるかは分からないのですが、お話ししてみようと思います。
最初にまず、ケアの倫理というものなのですけれども、これはもともとどういう文脈で出てきたかというと、発達心理学とかでの人間の道徳性の発達、子供から大人になるに当たって道徳判断がどういうふうに発達していくのだろうかというのを考えるときに、今も基本的には受け継がれていると思うのですが、1980年代当時主流の心理学における道徳性の発達理論として、例えばコールバーグという人がよく引き合いに出されますけれども、子供は最初は罰を避けるために命じられたことをして道徳に従っているのだけれども、だんだんそれだけではなくて周りとの関係の中で仲間のルールを守るというふうになっていって、さらにはそこからも超えて、単に仲間内の約束を守るだけではなくて、立場を入れ替えても成り立つような普遍的な道徳判断をするようになっていくのだみたいな図式がありました。
これに対して、キャロル・ギリガンというコールバーグの弟子に当たる人が、道徳性の見方について、これとは違うもう一つの声、別のパースペクティブがあり得るのではないかというところから出てきたのがケアの倫理というお話かと思います。
この話をするときによく引き合いに出されるのが、ハインツのディレンマという仮想事例なのですが、これは例えばコールバーグとかギリガンが小さな子供さんにこのディレンマのことを聞いてみて、ハインツさんには瀕死の配偶者がいるのだけれども、高い薬がないと治らないと。でも、とても高くてハインツはお金を用意することができなかったと。そのとき、ハインツはこの薬を盗んでも配偶者の命を助けるべきだろうかと。こういうディレンマについて、答えが何かというよりは、これについてどういうふうに推論して答えを導くかというところから、子供の発達がどれぐらいなのかを見てみようという話があるのですけれども、例えば同い年のジェイクという男の子とエイミーという女の子がいたときに、ジェイクは、これは抽象的に言えば一方で所有の価値、財産の価値という薬の価値という話と、配偶者の命という生命の価値という2つの権利や価値が衝突していると。この権利衝突をどういうふうに裁いていったらいいだろうかというふうに考えたと。一方、同い年のエイミーは、そういうふうに切り分けて整理して権利衝突をどういうふうに優先順位をつけるかという話ではなくて、ハインツのディレンマを聞かれたときにどうすべきだという答え方をなかなかしない。「いや、もっと話し合えば何とかなるかもしれない、薬屋さんともう一度交渉してみてもいいかもしれないし、盗んでハインツが牢屋に入ってしまったら、かえって配偶者の人は困るかもしれない」とか、そういう話をいろいろしている。いわば権利衝突の整理という仕方ではなくて、関係性の中でコミュニケーションを通じて何とかこの問題の解決の道筋を得られないだろうかという応答の仕方をしたとする。このような答え方をした同い年の男の子と女の子がいたとして、コールバーグの図式だけを前提にすると、ひょっとしたらエイミーはジェイクに比べて低い発達段階で、権利の衝突の認識とか普遍的な判断ができていないというふうに判定されてしまうかもしれない。でも、ギリガンがこれに対して、エイミーは決して劣った発達段階にいるということではなくて、道徳的な問題について別の仕方で、もう一つの声でアプローチしていたのではないかという問題提起をしたわけです。
この正義の倫理とケアの倫理という対比は、正義の倫理というのが、何が正義にかなうか、何が正しいのかという問いを考えていくのに対して、ケアの倫理というのは、他者のニーズにどのように応答すべきなのかという問いにこだわるアプローチなのだという言い方をギリガンはしています。
正義の倫理とケアの倫理という対比をギリガンがしたのですが、この対比は、前提としている人間関係自体が違う見方をしているという話につながっていまして、例えば道徳的な問題を権利の衝突、葛藤として見るところからは、自己と他者というのは同等の真価を有しているので、いろいろな力の違いはあるけれども、公正に扱われるのが大事なのだという人間関係の理想像が見えてきます。一方、ケアの倫理、他者のニーズにどう応答すべきなのかというところからは、人間社会の描き方自体が、個別の具体的な一人一人がいろいろな関係性の網の目の中で様々な相互関係を持っているというふうな社会像が広がってきます。
このケアの倫理について、一言でギリガンがこういう言い方をしています。「全ての人が他人から応えてもらえ、受け入れられ、取り残されたり傷つけられる者は誰一人いない」という理想なのだと。
正義の倫理が自己中心的なところから立場を入れ替えても成立するような普遍的な判断に発達していくように、ケアを大事にするという態度も、実は成熟を遂げるのだという言い方をギリガンはしています。最初は例えば自分自身の利己的な生存を重視している段階から、でも、ケアとかつながりが大事なのだということに気づいて、最初は逆にそちらのほうをむしろ強調し過ぎてしまって、自己犠牲とか無私とか期待される社会的役割に順応するという態度がだんだん生まれてくる。でも、さらにもっと成熟していけば、単なる自己中心的でも自己犠牲でもなく、自己のニーズと他者へのケアを統合するような視点がだんだん成熟していくのではないかと。その意味で、正義のときに言ったような普遍とはちょっと違うのですが、ケアというのもある種の誰しもが身につけ得るような倫理としての視角を持つのではないかというふうにケアの倫理についてギリガンは言っているのではないかというふうに私自身は把握しています。
この正義の倫理とケアの倫理の関係についてなのですが、ギリガン自身は、一番最初の『もうひとつの声で』という本のときには、この2つの倫理の統合とか、あるいは結婚という言い方をしていたときもあったのですが、だんだんその後の議論展開の中で、この2つの倫理というのは一種の反転図形あるいは多義図形のようなものかもしれないという言い方をするようになります。反転図形というのは、ここにも1つ描きましたけれども、よくウサギアヒルと呼ばれるような、インクのしみとしては全く同じ、物理的には同じものなのですが、左側のほうのものをくちばしと見るとアヒルに見えてきますが、これを耳と見るとウサギに見えてくるというように、全く同じものがパースペクティブの在り方によって違うものに見えてくるというものです。ギリガンは、ある倫理的な状況というのも、このように正義の点から見ていくか、ケアの点から見ていくかで、同じ問題が異なったところがすごく見えてくるのではないかと。その意味で、正義の倫理とケアの倫理というのが、どちらもそれぞれに大事だという言い方をして、単純な統合でもなければ、単純にどちらかが優位するのでもないという見方をだんだん展開していくようになります。
このケアの倫理というところから見ていったときに、消費者法とか消費者がどう見えてくるかということですけれども、ここで脆弱性という話が出てくるのですが、人間の一生というのを改めて考えてみると、生まれてからしばらくは誰かに養育される時期を経て、一応少したつと自立した成年ということに建前上はなるわけです。でも、それもやがては老いていき、最後に亡くなるということで、括弧つきの「自立」というのは、育てられるときと衰えていくときに挟まれている期間である。この意味では、むしろこの脆弱性こそが人間の条件かもしれない。考えてみるとちょっと陳腐な話かもしれないのですけれども、改めて脆弱性というのは人間の条件なのかもしれないということが気になってくるわけです。
この点、脆弱で誰かからケアを受ける存在というのは、言ってみれば、通常の意味で何かを生産するという意味ではなくて、ひょっとしたら、ただひたすら消費をするということもあるかもしれない。この意味での人間というのは、現在の消費者法の用語としての事業者に対する消費者という意味ではないのですが、何かを生産する生産者に対する意味での消費者という点で、人間の根源的な条件として、消費する者であるというものがあるのかもしれないと思ったりもします。
この人間の脆弱性というのを正面から受け止めるのが、これからの国家の、あるいは政治の課題なのではないかというのは、ファインマンという法学者も言っていることです。この脆弱性について、ファインマンなんかは、今言った人間の条件としての脆弱性、普遍的な脆弱性、人間というのは小さいとき、それから老いて衰えていくと、人間誰しも全ての人が不可避的に依存を抱えるという話が1つはあります。ここからは、不可避的に誰もが抱える依存を誰かがケアしなくてはいけない。現在の社会では、誰かをケアすると、しばしばそのケアしている人自体も脆弱性を抱えるというような問題が見えてきます。
しかし、脆弱性については、これ以外にもマッケンジーという人が、普遍的な脆弱性だけではなくて状況による脆弱性にも触れています。先ほども冒頭で消費者庁の方々から御説明がありましたように、高齢者であるとか、若者であるとか、生活困窮しているとか、あるいは失業したとか、そういういろいろな状況に応じた脆弱性も生まれてくるということが着目されます。
マッケンジーが1つ面白い言葉を言っていまして、パソジェニック・バルネラビリティー、脆弱性の源といったようなニュアンスかと思うのですけれども、脆弱性を抱えている人に対して私たちが例えばケアしたり、対処したりしようとしたときに、うまくいくことももちろんあるけれども、逆に対象となる人の脆弱性をさらに悪化させてしまうこともあるかもしれないというような言い方をしています。例えばそれは、大変だからということで介入してあげると、その人が余計無力感を悪化させて、さらにセルフネグレクトに陥ってしまう、そんなような状況かもしれないなというふうに私自身はこの言葉を見て考えたりもしました。バルネラビリティーというのは、脆弱性とか傷つきやすさと訳すこともありますけれども、大川正彦さんという政治学者は、攻撃誘発性という訳語も昔からあるのだということに着目していて、これはなかなか示唆的な訳語ではないかなと思ったりもします。
こういう脆弱性を抱えている人間というところからは、自律自体の見方、オートノミーの見方自体を転換していく必要があるかもしれないという話が見えてきます。
