文・漆原次郎

いしかわ・みきこ
昭和23年(1948年)10月27日生まれ。東京大学農学部で緑地学を学んだあと、アメリカのハーヴァード大学で、都市のみどりを守ったり、公園をつくったりするための計画や設計のしかたを身につけた。さらに東京大学大学院で、明治以来、街のみどりがどのように受けつがれてきたかを調べた。いまは、東京大学の都市とし工学科の教授として、街のみどりを守ろうとする人たちを支えている。
街のみどりは、山のみどりとおなじものに思えるかもしれない。じっさい、街のみどりも山のみどりも、草や木でできている。けれども、私たちが今日も街のみどりを目にすることができるのは、「街の自然を守りたい」という人びとの思いがあるからだ。街のみどりはどのように作られ守られてきたのだろう。石川幹子さんは長い時間をかけて、それを調べあげた。
石川さんのふるさとは宮城県の岩沼市。阿武隈川という大きな川が太平洋にそそぎこむところだ。川のまわりの平野には一面の田んぼが広がり、すぐ近くには野山があった。
春をむかえると、明るい雑木林では、カタクリの紅紫色の花がじゅうたんのように地面をおおう。山ヘとむかう道のかたすみには、タチツボスミレ、エイザンスミレ、シロスミレなどが、こぼれるように花を咲かせている。陽だまりの丘では、人のひげのようなオキナグサのわた毛が、夕陽に輝きながら飛んでいる。水田では、夏はカエルの大合唱、秋にイナゴの群れが羽ばたく。冬には、凍てついた満天の空に、冬の星座の王者、オリオンがゆっくりと昇っていく。四季の自然にかこまれて、石川さんは育っていった。
小学校を卒業すると、ふるさと岩沼の北にある仙台の中学・高校で勉強するため、仙台市内で暮らした。ここは江戸時代はじめのお殿様・伊達政宗がつくった城下町だ。青葉山、清らかな流れの広瀬川、そして家々の連なりから、古くから「杜もりの都」とよばれてきた。中学・高校のころ石川さんは、所属していた生物クラブの小倉先生に、政宗がきずいた貞山堀という運河まで連れていってもらった。貞山堀は、東北地方の米を、安全に江戸まで運ぶために掘られた運河だ。海風や砂を防ぐために、堀と海の間に松の木が植えられた。小倉先生は、この松林は、自然にできたものではなく、何百年もかけて、人びとが守り育ててきた森であることを教えてれた。小さな松の木が、いまでは立派な森となり、渡り鳥が羽を休める、いきものたちの天国になったのだ。
石川さんが自然とふれあいながら育ってきた昭和30年代は、日本もまた、国として成長をしているまっただなかだった。のどかだった町の景色は、急に変わっていくことになる。
「ふるさとの地に工場がやってきて、海が茶色くにごっていきました。仙台でも、山がけずられて、家がものすごいいきおいでつくられていったのです。あちこちで自然がなぎたおされていくのを目にしました」と石川さんは話す。
変わっていく町のようすを見て、石川さんは「何十年、何百年かけてつくられたみどりの風景も、壊すときはあっというまなんだ」と気づいた。大学に入り、社会と自然とのむすびつきについて学ぼうと考えるようになった。
石川さんは、東京大学で自然についての勉強をしたあと、アメリカのハーヴァード大学へ行き、街や公園を作っていくための計画や設計のしかたを学んだ。
こわされていく自然の景色があるなかで、街のなかには長い間うけつがれ、街のほこりとなっている公園がある。世界の都市にある公園は、どのように作られ、守られてきたのだろう。東京には上野の森がある。ニューヨークにはセントラルパークという大きな公園がある。パリにはブーローニュの森というこれまた大きな森がある。それぞれの公園には、人の性格とおなじようにそれぞれの特徴がある。
でもいっぽうで、それぞれの歴史ある公園には、なにか通じあうものもあるのではないか。街や公園について学んできた石川さんの心のなかには、そうした考えがあった。その“なにか”をかたちにするため、石川さんはさらに20年をかけて世界の街を歩きまわり、街の歴史が書かれたたくさんの本を読んだ。そして、都市の公園が作られ守られていくには、五つの大切なものがあることを見つけたのだ。
公園を作り守っていくための五つの大切なもの。それはまず「この街に、こんな公園を作りたい」という“夢”からはじまる。その夢をほんものにしていくためには、その場所や時代に合った“法律”や“計画”を考えなければならない。また、じっさいに公園を作るときには“お金”もいるだろう。でも、そうしてできあがったりっぱな公園も、最後にはその街に住む人びとの「公園を街のほこりとして守っていく」という“思い”がなけば続かない。山奥の森ならば、あるていどはそのままにしておいても、みどりはなくならない。けれども街のなかの公園は、その土地が売られたり、そこにたてものが建ったりと、みどりがけずられていく危険ととなり合わせなのだ。公園を愛する人たちの“思い”があってこそ、都会のみどりは守られていく。みどりは街の文化なのだ。
街のみどりの風景が日々かわっていくなかで、いま、世界中のいろいろな場所で人びとが街のみどりを守ったり、作りだしたりしようとしている。
富山県の北西にある高岡市は、江戸時代のお殿様・前田利長がきずいた城下町としてにぎわってきた。街には、こんな歴史がある。明治時代になり、お城があけわたされることになったとき、お城の土地がぜんぶ売られてしまいそうになった。しかし、お城をほこりに感じていた街の人たちは、みんなでお金を出しあってその土地を買い、みんなが使える公園にしたのだ。
それから130年以上たち、公園は、ますます歴史をきざんでいる。しかしこの間、公園には体育館や市民会館などが建てられた。お堀の水もにごってきた。いま高岡の人びとは、もういちど美しいお城のみどりを取りもどそうと立ちあがっている。


大都会のみどりにも目をむけてみよう。むかしにくらべていまの東京は、街ぜんたいが暑くなっている。土だった地面がコンクリートでおおわれたため、日の照りかえしがひどくなったのだ。それに車の数も増えたし、夏は部屋で冷房を使う人も増えた。車や部屋から出された熱い空気が街じゅうをただよっているのだ。
暑くなった空気をさましたり、よどんだ空気を新鮮なものに変えたりしてくれるのは、みどりのほかにない。そのほかにも、人の心を和ませたり、癒いやしをあたえたりと、大都会のみどりの働きはさまざまだ。
石川さんは、そのような東京には「最高のみどりがあります」と話す。
「東京のまんまんなかにある皇居の森は、武蔵野の原風景がいまも受けつがれている貴重な森です。日本の宝物だと思います。丸の内、大手町、千鳥が淵、霞が関…。まわりの街はつぎつぎと“衣ころもがえ”をしていますが、皇居の森だけは江戸時代からの文化の遺伝子がずっと受けつがれてきたのです」
石川さんはみずからの研究で、公園づくりは人の“夢”からはじまることを見つけた。その石川さんにも、いま、大都会のみどりに対しての“夢”がある。
「江戸時代から受けつがれてきた皇居のみどりが、さらに外側へと広がっていったら、東京の街はどれほど豊かになるでしょうか。ビルで働いている人たちも足もとに広がるみどりを見れば、きっと新鮮な考えが浮かんでくるでしょう。東京をおとずれる人にも、このみどりの街が“日本の顔”ですと紹介できるでしょう。東京の中心にある“みどりのハート”を元気に大きくしていきたいと思います」
人の“夢”や“思い”が人へとうけつがれることにより、みどりは作られ守られ、そして広がっていく。