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野口英世の生涯執筆 野口英世記念館 学芸員 森田鉄平様   資料提供 財団法人 野口英世記念会 

2004年科学者として初めて日本の紙幣に採用され、新しい千円札の顔となった野口英世は、福島県のほぼ中央に位置する耶麻郡猪苗代町三城潟、当時の三ツ和村に生まれました。北に磐梯山を仰ぎ、南に猪苗代湖が広がる豊かな自然の中で成長した英世はやがて医学の道を志し、人類の幸福のためにその生涯を捧げました。

野口清作(後の英世)は1876年(明治9)の11月9日に婿養子の父・佐代助と野口家の一人娘だった母・シカの間に長男として生まれました。野口家はもともと広い田畑をもつ農家でしたが、二代ほど前から男児に恵まれず、農地は荒れ果て生活は大変貧しい状況でした。


母 野口シカ

 
父 野口佐与助

清作は1歳半の時囲炉裏に落ちて左手に大やけどを負います。瘤のようになった清作の左手は母・シカにとって一生の悔いとなりました。1883年(明治16)清作は母の勧めで三ツ和小学校に入学します。家が貧しく、新しい教科書も買うこともできませんでしたが、一生懸命勉強に励み優秀な成績を修めるようになりました。

卒業を間近にひかえたころ、清作にとって生涯の恩師となる小林栄先生との出会いがありました。試験官として来校し、清作の才能を見出した小林先生は清作とシカを自宅に招き、高等科進学を勧め、4年間の面倒を見て、その後も、清作と家族の世話を続けました。


小林 栄先生 

 
三ツ和小学校での定期試験優等の証書

清作は高等科4年の時、先生や級友たちの援助によって会津若松にある会陽医院・渡部鼎院長のもとで左手の手術を受けることができました。医学の素晴らしさに感動した清作は、高等小学校卒業後、医学書生として会陽医院に住み込み、医師になるための勉強を始め、時間さえあれば辞書を片手に専門書を読みあさる3年間を過ごしました。 

 
渡部 鼎先生

 
手術後、八子彌壽平(やご やすへい)共に

1896年(明治29年)に清作は医術開業試験を受験するために上京します。「志を得ざれば再び此地を踏まず」この言葉を生家の床柱に刻み、必ず医師になるとの決意を胸に故郷をあとにします。

上京した清作はその年に医術開業前期試験に合格、その後、会陽医院で縁のあった高山歯科医学院の血脇守之助先生の援助を受けながら翌年後期試験にも合格します。ふつう数年はかかる医術開業試験を1年で突破し、弱冠20歳にして医師の資格を得ました。清作は帰郷し開業医となる道を選ばずに細菌学者として世に応える研究の道を選びました。 

 
血脇守之助先生

 
上京時の清作

1898年(明治31)の夏、清作は1冊の本、坪内逍遥の小説『当世書生気質』を手にします。そこには、野々口精作という医学生が将来を期待されながらも次第に堕落していく姿が描かれていました。当時の自分の生活を顧みた清作は、恩師・小林栄先生と相談し「英世」と名前を改め決意を新たにしました。英世は東京で高山歯科医学院、順天堂医院、伝染病研究所に勤めますが、常に世界を舞台にして研究する事に気持ちが向けられていました。

1900年(明治33)12月、英世を乗せた船は遠くアメリカに向けて横浜を出港しました。伝染病研究所時代に通訳と案内役を務めてわずかに面識のあったペンシルベニア大学のシモン・フレキスナー博士を頼っての半ば無謀ともいえる渡米でした。

英世の与えられた仕事は、蛇毒に関する研究で、月にわずか8ドルの報酬でした。不自由な左手で毒蛇を扱う危険な作業でしたが、蛇毒研究の権威であったミッチェル博士の指導を受けながら研究に没頭しました。

蛇毒の研究成果が認められた英世は、1902年(明治35)にペンシルベニア大学病理学助手、翌年にはカーネギー学院研究助手となりデンマークに留学します。デンマーク国立血清研究所でマッセン博士の指導のもと血清学について学びました。

1904年(明治34年)、デンマーク留学から帰った英世は、ロックフェラー医学研究所の所長に就任したフレキスナー博士によって一等助手に迎えられ、いよいよ本格的な研究が始まり、細菌との闘いに挑むことになります。 

 
フレキスナー博士と英世

 
ペンシルバニア大学で研究中の英世

英世の研究に対する執念はすさまじく「ノグチはいつ眠るのか?」といわれるほどで研究論文も多数発表しました。特に梅毒スピロヘータの研究では、純粋培養や神経梅毒患者の脳や脊髄からスピロヘータを証明するなどめざましい成果を挙げ、ノーベル賞の有力候補にも選ばれました。日本においては、帝国学士院より恩賜賞が授与されました。 

 
英世の研究論文の一部 

 
説明に使用したパネル

 
英世が制作した毒蛇の標本

1915年(大正4)単身、海を渡ってから15年、英世の帰国が実現します。日本での2ヶ月間は、東京をはじめ各地で講演会や歓迎行事に追われる毎日でした。この忙しい日程の合間に、英世は母を連れて小林先生夫妻と一緒に関西へ旅行するなど孝行をし、また世話になった恩師や友人・知人への恩返しにも努めました。多忙な中にも安息の日々を過ごした英世は、また日本に帰ることを約束し、多くの人に見送られながら再びアメリカに旅立ちました。 

 
故郷翁島駅での歓迎風景

 
英世の勲四等旭日小綬章受賞記念の時
渡部 鼎先生と共に

 
再渡米の時佐渡丸の甲板で 左から、渡部鼎、英世、石塚三郎、血脇守之助、小林栄

1918年(大正7)、当時中南米で猛威を振るっていた黄熱病にロックフェラー医学研究所は研究班を派遣する計画をたてました。これに英世は自ら望んで参加し、エクアドルのグアヤキルへ向かい、ここから英世と黄熱病の闘いが始まりました。昼夜にわたる研究の末、大きな成果を上げるのですが、黄熱病はメキシコ、ペルー、ブラジルと次々に流行して英世の闘いは休みことなく続けられました。 


グアヤキルに上陸する英世たち 

 
リオグランデ川でワニ狩りをし解剖する英世

しかしこの伝染病には別の研究、意見もあり英世の学説に疑問を抱く研究者もいました。そのころアフリカのラゴスに派遣されていた同僚の研究員が黄熱病によって殉職したことがきっかけとなり、黄熱病のすべての疑問を解決するために周囲の反対を押し切ってアフリカ行きを決心します。

1927年(昭和2)アフリカに赴いた英世は、3ヶ月の滞在予定を6カ月に延ばして黄熱病の原因究明に努めました。そして、年が明けた1928年3月下旬、黄熱病との闘いに光が見えてきました。 

 
英世が上陸した西アフリカ黄金海岸


国際保健部職員アレクサンダー・マハフィー博士と 

予防法と治療法に目途がつき、本部のあるナイジェリアのラゴスへ帰国の打ち合わせに行ったとき、英世自身が黄熱病に感染してしまいました。アクラに戻って懸命な治療をしますが、その甲斐もなく1928年5月21日「私にはわからない…」との言葉を残し、野口英世は51歳の短い生涯を閉じました。

医学をとおして人類のために貢献した野口英世は、今も私たちの心に生き続けています。

 

 

執筆野口英世記念館別ウィンドウで開きます学芸員 森田鉄平様

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