関係的自律というのは、さっきの玉手先生の資料にもあったので、私は実は玉手先生から説明していただけると思ったら、玉手先生も私がとおっしゃっていたので、相互依存になってしまったのですが、この発想からは、インディペンデントではないのだけれども、オートノミーをもつ生というのがあり得るはずだと考えます。しばしば自立と自律というのは並列して使われてしまうのですけれども、分けることができるかもしれないと。そもそも私たちは社会関係の中で生きていると。だとしたら、自律性というのは個々人の孤立した能力としてではなくて、どのような社会関係の中にあるかに左右されるものとして考えていくといいのではないかと。相互依存を生きる中で、自分の人生が自分のものであることというのをいかに保障するか。これは多分、玉手先生の言葉だと納得感というところにつながってくるのだろうと思うのですけれども、こういう自律観のもう一つの見方ができるのではないだろうかと。この点から、脆弱な人とか、脆弱な人をケアする人にどういう制度が必要なのかというのを考えていくこともできそうだというわけです。
この点では、例えば健常な青年男性というのも、本当にインディペンデントなのかといえば、誰かがケアを提供しているのだろうというところにも目が向いてくるわけです。ちょっと時間の都合でこの辺は少し省略します。
ケアの問題を大事に受け止めていこうということについて、私自身はケアというのは二面性を考えていくことが大事ではないかと思っていまして、一方でケアというのはコストでもあると。すごく重い負担になることもあるわけです。だとすると、それを誰がどう担うのかという公正な分担を探求していくことが非常に重要になります。
一方で、しかし、ケアというのは単なるコストではなくて、ケア関係にあるというのは独特の価値の源かもしれないと。この辺、私は専ら認知症のケアに携わっている人たちの具体的な声から日々学んでいるのですが、村瀬孝生さんとか六車由実さんという人たちは、ケアの受け手、例えば重い認知症のケアを受けている人は、傍目には何もしていないように見えるかもしれないけれども、実際にケアする人たちはそこから何かすごくかけがえのない人生を見直すような契機を与えられているのだと、こんな話を村瀬さんたちも紹介したりしています。
ケア関係の価値というのは、しかし、天下り的にこれが価値だと言ってしまうのはちょっと警戒が必要で、政治制度や国の制度ができることは、ケア関係の価値って一体何なのだろうということを人々が考えることができるように、ケアの公正な分担というのをきちんと整えていくことなのではないかと思っています。
最後に、この意味で、ケアについては、個々のどういうケアが必要か、消費者法の文脈だとどういう規制とか在り方が大事なのかというのを考えると同時に、そこに至るプロセスにおけるケア、例えば、「これこれこういうふうに規制します」とか、「選択肢状況はこういうふうになったほうがいいんじゃないでしょうか」という話をするときに、それを社会で討論し、共有していくプロセスというのが非常に重要になってくるだろうと思っております。
この点で、客観的な価値というのがひょっとしたらあるかもしれない。本人が幾らいいと言っても、それはさすがにと規制したり介入したくなることは恐らくどうしてもあるかもしれない。でも、そのときに単に天下り的に客観的価値として提示するのではなくて、これは大事かもしれないということの吟味や再吟味の過程を手厚く保障していくことが大事になるのではないかと思っております。
ケアの倫理というのは、いろいろな葛藤とか衝突の問題を、権利間の衝突としてではなくて、対話の中で問題を解きほぐしていくことを重視する営みというふうに私自身は見ています。人間の脆弱性というのは普遍的なものだとすると、脆弱性とか衰えを遠ざけることに執心しても、いずれは誰もが衰えるということを考えると、事業者とか事業者団体の人々も含めていつかは衰える。だとすると、いろいろなときに巻き戻せたり、吟味の過程が保障されているということは、誰にとってもよい社会と言えるのではないかというふうに考えたりしています。
ということで、最後は駆け足になってしまいましたが、以上でお話を終わりにさせていただきます。御静聴ありがとうございました。
○沖野座長 ありがとうございました。
玉手先生も池田先生も、時間の制約の中で最後少し急いでいただいたり、また削減してくださった部分があるかと思いますので、そういった点は改めて質疑応答や意見交換の中で補足等もしていただければと考えております。
そこで、以上の消費者庁の御報告、玉手先生、池田先生の御発表の内容を踏まえまして、質疑応答・意見交換をしていきたいと思います。御発言のある方は挙手で、あるいはオンラインの方はチャットのほうでお知らせいただきたいのですけれども、早めに退室される方がいらっしゃいましたら優先的に御発言等をいただきたいと思います。私のほうでは、石井委員、それから鹿野委員長がこの後のスケジュールの関係で早めにお出にならなければいけないと伺っておりますので、この方々からもし先に御発言等があれば、それをお聞きしたいと思いますし、あるいは御考慮中であれば、ほかの方からお伺いしたいと思います。ということで、どなたであれですけれども、いかがでしょうか。
石井委員から先に何かおありですか。
○石井委員 ありがとうございます。私のほうからは特段質問等はございませんので、ほかの委員の御質問に進めていただければと思います。ありがとうございます。
○沖野座長 ありがとうございます。
では、もうお一方、鹿野委員長も時間が限られていますけれども、何か先に御発言等いただくことはございますか。
○鹿野委員長 ありがとうございます。いろいろと幅広い視野を持って脆弱性の問題について御紹介いただき、また御意見をいただきまして、ありがとうございます。
まだ質問として整理できているわけではないのですが、消費者法制度における脆弱性に関して1つ伺いたいと思います。消費者法制度との関係では、生身の人間の持つ限定合理性という意味での脆弱性と、それから本日全体にわたって言及されてきた高齢者とか若年者の抱える脆弱性という問題と、さらに、本日もどこかで言葉としては出てきていたかもしれませんが、消費者が状況によって陥るような脆弱性ということが、これまで問題として議論されてきたように思います。
そこで、特にお二人の研究者の先生方にお聞きしたいのですが、状況的な脆弱性というようなものについて、先生方はどのようにお考えなのか、先生方の整理ではどのように位置づけられるのかということについて確認させていただければと思います。よろしくお願いします。
○沖野座長 ありがとうございます。今まで脆弱性について大別して3つの分類をし、それにどう対応するか、あるいはどこまで対応するかとかいうことが問題ではないかという話をしてきていたのですが、本日の御報告の中で使われた脆弱性という概念についてすり合わせがまた必要なのかなと思っておるのですけれども、鹿野委員長が言われた3つの分類からしたときの状況型の脆弱性というものが、先生方のプレゼンテーションの中で、あるいはお考えの中でどういった位置づけを与えられることになるのかというのが御質問かと思いますけれども、玉手先生から先でよろしいですか。
○玉手教授 玉手です。先ほど池田先生に関係的自律の説明を回してしまったので、今回は私が先に引き受けるべきかなと思って先にお話をさせていただくのですけれども、脆弱性にもいろいろパターンがあって、その中でも特に状況的な脆弱性というものがありますねということで、正義の理論で考えると、やはり一部の人だけが一方的に便益を得て、一部の人だけに負担を押しつけるような、対等でないとか、公平ではないというようなことが問題なのだという視角で考えると、状況的な脆弱性というものが一部の人に固まっている場合は、まず非常に大きな問題になると思うのです。つまり、例えば典型的には低所得の人だけが陥りやすい脆弱性であるとか、あるいは場合によってはある種の人種差別の差別対象になっている人たちだけが陥る脆弱性みたいなものは明らかに不正だと言っていいと私は思っていますので、そういったものについてはまず保護の対象とすべきだろうと思います。
その上で、あとは、ちょっと難しいですが、誰しもが経験するのだけれども、時間差があるタイプの脆弱性もあります。例えば先ほどの池田先生の御報告にもありましたが、誰でも年は取りますので、それに関わる脆弱性というのもあるのだけれども、実際には今それを受けている人は社会の一部であるといったものがありえます。これについても、全ての人が経験するという意味ではフェアなのですけれども、ワンショットで見ると、一部の人だけがある種の企業活動に狙われてしまうことは実際にあると思いますので、そういったことも介入すべきだろうなと思っています。
ただ、もう一方で、やはりバランスの話で考えると、結局そういう話を言い始めると、私の先ほどの説明でも申し上げましたが、状況的に脆弱ではない意思決定はあるのかというと、ないような気がします。我々が決めているとき、ほとんど常に認知負荷はかかっているし、完璧な合理性なんか持っていないので、そういったことについて全部、これも脆弱性がありますね、これも脆弱性がありますねと言われ続けてしまうと、かなりの範囲が政策の対象になってしまう。果たしてそれで本当にいいのかと。それこそ、池田先生のおっしゃった、むしろ脆弱性が繰り返されるような事態がある。つまり、脆弱性に対処することによって余計脆弱性が悪化してしまうようなこともあり得ると思いますので、どこかで線引きをする必要があるだろうと。その場合に、やはり状況的脆弱性の偏りというか、非対称にそれが人のところにかかってしまっているような状況こそが、真っ先に対処すべき状況的脆弱性と言えるのではないかなというのが私の考えているところになります。
以上です。
○沖野座長 ありがとうございます。
では、池田先生からさらにコメントなどありますでしょうか。
