野口英世博士と横浜・小暮 葉満子 野口英世細菌検査室保存会 顧問~ 野口博士ゆかりの細菌検査室保存活動 ~
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1933年横浜生まれ。 |
野口英世博士ゆかりの細菌検査室(神奈川県横浜市金沢区)
(写真提供:小暮葉満子氏)
私にとって、神様みたいな人。
子どもの頃の憧れ、猪苗代での感動を胸に行った18年間の細菌検査室保存活動
細菌検査室の保存活動を始めたきっかけについて教えてください。
(写真提供:小暮葉満子氏)
小暮さん:1979年、初めて東北地方に家族で旅行をして、3日目に福島の猪苗代町にある野口英世記念館へ行きました。この旅行の第一の目的が、長年の夢であった野口英世記念館を参観することでありました。思えば子供の頃、母から与えられた「野口英世の伝記」に強烈なインパクトを受け、その記憶が強く残っており、私の脳裏によみがえりました。この本が野口博士を知るきっかけとなり、以来、神様のような人と思うようになりました。
野口英世記念館(福島県・猪苗代町)
(写真提供:(財)野口英世記念会)
記念館では、左手を火傷した囲炉裏、上京する際に決意を彫った床柱、最後に野口博士の母、おシカさんがアメリカにいる息子(野口博士)へ宛てた手紙を見て、しばらくは釘付けになってしまい、記念館の人が閉館を知らせに来ても気が付かないほどでした。その時から心の中では保存運動が始まっていました。床柱や囲炉裏に、神様が目の前に降りてきたような気持ちがしました。その夜宿泊した宿では、私の地元横浜の細菌検査室のことで頭がいっぱいになりました。
横浜へ帰った翌日、細菌検査室がある横浜検疫所に行きました。検疫所は立ち入り禁止でした。正門には「許可なき者出入りを禁ずる」と書かれていて、守衛さんに見学を断わられてしまいました。そこで私は、必死に1時間くらい粘りました。2人の守衛さんから、「検疫所の本部に連絡を取りたいのですが、あなたは新聞記者の方ですか?それとも作家ですか?」と聞かれました。「いいえ、普通の主婦です。」と答えました。ようやく本部の許可が取れ、守衛さんの案内で念願の細菌検査室を見ることができました。感激でした。
1980年当時の横浜検疫所正門
門柱に「許可なき者出入りを禁ずる」と掲げられている
(写真提供:小暮葉満子氏)
以前から細菌検査室のことはご存知でしたか?
小暮さん:検疫所施設の取り壊しについて、1970年頃から新聞紙上で時折記事が掲載されておりました。私が猪苗代の生家を見学した直後の1978年10月14日付の朝日新聞に「野口英世の足跡を残す‐歴史を秘めた廃屋」という見出しの特集記事が掲載されました。私はその記事と写真を見て、大きな衝撃を受けました。これは何とかしなければ!
検疫所を訪れたのは、夏ですね?
当時の細菌検査室
(写真提供:小暮葉満子氏)
小暮さん:1979年の8月17日のことでした。所内は様々な植物が生い茂る“秘境”で、その静けさを破って蝉の声だけがけたたましく聞こえました。広大な敷地に、明治時代を彷彿とさせる建物が点在していました。特に細菌検査室は「細菌」ということで当時忌み嫌われていたためか、一番奥まった所にあり、守衛さんの案内が無ければたどり着けませんでした。細菌検査室の奥には隔離病棟があり、火葬場もありました。昔はここで伝染病に罹り、亡くなる方もいたため、ここで死体処理を行っていました。感染者を長浜検疫所から陸(おか)には上げさせない、そういう場所でした。やがては取り壊す予定でしたので、中には入れて貰えなかったのですが、窓から中をのぞくと、しっくいや板切れが落ちて、荒れるに任せている状態でした。その時私は、ぜひともこの建物を保存しなくてはいけない、保存運動を推進しようと決意しました。
そこから18年の活動が始まったのですね?