○池田教授 御質問ありがとうございます。私もまだ十分は整理できていないのですが、1つは今の玉手先生がおっしゃった偏りという話もありますし、状況による脆弱性、例えば失職、失業というのが典型的ですが、一時的かもしれないけれども、こじれるとそれがすごく慢性化したり、抜き難い脆弱性になるというところで、どうそうさせないかというような点でも、むしろそういう意味では至るところに状況による脆弱性があって、それをどう慢性化させないかという点でのその人を取り巻く社会関係や制度の在り方を考えていくというのが脆弱性を捉えるときの糸口になるのかなといったようなことを考えたりしています。
以上です。
○沖野座長 ありがとうございます。それぞれのお立場からの捉え方を明らかにしていただいたわけですが、鹿野委員長からさらに補足がございますか。
○鹿野委員長 ありがとうございます。私のほうでも今の御意見を受けてまた自分の考えも整理してみたいと思います。ありがとうございました。
○沖野座長 ありがとうございました。改めて脆弱性だとか、その分類というもののすり合わせというか再整理が必要だと思いました。貴重なインプットをいただいたと思います。
それでは、今の点でも、あるいはそのほかの点でも御質問や御指摘はございますでしょうか。
まず加毛委員、その次に室岡委員の順でお願いしたいと思います。では、加毛委員からお願いします。
○加毛委員 ありがとうございます。主として玉手先生に対するご質問ということになりますが、もし池田先生にもお答えをいただけるのであれば幸いです。
鹿野委員長が御指摘された脆弱性について私も関心を有しているのですが、玉手先生の資料の6ページでは、脆弱性という視点を設定することがマイナスの面を持ち得るとの御指摘があり、その点はそのとおりなのだろうと思います。他方、ここで問題とされる脆弱性と、例えば消費者契約法が規律する場面とを対比したときに、本日の御報告からどのような示唆が得られるのかということをお尋ねしたいと思いまして、御質問させていただきます。
玉手先生の御報告では、脆弱性とともに、関係的自律という概念が出て参ります。そして、関係的自律に関して、資料の8ページではインフォームド・コンセントに即して説明がされています。参考資料としてお送りいただいた御論文も大変面白く拝読したのですが、そちらでも書かれているように、自律的な意思決定には、適格性の問題と真正性の問題があり、そのうち真正性との関係で、関係的自律が重要な意味を持つものとされます。そして、関係的自律について、ある者のアイデンティティー等が他者との関係の中で形成されることが指摘される一方で、他者との関係には、適切な他者関係と抑圧的な他者関係があるのだとされ、そうすると、両者をどのように判断するのかが問題となり、その点が難しい問題であることが、御論文では指摘されています。
以上の理解を前提として、消費者契約法に話を移すと、消費者契約法が消費者に契約の取消権を与える場面のなかに、事業者による状況の濫用という類型があります。そのような類型は、玉手先生の整理によれば、真正性の問題ではなく、適格性の問題に位置づけられるように思われます。事業者が状況を濫用することで、適切な判断能力を失わせるような事態に消費者を追い込むことが念頭に置かれているからです。
そしてまた、問題となる状況をつくり出すのが事業者やその関係者であるという特徴もあります。インフォームド・コンセントの場面で問題となるような、患者の家族や患者の信仰する宗教団体などの他者との関係ではなく、取引相手である事業者が、消費者を一定の場所に閉じ込めて契約締結を迫ったり、デート商法のように契約を締結させる目的で一定の人間関係を構築して契約を締結させたりするといった場面が、消費者契約法では念頭に置かれています。そのような場面に限定して、消費者に契約の取消権を与えるのが、消費者契約法の態度であるといえるわけです。
以上の対比を前提として、玉手先生の御報告の最後の辺りで、消費者問題について法制度ができることは限られているという御指摘がありましたが、消費者契約法に代表される法律が規律しているのは、消費者の脆弱性が問題となる場面のうち、ごく限られた、事業者の行為の悪性が強いものに限られているのだと思います。そのことを踏まえて、もう少し法制度にできることがあるのではないかということを、この専門調査会では検討しております。関係的自律に関する御知見に基づいて、法制度による対応があり得ると思われる場合があるのかについて、お考えをお聞かせいただければ幸いです。
以上のほかに、もう一つお尋ねしたいのが、資料10ページで、大切なのは合理的な選択をすることではなく、選択に納得ができることであると書かれている点についてです。これもおっしゃるとおりであると思うのですが、他方、時間軸を入れると、ある時点では納得していたのだけれども、後になってそれを後悔するということは、人間にはよくあることだと思うのです。そうすると、ここでいわれている「納得」というのが、意思決定をした本人が納得し続ける状態を意味するのか、それとも、ある意思決定をした時点において本人が納得していることを意味するのかが気になりました。補足的な質問ということになりますけれども、もしこの点についてお考えがあれば、お聞かせいただければ幸いです。
長くなりまして申し訳ございません。
○沖野座長 ありがとうございます。
玉手先生に主として2点ということになりますけれども、いずれからでもお願いできればと思います。
○玉手教授 大変詳細にご質問いただけて、また、論文も丁寧に読んでいただいてとてもありがたく思います。幾つか質問事項があって、整理すると2つといわず4つぐらい御質問があったと思うのですけれども、順番にお答えしていきたいと思います。
まずは法制度にできることが何かというところの話で、少し最後駆け足になってしまったところもあって、もう一度お話をさせていただきます。法制度にできることは少ないと言ったのですけれども、それが本意ではなくて、どちらかというと、法制度に全てが解決できるほどの力はないのだけれども、他方で法制度以外に取れる手があるかというと、それは難しいところであって、基本的にはこれしかないというか、それ以上のことをやろうとすると社会の根底からの変革というのは非常に介入的になってしまうので、恐らく法制度でやるしかない。だから、射程が限られているけれども、この道具しかないというときに何ができるかということを真剣に考えるべきだろうということは、私はとても同意しているところであります。
その上で、社会の基盤が揺れているときに法制度で何とかしようとしても対症療法だろうと思うのですが、他方で対症療法も大事であって、根源的治癒をやろうとすると余計に体を壊すというのはよくあることでして、対症療法でしっかり続けていくというのも大事なのではないかなと思うところがあります。なので、そういったものの法制度に哲学や倫理学の話が何かしら貢献できればなというのは私もとても思っているところです。
2つ目に、バルネラビリティーの話が実際の消費者制度にどうつながるかという話で、これは僕の理解が実は違うかもしれないのですけれども、例えばデート商法であるとかロマンス詐欺というのは詐欺なので、これは別に消費者側が脆弱かどうかという以前に、正しい契約をしていないわけだから論外だろうというか、脆弱ではない人であっても詐欺されたら駄目なわけですから、その商法自体に問題があることは、まず脆弱性とは別の話なのではないかなという気がします。脆弱性がある人が引っかかりやすいのはそうなのですけれども、そもそもひっかけているやり方自体が正攻法ではないので、それは別の話だろうと。
そうではなくて、通常のいわゆる、この例えばの通常というのを挙げられるかどうかが僕にとってはすごく大問題なのですけれども、例えば一般的な認知能力と判断能力を持っている人であればだまされないことに、高齢者だとだまされてしまうというような状況があったときにどうするかというのが脆弱性の話であって、それはいわゆる通常の商取引の中でも、詐欺には当たらないけれどもちょっと分かりづらいみたいな書き方とか、ウェブ上の表示の仕方が非常に巧妙につくられているとか。詐欺までいっては駄目なのですけれども、契約書に行くまでにリンクを10個ぐらい踏まなければいけないというのは論外ですけれども、そうではなくて、同じ画面にあるのだけれども見づらいみたいなときに、高齢者とかのほうが引っかかりやすいのをどうするかという文脈で考えているところがあります。
その意味で、繰り返しますが、そもそも論外な商取引は論外であって、その上で脆弱な人をどう保護していくかというときに、そういう人たちを保護しようとすると、結局、契約能力の制限というほうに進んでしまうような気がしていまして、つまり、あなたは能力が低いから、そういう契約をするときにすぐ結べなくして、10日間時間をあげましょうみたいに契約能力を制限する方向にいくときに、果たしてそれが本当に対等に扱っていることになるのかというのが多分難しい問題になるだろうというのはここで考えていることです。
以上が2つ目の応答で、3つ目に、結局、納得するってどうなんだという話があるのですけれども、まず、短期的に納得なのか、長期的に納得なのかというのは全くおっしゃるとおり難しい問題があります。結局、人生丸ごと納得できるというときには、あのとき後悔したけれども、あれはあれで人生のためになったみたいなすごく難しいことを我々は考えているわけであって、納得できないまま流されてしまった経験があって今の自分があるから、トータルで言うとあの失敗があってよかったよねみたいに後から位置づけるときに、これは納得していないのか、しているのかというのは難しいわけですね。
実は私は納得という言葉で今回いろいろごまかしてしまっているのですけれども、少なくとも自分のやったことについて、ある種の真正性を感じるということが長期的にできることが大事なわけであって、契約を結んだ1週間後に絶対あれは間違っていたなみたいなことを思えれば、やはり契約を取り消せるとかというのはすごく大事なことなのではないかなと思います。
さらに、これは結局、最後にもうちょっとだけ私の個人的な意見を話させていただきますと、ニュースなんかでありますけれども、独居老人のところに毎週、お茶飲みに来ている契約者がいて、その中で家のリフォームというのを言われて、高いのだけれども、それで、恐らくこれは詐欺だろうと老人自身も気づいているのだけれども、毎週お茶飲みに来てくれたから、分かっていてあえてだまされるみたいなケースがあったときに、僕はこれは非常に真正性がある気がするのです。つまり、そこに人間関係があって、この子は多分私のことを金づるだと思って来ていてくれたのだろうということが分かってしまったけれども、でもいいやと思って契約を結ぶ、みたいなときに、それはよそから見たら非合理的だし、契約内容を理解していないしというふうになるかもしれないけれども、でも、そういったことも認めてあげる。あげるという言い方は僕は嫌いなのですが、認めるということがある種の対等な社会の在り方なのではないかなというふうに私は個人的に思います。
ただ、まさにそこがバルネラブルなのでしょうというふうに言うこともできてしまうので、だからこそ私はバルネラブルという言い方に非常に慎重であるべきなのかなという報告を今日はさせていただいたという形になります。
いろいろこちらも情報量が多い話をしてしまったのですが、ひとまず以上になります。追加でご質問があればぜひお願いします。
○沖野座長 ありがとうございます。
追加して、池田先生からも何かございましたら補足をしていただいて、なければ加毛委員にさらに何かあるかというのをお伺いした上で、室岡委員から御指摘いただきたいと思います。
池田先生から、何かこの点につきまして補足などはよろしいですか。
○池田教授 結構です。
○沖野座長 ありがとうございます。
加毛委員からはいかがでしょうか。
○加毛委員 ありがとうございます。大変理解が深まりました。やはり消費者契約法の規律対象は、相当に悪性が強い場面に限られているのだろうと思います。そのような現状のもとで、関係的自律という考え方を入れて、法制度にどこまでの対応が可能であるのかを考えなければならないのだろうと思います。また、玉手先生の御報告の一番重要な示唆は、法制度に限られない様々な対処を検討することの必要性であると思われますが、その点は、まったくそのとおりであると思いました。
ある人が意思決定をするときに、その人を取り巻く他者との関係をどこまで考慮に入れて、自律的な意思決定と評価できるのかという視点は重要であると思います。その際、玉手先生の御論文における、適切な他者関係というものを、どのように構築していくのかという視点は、法制度を含めた制度設計を考える際に、とても重要であると思いました。ありがとうございました。
○沖野座長 ありがとうございます。
それでは、室岡委員からお願いいたします。
○室岡委員 ありがとうございます。私からは、先ほどの加毛委員と関連した質問をお二方にさせていただければと思います。先ほどの御報告では、脆弱性やケアという視点について大変学ばせていただきました。他方で、消費者契約は、消費者だけでなく事業者側が必ずいるわけです。これは先ほどの加毛委員の質問とも大きく被る点ですが、改めて、今日のお二人の御報告から事業者側について何か言えることがないかをお聞きしたいです。例えばあり得る問題として、消費者の脆弱性を利用して搾取する事業者がいる場合などが考えられるかと思います。お二人の御報告に関して事業者側へ何らかの含意がございましたら、ぜひ御教示いただきたいです。
○沖野座長 ありがとうございます。これも玉手先生からでよろしいですか。先ほど詐欺的なものは論外だというお話はされたかと思いますけれども、事業者側への示唆というようなものがおありかということですが、いかがでしょうか。
○玉手教授 御質問ありがとうございます。一番聞かれたくなかったことを聞かれているようなところがあるのですけれども、今回スライドを準備しているときにいろいろ自分の考えをまとめたり、資料を洗いざらい読んだりしていて、どう頑張っても事業者向けの意見が私の中から出てこなくて、今回あえてその話をしていないところがあるのです。なぜかというと、いただいたテーマが脆弱性だったわけですが、脆弱性というのは基本的には個人が持つものであって、法人の意思決定の脆弱性という言い方は多分しないと思うのです。そうすると個人が対象であり、それに対して、個人の意思決定には関係性の観点があって、というふうに話を転がしてしまった時点で、事業者の顔が出てこないという議論になってしまって、スタート地点から方向性がそっちに行かなかったなというのがあります。
なので、結論から言うと、言えることはないのですけれども、それでも何が言えるかという話になるときに、1つはもちろん先ほど座長がまとめてくださったように、この前提自体がもしかしたら現状の認識は間違っているかもしれないのですが、やはり交渉力に非対称性があるのは間違いないだろうと思います。間違いないというのは分からないですけれども、私の理解としては、現代社会では、事業者と消費者に対して、消費者のほうが交渉力が弱いという理解が基本的にあると思いますので、そのことも踏まえて事業者側にはそれを搾取しないというか、悪用しないというか、別に法律を守っていればいいでしょう以上のことで、ちゃんとある程度、商業規範というか、ビジネス倫理を守ったことぐらいには法律以上には要求することはできるだろうかなと思っています。要は脆弱性につけ入るのは駄目だよねということがあって、そこは大事なのだろうなと思います。
よく三方よしみたいな話がありますけれども、昔は脆弱性につけ込んでしまうと評判が悪くなるとか、その顧客との商業関係が続かなくなるみたいなことがあってやりづらかったのだろうと思うのですけれども、今はもう大量消費・大量生産になってしまった以上、一度会った消費者と二度と会わないみたいなことが出てくれば、一発カモにしてしまっていいだろうという話は当然出てきてしまうので、そういった商取引の非対称性、及びマス性というか、大衆性みたいなものがある種の脆弱性を深めてしまっているだろうという理解はあってもいいのかなということは1つ言えるかと思います。
私からは以上で、結論は、事業者本体について特に言えることは、この議論からだと出てこないので、ちょっとそこは申し訳なかったなと思っているところでございます。
以上です。
○沖野座長 ありがとうございます。
では、池田先生からはいかがでしょうか。
○池田教授 では簡単に、事業者についてなのですが、人間の脆弱性を知るというのは、それこそ知ってさらにつけ込みどころがあると思われてしまうかもしれないのですけれども、でも、丹念に知ることによって、それが本当に普遍的なリスクなのだということが分かれば、例えば契約なり何なりを取り消したり無効にするのは、被害者の救済という点ではいいですけれども、当然、法的安定性を害して、社会にとってはコストという面も持つわけです。でも、どうしても社会として、これから高齢社会の中で負っていかなければいけないコストがあるのだということについて、社会的な納得とか合意を得ていくという点では、事業者の人にも人間の脆弱性ということについて、つけ込むという観点からではなくて、脆弱性の普遍性という観点について共有していくのがいいのではないかと思ったりもしますし、これが1つです。
もう一つは、事業者とか事業者団体とかサービス提供者にとっても、脆弱な人間の在り方というのが、単なる契約にとってのリスク要因としてだけその人たちが受け取るとは多分限らないと思っていまして、逆に言うと、今のサービスや今のマーケットが提供できていない、まだ見ぬアイデアの萌芽みたいなものが脆弱な人間の実態というところからあるかもしれないので、そういう面からも、脆弱性について広く、事業者に向けて単にこういう規制をしますという言い方ではなくて、なぜこの問題への対処が必要なのかということを、なるべく合意を広げながら、いろいろな規制や対策を進めていくという形で、この脆弱性の話は事業者団体側にも一定の意味はあるかもしれないと思ったりします。
ちょっとまとまらない話で申し訳ないのですが、以上です。
○沖野座長 ありがとうございます。
今の玉手先生、池田先生の御指摘に対して、室岡委員から何かございますか。
○室岡委員 玉手先生、池田先生、ありがとうございました。
○沖野座長 では、加毛委員から関連して御質問があるということですので、お願いします。
○加毛委員 ありがとうございます。池田先生が最後におっしゃったことが、重要な御指摘であると思います。そして、そのことは、玉手先生の御論文からも導かれる示唆なのではないかと思っておりました。御論文では、インフォームド・コンセントについて、患者が関係自律的な意思決定をする際には、医療従事者がどのように患者に接するのかが重要なポイントであることが指摘されています。インフォームド・コンセントが問題となる医療行為ということで、重大な手術のようなものが念頭に置かれているのではないかと思われます。また、医師と患者の間には、信頼・依存関係あるいはフィデューシャリーの関係があることが想定されるようにも思われます。それゆえ、そこでの議論を、一般の契約・取引関係に広げていくことには、様々なハードルがあるものと思います。ただ、池田先生がおっしゃったように、事業者の側においても、消費者の脆弱性にと向き合って、消費者が関係自律的な意思決定をするために、どのようにするのが望ましいのかという視点をもって、契約を締結することが重要なのではないかと思われます。これは、法規制になじむものではなく、事業者がそれぞれに努力・工夫すべき事柄であり、自らのサービス提供との関係で、契約相手方である消費者の意思決定を援助するような取組みを検討することになるのだと思います。そして、そのような取組みのなかから、より望ましいもの、ベスト・プラクティスのようなものが明らかになるのかもしれません。このような観点から、玉手先生の御報告や池田先生の御発言は、示唆に富むものであると思った次第です。
質問というより、お二人のお話をうかがってのコメントということになります。
○沖野座長 ありがとうございました。コメントとして承りました。
玉手先生、お願いします。