小暮さん:これが保存運動の出発点です。完結するまでに18年間かかりました。主要な活動内容を「保存運動18年の歩み」に時系列にまとめました。これから、この表に従ってお話することにしましょう。
行政財産は大蔵省、管理は厚生省、建物自体は建設省が関わっていて、検疫所の古い建物群は取り壊される予定でした。私は横浜市が買い上げてくれれば身近な公園になると思い、大蔵省、厚生省、建設省に加えて、横浜市に細菌検査室の保存を訴えました。
私が猪苗代の野口英世記念館で感動した資料を、横浜でも展示できないものかと思い立ち、記念館へ要望しました。その結果、幸運なことに記念館と横浜高島屋のご尽力で「横浜ゆかりの偉人-野口英世展」の開催が決定しました。私が初めて検疫所を訪れた翌年、1980年8月のことでした。
高島屋の担当者の方が「デパートは物を売るだけではなく、文化の発信地でありたいと考えています。野口英世展はそういう意味でも素晴らしい催し物です。」と、自信を持っておっしゃってくれました。夏休みだったこともあり、子どもたちも沢山来てくれて、6日間で2万3千人の人々がご来場くださいました。
横浜高島屋で行われた「横浜ゆかりの偉人-野口英世展」のポスター
(写真提供:小暮葉満子氏)
展覧会の目的は細菌検査室の保存でしたので、出口の所にその趣旨を書いたパネルと署名用紙を置いたところ、入場者の半数くらいの方が署名をしてくれました。展覧会が終わった後に、高島屋の方が署名簿を全てコピーしてくれました。厚生省と横浜市と神奈川県に署名簿を持って行きました。陳情してもなかなかお返事を貰えないのですが、その一方で建物の状態はどんどん悪くなってしまいます。金沢・磯子塗装組合の方々が、保存活動のことを伝え聞いて、18年間に5回ほど塗装工事や検査室の補修をしてくれました。細菌検査室の木は乾燥していて、ペンキを沢山吸ってしまい、途中でペンキを追加したりしていました。皆さんの協力無しでは18年間も保存活動をできませんでした。また、述べ459人の方々が手弁当で清掃活動に参加してくれました。55回の清掃に毎回参加の方が何と2人いらっしゃいました。感謝あるのみです。
金沢・磯子塗装組合による、補修作業の様子
(写真提供:小暮葉満子氏)
清掃活動の様子
(写真提供:小暮葉満子氏)
清掃活動に参加してくださった方たちをどのように集められましたか?
小暮さん:活動のことを友人・知人に連絡し協力をお願いしました。クチコミで広がっていき、私が知らない人も沢山参加してくれました。今でも清掃活動に参加してくださった方々の名簿を持っています。
このような活動をしている内に、マスコミも関心を持ち始めました。検疫所公開の希望も出始めました。検疫所は永い間、一般の人の立入禁止の場所でしたが、検疫所長さんの大英断で、1981年の7月に初めて一般公開され、テレビや新聞で取り上げられました。記者の方達から「このような活動は長続きしませんが、今後どうされるつもりですか?」と聞かれたので「どうしたら良いでしょう?」と相談したところ、会報を作ることを勧められました。そこで保存会の会報「ながはま」を創刊し、公共施設や協力者、有識者などに配布しました。創刊号は10,000部、第2号からは3,000部、終刊第23号は5,000部刷りました。この冊子は運動の“わ”を広げるために大いに役立ちました。印刷代は寄付と広告で賄っておりました。
横浜検疫所一般公開の様子
(写真提供:小暮葉満子氏)
ながはま創刊号
(写真提供:小暮葉満子氏)
検疫所の一般公開は好評で3回行われ、その都度検疫所の職員の方々も制服・制帽姿で所内の案内や説明をしてくれました。映画の上映会や、ガーナの駐日代理大使の講演会も行いました。野口博士の故郷を旅する、会津旅行も5回行いました。バスツアーは珍しい時代で、毎回あっという間に満席になりました。ガーナに行くことは叶いませんので、駐日ガーナ大使館に電話をして、ガーナ大使に細菌検査室を見ていただきました。テレビのインタビューも受けて、金沢区役所を訪れた際も、職員の方々が沢山出迎えてくれて、大使も「日本で一番の思い出になった」と喜んでくださいました。
駐日ガーナ大使を迎えて
(写真提供:小暮葉満子氏)
1985年7月2日に関東財務局から「細菌検査室は取り壊しを免れます」という連絡で、保存活動が飛躍的に前進したと確認し、飛び上がって喜びました。
取り壊しを免れた、細菌検査室
(写真提供:小暮葉満子氏)