○玉手教授 御質問ではないということだったのですけれども、ちょっと今、大事な話だなと思ったので少しお話をしたいと思います。つまり、意思決定支援ということの話になってくると思うのですけれども、おっしゃるとおり関係的自律の観点からすると、意思決定について、単に判断能力があるよねとかだけではなくて、ちゃんと寄り添って一緒に考える的なことが大事だよねというのがある種のインフォームド・コンセントの考え方であって、加毛委員がおっしゃったように、それがある種、脆弱性に対する非常に重要な対策の一つになっているところはあります。重たい手術の場合ということをおっしゃったのですが、そうとも限らなくて、例えば実際によくあるのは、病院に行ったほうがいいのか迷うとか、救急車を呼んだらいいのか分からんみたいなことがあるときに、それを相談できるようなことも言われます。かかりつけ医制度がいいと言われる1つのメリットはそれであって、気楽に相談できる、これぐらいだったら別にすぐに病院にいかなくていいよというふうに言ってくれる人が身近にいるということがあったりすると、すごく助かるわけですね。気楽に相談できることはすごく助かるところがあって、やはりすぐ病院に行くとなると、仕事を休まないといけませんし、他にもいろいろ、別に高齢者ではなくても、ちょっとこんな感じなんだけどさみたいなことが相談できる人がいると助かるというのだけでも全然いいと思うのです。
同じように、意思決定、つまり脆弱性を支援すること自体を広く進めていくことが大事なのではないかというのは、1つありうる方法なのですが、ちょっと注意が必要なところもあると思います。それは何かというと、まさに池田先生がおっしゃったように、ここは事業者にとっても介入できるポイントだし、言ってしまえばビジネスチャンスになり得るわけですけれども、これをビジネスチャンスにするというのは結構怖いところもあって、要は、例えば脆弱性があってなかなか決められないからお勧め商品を出してくれるとありがたいよねという、リコメンドもある種の意思決定支援なわけです。つまり、何を買おうかなと言うときに、今はこれが安いですよとか、これがいいですよということを事業者がやってくれることがあって、それはすごく助かるといえば助かるわけですけれども、ここに誘導が入ってくるでしょうという観点は当然言われているわけですね。つまり、実際にはそれを買わせたいから支援している、という可能性があるわけです。
あまりこういう場で固有名を出すのはよくないのでしょうけれども、大企業なのでいいかなと思うのですが、昨日、アマゾンで本を買おうと思ったら、ものすごい勢いでキンドル版を勧められまして、紙の本がほしいのですが、危うくキンドル版をクリックしそうになるわけです。失敗してクリックしてしまうと、今度、それを取り消すのにすごく手間がかかるわけです。あれは要は、アマゾンとしてはキンドルで読ませたいからだと思うのですけれども、そういう誘導をされてくるわけです。別にキンドルが僕の福祉を高めるかどうかではないのだと思うのですよ、僕としては。
そういうふうに、結局、意思決定支援をしますよと言っても、当人のためとは限らない。例えば医療の現場でもそうで、今厚労省がやっているセルフメディケーションとかいう議論があって、要は医療費の削減のために、お医者さんに行かないで治せるものは薬で治すといいですよというのがあって、医療控除の代わりになる、新しいセルフメディケーション税制をやっていますけれども、あんなふうに、市販薬でやったほうがいいですよみたいに誘導してくるのは、本当に本人のためなのかどうかというところで、どうしても疑問が出てくる。このときに加毛委員がおっしゃった良い関係性と悪い関係性ということがあって、あえて戯画的に言えば、お医者さんは良い関係性で意思決定支援をしてくれるのだけれども、ある種の企業は、悪い関係性で搾取しようとして意思決定支援をしてくる可能性があるわけですね。そうすると、どうやってそれを区別すればいいのかというのが大きな問題になってきます。
1つの基準は、本人の福祉を考えているかということであって、一般的にお医者さんは患者自身の健康というか福祉を考えて介入してくれるわけであって、単に患者さんを金づると考えているお医者さんはめったにいないわけですけれども、同じように消費者の福祉を考えている事業者ばかりではないわけですね。どうしてもその辺は利益を最大化するために動くというのが理念ですから、それはしようがないことですが、そうなってしまうと、果たして本当にちゃんと消費者にとって望ましい意思決定支援になっているのかという問題があります。社会全体で意思決定支援をしていったほうがいいということが、必ずしもバラ色ではないということを私はすごく気にしているところではあります、ということを補足でお話しさせていただきました。
○沖野座長 ありがとうございます。非常に貴重な点だと思います。
では、河島委員からお願いします。
○河島委員 河島です。
消費者庁様が行った団体ヒアリングについて質問をさせていただきます。資料を見ると、金銭を必ず伴う従来の消費概念に基づいてヒアリングされているという感想を抱きました。人々の情動にアプローチする注意経済や監視資本主義に関連する脆弱性についてのヒアリング内容は記載しなかったのか、それとも聞いても答えがなかったのかという点について教えていただければと思いました。
また5ページの最後のところで、検索エンジンで「自殺」と検索すると、「こころの健康相談統一ダイヤル」がトップに出てくるということでありますけれども、これはグーグルがあくまで「協力」という形で実施しているのであり、それが、例えば美容医療のようなネット広告が非常に多く出されている領域において、消費者庁様が単にお願いをして聞いてもらえるかということについて疑問が残るのですけれども、この点についていかがでしょうか。景品表示法に抵触する以外は、お願いベースでしか対応できないという理解でよろしいでしょうか。
それから、最後ですけれども、この団体ヒアリングを通じて、何か新しい知見、つまり消費者庁様が気づいていなかったことに気づかされたことはあったのかということについて教えていただけるでしょうか。
○沖野座長 お願いします。
○原田企画官 御質問ありがとうございます。
1点目の御質問でございますが、我々の団体への質問としては、消費者被害としてどういったものが目立ちますかといったものでありましたが、やはりお話しいただいたのは実際に金銭が動くような被害でした。一方で、デジタル上の金銭のやり取りが支援者のほうから非常に見えづらくなっており、把握したときには相当な金額になっているというお話もあり、そのような昨今のデジタル関係の問題を支援者の方も捉えていると感じました。食費などをそれぞれ封筒に分けて高齢者の方に渡しておくという従前からの支援の方法があるそうですが、デジタルになってしまうと同じような方法が採りづらいというようなお話もございました。
それから、2点目の御質問につきまして、自殺というとすぐ生命・身体への危険につながりますが、それと比べたときに美容のような分野で警告を出すことの優先度がどの程度高いか、また、事業者さんのほうでそこを配慮しましょうという形で協力いただけるかどうかというのは、やはり少し次元が違うかもしれません。とはいうものの、検索したときにその結果の上のほうの項目から開けていく方が多いと思いますし、上のほうに何らかの注意喚起をするような情報が上がるというのは、確かにアイデアとしてはあり得ると思いました。ここで挙げているアイデアは、いずれも実現可能性は置いておいて、何かアイデアがあればぜひということで団体の皆様にお伺いしたものでございます。
3番目の御質問ですが、団体さんの中には、消費者被害というのは相談者の主訴ではない場合もあるということをおっしゃるところもありました。つまり、家庭内暴力とか、ひきこもりとか、そういったことで御家族の方が団体に相談に来られて、よくよくお話聞いて団体と相談者との信頼関係もできていくと、実は高額課金もしていたとか、そういった問題についても明らかになる場合もあるということです。そのように、息の長い支援をしておられる中で消費者被害の問題にも相談対応することが可能となっているということが、発見としてございました。
以上でございます。
○沖野座長 ありがとうございます。
河島委員、いかがですか。
○河島委員 ありがとうございました。最後のコメントについてもう少しお聞きしたいのですけれども、団体ヒアリングの内容でも、「コミュニケーション支援の欠如」というのが脆弱性の環境要因として挙がっており、玉手先生の報告も人間性の回復がメッセージになっていたと思うのですけれども、消費者庁様単独でもいいですし、ほかの省庁と連携してもいいのですけれども、こういった面で何か行政的なことをやっているということはございますでしょうか。
○古川消費者制度課長 消費者制度課長の古川でございます。
実際に各省庁がたこつぼに入っている面は正直あろうかと思っております。一方で、例えば、厚生労働省が重層的支援体制整備事業を実施しているのと連動する形で、消費者行政においても見守りネットワークの構築を促進していることとを、連携して取り組んでいこうという話はあります。要するに、地域にいろいろなサポートをしている各種団体がいて、そういう方々が連携して、実際に問題を抱えている方々にどのようにアプローチしていくかという活動は、省庁連携して進めているところもございます。そういった取組も一つのご回答になるのかと思っております。
○河島委員 分かりました。ありがとうございました。
○沖野座長 ありがとうございます。
では、大屋委員、小塚委員の順でお願いします。大屋委員からお願いします。
○大屋委員 すみません。今日は授業で日吉だったので時間がかかりまして遅刻いたしました。
1つ目は、ささいな情報提供ですが、先ほどの「自殺」で検索すると相談ダイヤルが出てくるみたいなもの、あれはたしかセーファーインターネット協会が要請したはずで、個別の検索事業者の自主的な配慮だけではなくて、組織的な取組としてやっていると。今、誹謗中傷対策もあそこはやっているはずなので、そういう意味で、ある程度組織的な動きにつなげることはできる。ただ一方で、ではそれと同じ規模で悪徳商法対策ができるかと言われると、それはちょっと別の問題だと多分彼らも言うと思いますので、限界はあるという状況だろうなと思いました。
もう一つは、大きな話になって恐縮なのですけれども、今日のお話の1つの眼目は、正義とケアという割と対立的に捉えられるものを中心にお二人の先生から御報告をいただいたのだけれども、非常に雑なまとめになるかもしれないけれども、実は言っていることは非常に似ているというところなのですね。1つ目は、玉手先生のお話で言うと、意思決定の脆弱性を問うことは、個人の自由や主体性の否定につながり得る。これは全くそのとおりであって、一方で警戒しなければいけないわけですが、では、真に自由な主体なんて今どきいるのかと言われると、これはみんな沈黙せざるを得なくなってしまうわけですね。
例えばそこで消費契約に困難を抱えている人の選挙権を否定していいのかという議論も出たわけですけれども、そもそも選挙という手段自体が、我々の選択を大きく縮減する何かである。つまり、我々はもはや政策に対する議論をして、政策を選択することなんか許されておらず、政策パッケージとしての政党とか、あるいは信頼すべき人格としての政治家というものを選択するという非常に縮減された政治的参画を行うわけですね。これは逆に言うと、そうでもないと今どき誰もできないという話が裏側にあるわけです。それこそ自由で主体的な決定を行っているかに一見見えるような主体であっても、それは池田先生がおっしゃるところのケアレスマンにすぎないのではないかと。裏側でケアを担当している人間がいるから初めてできることなのだという側面が忘却されていないかという問題意識も当然あるわけですね。アダム・スミスの夕食は誰が作っていたのか、でしたっけ。自由で自発的な水平的関係とか言っていたけれども、裏側でお母さんに飯作らせとったやろという話が指摘されているわけですね。
他方で、その意味でケアの必要性、それは脆弱性と呼ぶのか、私自身はもう全ての人間が脆弱なので、その意味で全員が脆弱だと認めることは正義の倫理に反しないと思っているのですけれども、玉手先生は分かるから言うと、ハイパーパノプティコンは正義に反しないということなのですね。
だけれども、では、そこでケアが不可欠だとして、ケアだけ提供していけばいいのかというと、それはケアに対する依存自体がケアから生まれるという池田先生の御指摘された問題もあるし、ケアのやり方をしくじれば、それは単なるパターナリズムになってしまうわけであって、場合によっては人生の目的を外在的に決めてしまうようなかなり脆弱な個体をつくり出すことになりかねないのではないかという問題意識も当然にあるわけです。
そこで、ただ、やはり注目されるべきことというのは、玉手先生のお話で言うと、インディペンデンスとオートノミーが違うのだという話。逆に言うと、ある種の除去モデル、つまり他者からの不当な干渉がなければ、それは十全な自己決定であろうという推定がもはや非常に難しくなっているのであって、インディペンデンスを保障するだけではなくて、決定が真にオートノマスであるためには、むしろ他者からの補助が必要になってくるかもしれない。その他者というのも、場合によっては事業者の自発的配慮もあり得るだろうし、場合によっては第三者による検証とか意見聴取みたいなものもあり得るであろうと。お医者さんはおおむね我々の価値を慮って行動してくれることが多いけれども、やはり多いのであって、それが我々の思いとすれ違っていることは実際にあるわけであり、例えばがん治療などの重大な局面を考えると、セカンドオピニオンを取得したほうがよろしいということはあり得ると。
あるいは、さらに重大な自己決定ということで、オランダとかスイスで行われているいわゆる安楽死の事例で言うと、やはり熟慮期間を置くことを制度的に強制するとか、その過程でウェル・インフォームドである。つまり、これから何がされるのかということについて当事者が十分な知識を得ることを義務づけている。そういう形で、ケアの方法についての法的規制。法だけではないです。自主的規制とかそういうものと組み合わせてやっていくしかないだろう。その際に、こういう二股の状況にいる以上は、一方的にケアだけを強めると自主性の否定になってしまうわけだし、自主性だけを重んじるとケアの足りない不十分な決定というものが出てくることになってしまう。結局は、1つシンプルに言うと、法益の重要性とか、あるいは回復不能性ですね。そういうものに基づいて自己決定の環境をコーディネートしていくような法制度が必要。法だけではないですが、そういう決定制度が必要になってくるし、その中で法によって強制すべきものは強制すべきだという議論に恐らくなるのだろうと。
その意味で、私自身は現代的な情報環境の中で個人は脆弱なのですとはっきり言ってしまったほうがいいという立場なのですけれども、そういうところの我々の置かれた状況が、まさに正義だけでもケアだけでも処理できないような状況として描き出されたというのが全体的な環境なのではないかなというのを、一応同じ規範理論屋だと思っているので、そんな観点から整理しましたということになろうかと思います。あまり質問というわけではなくて、全体像としてこういうふうに見ることができるのではないかなというコメントとして受け取っていただければと思いました。
以上です。
○沖野座長 ありがとうございます。
いろいろおっしゃりたいこともあるとは思うのですけれども、基本的には整理の仕方、コメントということなので、小塚委員から伺って、そして併せて先生方からコメントや御回答があればお願いしたいと思います。
では、小塚委員、お願いします。
○小塚委員 小塚です。
この研究会は毎回非常に面白くて、今日も特に知的には非常に面白いのですが、恐らく事務局の方は毎回非常に困惑しておられるのではないか、これで一体どういう制度に結びつけようということで頭を悩ましておられるのではないかと思いますけれども、私は頭の雑な実定法屋でございますので、ちょっと具体的なことをお聞きしたいと思います。
質問もありますが、その前にコメントを先に申し上げますが、今日のお話の1つとして、脆弱性という概念を改めてきちんと整理して考えないと危ないということを指摘されたと思っています。少しおさらいをしておくと、従来の消費者法制というのは、交渉力の差に着目をしていたところ、それでは対応ができなくなってきたのでどうするのだというのがもともとの問題提起で、それに対してEUを見ると脆弱性、バルネラビリティーというのがキーワードになっているらしい。消費者委員会のこの専門調査会の前の消費者庁の研究会のときから私も申し上げていますけれども、それを単に高齢者はバルネラブルだとか、逆に年少者はバルネラブルだとか、そういう話に落とし込まないでくださいというのは私も申し上げていたつもりです。
今日の特に玉手先生のお話では、脆弱性という言葉が随分狭い意味で話されていて、そういう意味で、むしろ消費者法で言っている話は脆弱性ではないと玉手先生はおっしゃるのですね。この辺の概念整理はしっかりしていかないと、非常に混乱するなというふうに感じました。これは感想です。
御質問のほうに移ります。両先生に御質問したいのですが、池田先生のほうが話しやすいので一応こちらを拝見しながら質問を2ついたします。
1つは、ケアの倫理とかプロセスを重視するという話を消費者法制の具体的な制度に落とし込むとどうなりますかということです。これも前身の消費者庁の研究会でも出ていた話ですが、やはり違法か違法でないとか、責任があるかないかという話にしてしまうと、本当は消費者トラブルを起こしたくないと考えている、良いと言うか、少なくとも悪意でない事業者にとって、過剰に反応することになり、したがって、立法プロセスでは規制を過小な範囲に落とし込むことにつながり、また、現実の取引の場面においては過大なコストをかけることにつながるという問題が指摘されていたと思います。
そこで、例えばということですが、何か問題があるので是正はしてほしいけれども、違法だとは言わない。責任追及とも言わない。仮にそれで例えば売り上げが落ちたとしても、取締役の損害賠償責任というようなことは言わない。もっと言えば、これは制度そのものの問題ではないかもしれませんが、消費者団体などの行動様式としても、「消費者利益無視の事業者を追及する」といった運動論的な行動をするのではなくて、事業者と対話をして、それで少しでも問題を解消していくというような制度設計をすることが、池田先生の今日の御趣旨と合っているかどうかということをお聞きしたいというのが1点です。
もう一点は、その話の前段として、池田先生は、プロセスという話を抜きにしてケアのことを強調すると、過剰なパターナリズムに陥る危険があると。言い方はどういう言い方だったか忘れてしまいましたけれども、そういう御指摘をしておられると思います。特に私は脆弱性に対する応答的な国家という言葉を見たときに、これは中国だなと思ったのですね。つまり、今の中国の法制は、ある意味で消費者利益を非常に配慮した法制度が既に出来上がっていて、かつアリババであれ何であれ、問題が起こるとすぐに介入をして厳しい制裁を科す。しかし、そのプロセスが民主的でないということも、こういうところで記録に残しても構わないと思います。
そのような体制があり、しかも、その体制を持った社会からたくさんの商品やサービスが日本に向けて提供されてくるというような状況の中で、仮にある種のコンセンサスが特定の社会の中で成り立つとしても、消費者が扱う商品とかサービスという面では、それと違う社会からの流入があるという状況の中で、制度あるいは法はどういうことができるのでしょうかというのをお聞かせいただきたいと思います。玉手先生も、これらの点についてもし御意見があれば伺いたいと思います。よろしくお願いします。
○沖野座長 では、池田先生からお願いします。
○池田教授 御質問ありがとうございます。第1の質問については御質問の中でお答えが提示されていて、私は基本的に違和感なく聞いていました。すぐに規制とか制裁ということではなくて、どういう問題があるのかを共有して対話していくプロセス自身をどう取り込めるのかというのがすごくこれからの消費者問題で大事になってくるだろうというイメージですね。ただ、同時にそれは多分、ケアでも駄目だし、正義でも駄目だという大屋委員の話につながると思うのですけれども、一方で、これだけはさすがに一定のことをさせてもらいますよということの納得を取り付けた上で、どこまで話合いとか対話の中のコミュニケーションができるかという話なのだろうと考えておりました。