1993年1月に国と横浜市で土地取得の正式契約がなされ、いよいよ1996年11月に細菌検査室の補修工事が着工されました。
工事は写真(下図)のように基礎や土台の改修から開始され、内装・外装工事や周辺の整備を行い、1997年2月に完了しました。
かくして、この年の5月22日に、長浜・野口記念公園が開園・開館の運びとなりました。完成した「野口博士ゆかりの細菌検査室」の外観は、写真(1枚目)をご覧ください。
細菌検査室の工事の様子・建物全体のジャッキアップ
(写真提供:小暮葉満子氏)
18年持続させたことは難しいと思いますが
小暮さん:保存運動を展開した時期、1979年~1997年は、時代の流れで“環境問題”の市民活動が活発でした。そのような環境の中で、私の呼びかけた保存活動は異色であり、市民の多くや全国の有識者の共感を呼び、主要な新聞各社をはじめとするマスコミにもしばしば記事として採り上げられました。趣旨に賛同して写真(下図)のレリーフの寄贈もありました。
苦しいことや、困難なことも沢山ありましたが、多くの支援者・協力者に支えられたことが成果につながったと思います。感謝あるのみです。
また夫をはじめ家族の協力も励みになりました。
横浜検疫所の入り口に設置された、スピロヘータ(※注)を模したレリーフ
横浜みなとライオネスクラブ寄贈
※注:野口博士は1913年に末期梅毒患者の脳から、梅毒スピロヘータを発見している。スピロヘータは写真のようにらせん形をしている。
(写真提供:小暮葉満子氏)
小暮さんにとって野口英世博士とは?
小暮さん:野口博士は種々の面で欠陥があり、嫌われたことも多々ありましたが、その欠点をカバーする努力と、“研究に熱中する凄さ”というすばらしい面がありました。いわば、山あり谷ありの起伏の激しい人でした。谷を見るといくらでも批判はできますが、山を見ると素晴らしい人物と言わざるをえません。
貧しさに耐え、最後まで医学のために尽くしました。日本人としてノーベル賞候補にもなり、世界に名を残した細菌学者です。
あの破天荒とも思える生き方に私は納得しております。
取り壊し前の横浜検疫所建物群の様子‐1980年(写真提供:小暮葉満子氏)
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細菌検査室について
(長浜ホールのホームページより引用)
旧細菌検査室は、明治28年(1895年)に長浜検疫所の建物群のひとつとして建てられましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊、その翌年再建されたものです。
また、この地で世界的細菌学者として有名な野口英世博士が明治32年(1899年当時博士は22歳)に検疫医官補として約5か月間、検疫業務を行っており、ペスト患者の発見に功績を挙げました。
永い年月を経て荒廃したこの建物は、平成9年(1997年)の大がかりな補修によりすっかり甦りました。野口博士ゆかりの研究施設としては日本に現存する唯一のものです。
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2008年5月28日には、細菌検査室と同じ敷地内にある長浜ホールにて
横浜市主催による、第1回野口英世アフリカ賞記念切手の贈呈式
野口英世アフリカ賞の記念碑の除幕式、第1回野口英世アフリカ賞の受賞者記者会見が行われました。
細菌検査室、長浜ホールについて詳しくは、長浜ホールのホームページをご覧ください。
アクセス
住所
〒236-0011横浜市金沢区長浜114-4長浜野口記念公園内
電車でお越しの方へ
京浜急行「能見台」駅下車、徒歩15分
または金沢シーサイドライン「幸浦」駅下車徒歩15分
小暮さんが感銘を受けた、福島県猪苗代町の野口英世記念館へも是非足を運んでみて下さい。
野口英世記念館・ホームページ
編集後記
横浜市金沢区長浜には、白い壁、緑の窓枠の素敵な洋館があります。長浜ホールは市民の憩いの場として、細菌検査室は野口博士の功績を伝える展示室として活用されています。撤去されてしまう運命にあった、これらの建物は一人の女性の決意により、よみがえり始めました。
保存活動は18年という、とても長い年月がかかるものでしたが、細菌検査室がある野口記念公園の中に立って、豊かな緑、訪れている人たちの活気を感じていると、保存されて本当に良かったと実感しました。