2つ目のことについては、本当に中国がレスポンシブステートだという面はありますし、私自身、ファインマンのことも紹介してはしまったのですが、でも、ファインマンそのもの、それ自体には乗れないというところがあって、あくまでも私自身はどうしてもケアのことを考えるときに、これは単なる法哲学者という状況ゆえの偏りかもしれないのですが、やはり正義の問題はどこまでも避けて通れないと思っていますので、単に手厚く応答すればいいのだという話ではなくて、毅然として公正性とかの形で考えなくてはいけない部分があるというのは前提の上で、どこまでそうでない規制以外の形での問題を考えるプラットフォームをつくっていけるかという形で考えております。
○沖野座長 では、玉手先生からさらにございますでしょうか。
○玉手教授 大変ありがたいコメントだと思っております。大屋委員と小塚委員生の両名の御質問についてお答えしたいと思うのですけれども、まず大屋委員のお話ですが、まとめていただいたのは全くそのとおりだと思っておりまして、私はもう少し正義の理論とケアの理論でちょっとちくちくしたらどうしようかなと不安になりながら今日は参加したのですけれども、池田先生と基本的なところはほぼ意見が一致していてよかったのではないかなと思います。多少政治哲学的な話をすると、正義論にも幅があるのと同じように、ケアの理論にも当然幅がありまして、幾つかのケアの理論では、そもそも正義の枠組みで個人の権利とか個人の自律ということを言った時点で強い個人を想定してしまい、それによってケア関係は次善のものとして排除してしまうところがあるので、正義を語ること自体が反ケア的だという議論をする方もいらっしゃるわけですけれども、そこまでいくと僕はやはりやり過ぎであると思っています。自主性や、僕がこだわる自尊心みたいなものは完全に排除できないだろうと思いますし、池田先生が今おっしゃった正義の問題は避けて通れないというのは、特に法哲学のほうに移行していくと、規範理論としてはまだ取り除けるのですけれども、法の話にすると正義の問題は絶対に取り除けなくなってしまうので、そこはバランスだろうと思っているところは、まさしく大屋委員がまとめてくださったとおりだろうということです。私も正義の側から、まさしく大屋委員がおっしゃったように完璧な意思決定なんて無理だということが分かってしまっている以上、そのことを踏まえてどうやってもう一回正義を組み立てるかということを課題にして研究していますので、その方向で行くといいのではないか。何とかできないかなと思っているところです。
それを受けて、小塚委員がおっしゃる具体的にどうするかということの話なのですけれども、やはり僕は最終的に個人が自分の人生を自分で決めるというか、決めることはできないわけであって、決めたと思えるということはとても大事なことだろうと思っています。基本的にはケアの倫理もフェミニズムも、ある種そういう自分の人生は自分のものだったと思えることを大事にしているだろうということがあるので、その意味ではやはり介入先は事業者のほうであるべきだろうというのがあって、要は事業者に対する規制ということを、どこまでそれが具体的に、要は罰則つきはどうかという話もありますし、どこまでちゃんと事業者が従うかという問題もありますし、経営の自由の話もあるので、具体的には全然うまくいかないのですけれども、やはり基本的には事業者の制約ということをやるという方針でいくのがいいのではないかなと思っています。つまり、契約しようとする消費者に制限をかけるよりは、事業者側に、おまえ、そのやり方はあかんやろということをもうちょっと言えるようにするというのが大事なのだろうと思います。
その意味でいうと、国家がかなり強く事業者に介入する中国型のスタイルというのが本当に全部だめなのかというと、あれはあれでちょっと見るべきところがあるのではないかと個人的に思っているところがありまして、問題は、その国家を誰がコントロールしているのかという話になってくると思うのです。つまり、国家が事業者に対して強い権力を行使できることと、その権力のコントロールを誰が握っているかということは独立の問題であるはずです。ただ、もちろんそこで国家に権力を持たせた以上、アンコントローラブルにならざるをえないのだという議論もできなくはないと思うので、そこは非常に難しい。要はコントロールできるということがちょっと稚拙なのはそのとおりなのですが、ある種その方向は、つまり中国型の規制の在り方というものは、あれをそのまま導入することは全く望ましくないわけですが、ある種参考にすべきところはよくも悪くもあるだろうというのは、小塚委員のコメントを聞いて、そこまでしゃべっていいのかなと思ってしゃべっちゃうのですけれども、あれはある種の見るべきところはあって、具体的にはやはりそのコントロールだろうということはあると思います。
ただ、大屋委員もおっしゃったように、その権力のコントロールを我々個人でできるのかといったら、その個人はほぼできないということが分かってしまっているのが現代社会ですので、その権力のコントロールというのは、まさに政治哲学的には非常に面白く、制度課の皆さんにとってはどうするんだそれという話になってくるわけですけれども、そういう話題につながってくるところであろうなと思っているところでございます。
以上です。ありがとうございました。
○沖野座長 ありがとうございました。
小塚委員、よろしいですか。
○小塚委員 ありがとうございます。私が中国の話を出した本意ですけれども、要するに例えば中間的な対話的な解決を導入するとか、あるいは先ほどの業界の自主的な対応によるネットアナウンスメントの話もそうなのですが、そういうことを考えるときに、日本だけを考えて設計するのではなくて、日本に大きな影響を及ぼす外国。そうするとやはり中国、あるいは中国の事業者は協力するのですかということを最初から考えないといけないということを申し上げたかったということです。
以上です。
○沖野座長 ありがとうございます。趣旨を明確にしていただいたと思います。
では、二之宮委員からお願いします。
○二之宮委員 二之宮です。
玉手先生、池田先生、御説明ありがとうございました。大変興味深く勉強させていただきました。私は普段、京都で弁護士をしておりまして、消費者被害、消費者問題に現場で関与している者として、両先生のお話を現場の状況を考えたときにどう見えるか、どう整理できるのかという観点でお聞きしておりました。その意味では、最初のほうに加毛委員が言われたことと少し関連するかも分かりませんが、どういうふうに整理できるのかと、私の目線で見たときにこう映ったという感想、コメントを最初に述べさせていただいた上で、1点だけ質問させてください。
玉手先生の論文の167ページの最後の3行辺りに、関係的自律の観点からは、人々が自律的に意思決定を行うことを妨げているような関係性を取り除くことという1点があって、また、自律的な意思決定を促進するような関係性を構築することが必要だと書かれております。
資料2の7ページも恐らく同じようなことだと思いますが、適切な他者関係の中にあって初めて人は自律的な決定をなすことができると書かれています。我々が普段聞いている相談あるいは被害事件、事例、要は現代社会で起こっている問題、消費者問題というものを考えたときに、ネット上の取引におけるダークパターンだとか、あるいは自律的な意思決定をしているように見せかけて、実は自分の意図・目的とはかけ離れている選択、取引をさせられているというように一見自分の意思で決めたように見えるのだけれども、実は違う行動をしているという問題があります。これは明らかな詐欺とかそういう極端な例ではなくても、そういう問題が起こっていると思います。
言い換えてみれば、悪質な事業者による消費者が失敗するように仕向けられた関係性の中で、そのとおり失敗したというような状況があると捉えています。消費者取引、あるいは消費者問題においてこうしたい、ああしたいと、消費者が何かを考えて意思決定を行う場合に、それはどういう場面があるのかと考えると、まず最初に契約の勧誘を受ける段階、締結する段階というところがあって、その次に契約後のサービスや物を提供される履行過程という次の段階があって、もう一つ、その契約関係から離脱する段階、事後処理の段階という3つぐらいに分けて考えることが可能かと思います。
各段階において、消費者自身だとか、消費者を取り巻く状況や環境、関係者、あるいはプラットフォームだとか、あるいは我々も最後に入ってくるという意味で言うと弁護士も関係者になるのかも分かりませんが、要はそういう各段階において関係者は様々変わり得るし、状況が変わり得る。変化していくということが言えると思います。
そうした中で、契約締結前の勧誘段階、契約をする段階というのは、先ほど述べたような悪質な事業者が消費者を失敗するように仕向けている。そういう場合に悪質な事業者というのは、消費者との関係においては適切な他者関係というのではないのだろうと思います。その段階においては、消費者は親しい人だとか、あるいは相談機関に、言ってみれば適切な他者に助言を求める時間的な余裕というのも与えられていない、実際はないということが言えると思います。
こういう現場の被害に携わっている者としては、自律とは何かと、本人の意思を尊重するとはどういうことなのかと考えると、最終的には消費者の意思を尊重していくことになるとしても、一定の枠組み、制度があって、それが基礎としてないと自律的な意思、こうしたい、ああしたいということを主張できない、発揮できないのではないだろうかというような感想を持ちました。
ここからが質問なのですけれども、人々が自律的に意思決定を行うことを妨げるような関係性を取り除くという最初の1点目については事前規制だとか行政規制だとか一定の制度設計が可能だと思います。自律的な意思決定を促進するような関係性を構築するというもう一つの点を考えたときに、契約締結後、締結してしまった後に、親しい人だとか相談機関だとかの助言を踏まえながらも、本人がやはりこれはおかしいのではないか、やはりやめたい、お金を返してもらいたいと考えたとしても、それが実現するのが困難ということになれば、自律を促進しているということにはならないのではないでしょうか。そうすると、自律的な意思決定を促進するためにはその大前提として契約関係の離脱だとか、事後救済のメニューが豊富に用意されているということが必要になってくるのではないかと思います。
そうしたメニューが用意されている状況において、消費者がその契約締結後に適切な他者の関係を踏まえて、契約関係を離脱したいだとか、事後救済でお金を返してもらいたいだとか、実際にそれを選択して行使するかどうかは本人の意思による、行使すること自体は強制されないということであれば、自律的な意思決定とは何ら矛盾することはないと思いますし、逆に行使したい、救済されたい、お金を返してもらいたいということを望んだときに、でも、それを実現する手段、メニューが用意されていないと、実際はその意思は尊重されないということになるのではないかと思うのですが、この辺はどういうふうに考えたらよろしいでしょうか。これは両先生にお聞きできればと思います。
○沖野座長 では、これも玉手先生からお願いできますでしょうか。
○玉手教授 玉手です。ありがとうございます。
時間があれだから、急いでしゃべったほうがいいですか。
○沖野座長 多少の延長は合意ができていると理解しております。池田先生、玉手先生の御意見を得ているかは問題がありますけれども、ゆっくりお話しいただいて、どうぞ普通のスピードでお願いします。
○玉手教授 ありがとうございます。
私が二之宮委員の御質問をちゃんと理解できていない可能性が一抹あるのですが、ほぼ反論することは何もないというか、おっしゃるとおりだろうと私自身は思っております。すなわち意思決定をする上で、そもそも事業者の側が脆弱性につけ込んだりとか、あるいは違法までいかなくても、勝手に、要はなるべく自分に都合のいい契約に誘導するようなことはないほうがいい。そういうふうにやってくるのは適切な関係性ではないので、そういった搾取的な契約というものは、まず何とか法制度等々で規制して、あるいは自主的取組で規制したいということがあり、ただ、それで決めてしまった後に、やはりちょっと違ったのではないかみたいなことに気づいた後のキャンセル可能性みたいなものの制度が十分担保されていないといけない。一回決めたのだからあとはおまえの責任だよみたいな自己責任論にコミットするわけでは全くないので、これはおっしゃるとおりだと思います。
それが具体的にどういった制度になるのかということを申しますと、基本的には弁護士の先生に相談するというのが大きい要素になると思うのですけれども、今日のスライドで申し上げましたが、例えばそういうときに消費者団体的なものが再定義できるのではないか。そういうある種の、NPO的なものでもいいのですが、消費者支援団体とかそういったものが、そういうときに機能するのはあり得るのかなと考えています。つまり、何か困ったときに相談できるところがあるというのはよい関係で、相談したときに、相談した相手がまた搾取してくるみたいなことでたらい回しにされる、たとえばマフィアにやられたから警察に相談したら、こんどは警察に搾り取られてみたいな話が映画なんかありますけれども、そうではなくて、ちゃんと消費者のことを考えてくれるような団体に相談できるという回路があったほうが自律の促進になるだろうというのは全くそのとおりだと思います。なので、おっしゃるとおりだということです。
ただ、もう一つ、環境が整備されて初めて自律性が認められるというロジックはちょっと気になるところもあって、環境が整備されていない限りには、あなたは保護対象だというロジックになってしまうと、どの段階で一体整備されているのだということになり、これはどんどん自主決定の後回しのロジックになってしまうことがありえる。今、NHKで『虎に翼』というドラマをやっていますけれども、あれも女性裁判官は時期尚早だと、受け入れ対策が整っていないみたいなことでいつまでも後になっているということがあって、どこかの段階で、いや、十分な存在ですよというふうにえいやで進まないと、いつまでたっても自主的な存在として認められないということが歴史上言われているわけです。あのドラマでも女性が裁判官になった結果、子育てと両立できなくてやめていく、ということもあったりして、これだから女性はみたいなことがありながら、それを乗り越えていくから地位の向上がある。どこかであえて自主性を認めるみたいなジャンピングがないと、結局従属的な立場に置かれ続けるみたいなこともあったので、その意味でやはり自主性というのをある程度積極的に認めていくベクトルが必要だろうというのは、そういうことを踏まえての議論ということがあります。それは最後の発言です。
ただ、大筋というか、ほぼ二之宮委員がおっしゃっていることには私は賛成ですということが回答になります。
以上です。
○沖野座長 ありがとうございます。
池田先生はいかがでしょうか。
○池田教授 御質問ありがとうございます。ケアの倫理の最初のところでギリガンとかの、つながりを維持したり、つながりを大事にしていくという話が、ケアの発想の中にもあるのですけれども、でも、私自身が最近すごく痛感するのは、それがうまくいくというのは、どこかで最後は切断できるという保障があるときに、初めて人は、このケア、今ちょっといいかどうか分からないけれども、もう少し話し合ってみようとか、もう少しつながりも考えてみようかということが初めてできるのだと思いますし、あるいはそれはケアを考える話の前提は社会の中で行われているケア労働の公正な分担だという話にもつながるのですけれども、ケア労働が誰かに偏っていなくて、公正な分担ができて、しかも、ケア関係というのは離脱ができるのだという保障があったときに、初めて人々はケアのつながりとかを、これは維持してもいいのかどうかということを安心して考えられるのだろうということを思うと、実は関係の中で自律を考えるというのは、良い関係性は何かというのを考えることと同時に、離脱の保障というのも十分用意して、それがあるのですよということが脆弱な人に伝わっているという状況を保障することとセットの話なのだろうというふうに捉えております。
以上です。
○沖野座長 ありがとうございます。
二之宮委員からさらにございますか。
○二之宮委員 ありがとうございました。私の中でも今日の御説明をお聞きしてもう少し整理して、もう少し考えてみたいと思いました。どうもありがとうございました。
○沖野座長 ありがとうございます。
それでは、よろしいでしょうか。野村委員、お願いします。
○野村委員 もう時間もないので簡単に。先ほど河島委員が質問された消費者庁のところで私も聞きたいところがありました。この団体の方たちのプライオリティーとして、こういった消費者問題はどのくらいになっているのかということと。切迫性と、その具体的なアプローチで幾つかアイデアが出てきたのだけれども、消費者庁さん、ぜひやってください、すぐやってくださいという感じなのか、もしくはあったらいいな的なものなのか、そこを教えていただきたい。あともう一つは、具体的に彼らが実践でやられていることが何かあったら、今、世の中がどうなっているのかということも含めて知りたいなと思いましたので、質問です。
○原田企画官 御質問ありがとうございます。
各団体のプライオリティーですが、先ほど消費者被害が主訴ではない場合もあると申し上げましたように、団体によって様々な相談を取り扱っており、ひきこもり等の相談に力を入れているようなところもございます。ただ一方で、やはり消費者問題としての金銭的な被害は、どの団体も重要なものとして捉えておりました。
団体にその背景についても伺いましたが、金銭的な不安について、世代を問わず皆さん持っておられるということです。高齢者であれば、今後どのぐらいのお金が自分の人生で必要かというところで常に不安を抱えておられて、そういうところにつけ込まれてしまう。若者も生活に困窮している方もおり、また、ちょっとでも稼ぎたいという気持ちにつけ込まれて副業詐欺的なものにあってしまうこともあるということです。
団体からいただいたアイデアのうちぜひ実践してほしいというものですが、電話での相談だとやはり時間が限られるし、電話相談に慣れていない世代や障害をお持ちの方もおられるので、AIが答えてくれるようなものも含め、何か電話以外の方法でも相談に対応してくれるとうれしいという話がございました。
以上でございます。
○沖野座長 よろしいでしょうか。
○野村委員 ありがとうございました。
○沖野座長 ありがとうございました。
それでは、予定の時間を超過しておりまして、本日は団体ヒアリングの結果、それから、玉手先生、池田先生から非常に刺激的なといいますか、示唆に富む御発表をいただきました。その後の質疑応答の中で、それぞれの内容がより明確になってきたという部分はあると思うのですけれども、他方でそれをどう受け止めたらいいのかというのは、あえていえば課題はより一層大きくなって、大屋委員から一定の整理もいただきましたけれども、この後、整理をしていくのが大変かなとも思っております。
私も個人的には、最後のケアについての離脱の保障と、例えば家族などのビルドインのような話はどうなるのかとか、納得については完全に主観的なものであっていいのか、ここまでは納得しなければならないというようなところがあるのかとか、個別には本当にいろいろおうかがいしたい点がありますし、最初のスタート点である脆弱性の捉え方からして考えるべき点を明らかにしていただいと思います。いずれにしても非常に重要な御指摘をいただきましたので、それをいかにうまくダイジェストして次の課題の整理等につなげていくかという非常に大きな宿題をいただいたと思っております。
玉手先生、池田先生におかれましては、大変貴重な御知見をいただきまして、誠にありがとうございました。また、委員の方々におかれましても、活発な御議論をありがとうございました。
それでは、これで本日は終了とさせていただきまして、最後に、事務局から事務連絡をお願いいたします。
《3.閉会》
○友行参事官 本日も誠にありがとうございました。
次回の日程につきましては、改めまして御連絡いたします。
以上でございます。
○沖野座長 それでは、本日はこれにて閉会とさせていただきます。
お忙しいところをお集まりいただきまして、ありがとうございました。
(以上)